《浜松中納言物語》⑭ 平安時代の夢と転生の物語 原文、および、現代語訳 巻乃一









浜松中納言物語









平安時代の夢と転生の物語

原文、および、現代語訳 ⑭









巻乃一









平安時代の、ある貴にして美しく稀なる人の夢と転生の物語。

三島由紀夫《豊饒の海》の原案。

現代語訳。









《現代語訳》

現代語訳にあたって、一応の行かえ等施してある。読みやすくするためである。原文はもちろん、行かえ等はほぼない。

原文を尊重したが、意訳にならざる得なかったところも多い。《あはれ》という極端に多義的な言葉に関しては、無理な意訳を施さずに、そのまま写してある。





濱松中納言物語

巻之一

十四、中納言帰国を思われること、惜別の宴に企みあること。


父大臣の物語られることども、その言葉、いささかもこの国の人のようにはお想いになられず、中納言の御君、かの故国の人の言葉に違うところなくとこそお想いになられるばかりであらせられる。

語られる御有様もかの国の人の様そのものであらせられれば、ただ懐かしくお想いになられるばかりに、御物語りなどこまやかにして差し上げられるに、打ち解けて、この、三の宮の御皇子が御母后の、その御母堂に別れた折りのことなど語り出でられるがままに、すべて、えも言われずに《あはれ》である。

御遊びなさられ、御文などお作りになられなさって夜も明けて、父大臣、中納言の御君のお帰りなさられるのを、飽かず名残惜しくさえ想われること限りない。

朝ぼらけの山陰、埋め尽くす霧の白濁のたゆたいにつつまれて、御后の御方の妻戸はいまや押し開かれて、簪(かんざし)も麗しく瀟洒を極めた、かの名画に描かれたるようの人々の、軒にまで差し出て御見送りさせていただく様も、御君、立ち止まってはなんども振り返り見なさられながらも飽かず惜しまれて、名残りのそのためらいのうちに


朝霧の峯に

もうもうと、立ち込める霧のなかにただただ彷徨って

帰るべき道さえ

わかりはしない私なのです…


朝霧の峯にもをにも立ちこめて帰らむかたもえこそ知られね


とおっしゃられれば、父大臣の


をに立つや山のかひなる朝ぎりの晴れずばしばし立ちとまれかし


遠い遠い山路のそのただなかに

朝霧の濃く立ち込めて

想いさえも

晴れないのならば、愛すべき君よ

しばしここに留まりたまえ


と答えられるのも、かの国の人に違うことない。

この父大臣の日本の人に馴れ親しみ、その御母堂もかの国の人であれば、この御后の御あたりにご伺候させていただく人々さえも、ああも趣が深いのだろう。

一の大臣の有様、人々の物言いなどは、さすがに見も知らぬ異国流儀、まことにここは異郷の地よとこそお想いになられたことなどと比べるに、終には霧の中に消え、その姿も見えず、想い歎いておられるのだろう霧の中の御人々の気配の名残り、懐かしきかの国の人々こそ、こんなものだったろうよとお想いになられておられるのだった。

この父大臣の周辺の人々であればこそかくも趣も深い別れであって、他の人ならこうはいくまいと、つくづく御嘆息なさっておられるものの、その消えた人影の名残りの中に、尋ねあうべき恋しい人の面影はないままに、うつり香の染みた恋の衣をふと、おひきかけになされられて


執拗なほどに

わたしのからだにこうも最早、染み付いて仕舞ったことさえも

ただ、侘しいばかりのことなのに

どうして留まりつづけるのだ

恋の名残り香よ


なかなかに我が身にしむもわびしきに何とゞまれるにほひなるなむ


何事もなく、やがて冬になっていった。

かのそく山の后は、ご出産の日もお近くなられられれば、御帝にも今一たびさえもお逢いにはなられなさらないで、三の宮の御皇子にもお目にかかられもせずに、ただその日を暮らしていく空しさに悲しみ、押しつぶされるが程の堪え難さに、とはいえ、悩み煩われるふうもおありにはなられなくて、安らかにお生まれになられたその御子、かの人の袖のうちから生まれたかのように御君の顔を写しとられた男子であらせられた。

かれ、まさに宿命の子にほかならない。

為すすべもなく悩ましくお想い惑われなさって、とはいうものの、どうしたらよいものかとばかりの、ご生誕のお喜びのあふれる中に、終にはなにもしないではいられられずに、御事情もよく知り、御心をも許されたわずか、二、三人の人ばかりを呼び寄せて愛でられるのだった。

御后は《あはれ》、かの三の宮の御皇子のお生まれなさられたおりに、御帝、父大臣心よりお喜びなさって、かの子、世の中にちやほやともてはやされておいでであった有様を、御后、このとき想しあわせられるに、心はただ憂く、また、かぎりもなく《あはれ》にお想いになられるばかりで、この子を御覧ずるに、折にふれ、かの人との御契りのあまりの深さのみお想い至られなさられて、

もはや、どうしようもありはすまい、ただ、この御子の何事もなくたいらかにご成長いただくこそが最上の喜びと、

ただただ喜ばれていらっしゃられれば、参じた心許された数人も、わたくしの忍び事として、乳母になるに足る人、後の御育児などお頼みなさられるべき人など探しながらも、ひそかに忍んで隠し養われるに、日に日にすこやかに、やがてはそら恐ろしいがまでに美しくもご成長なさられていかれるのを、御后もときどきにお見かけになりにおいでなさられて、この御子の、なんと稀なる人であることかとさすがに《あはれ》にこそお想いなさられる。

このようなことも、中納言の御君は、どうしてご存知になられられようか。

その年も暮れて仕舞えば、故国が御帝にも御母上にも、三年のうちには帰ってまいりますからと、暇をお申し出られなさったその頃合にもなって仕舞うのだった。

今年は帰らなければ、と、御君、お想いになられておられるに、《あはれ》なることばかり多いなかに、終にかの恋しき人を見ずに帰るのかとお想いになられればただ、侘しい。

故国への帰途につくべき御君の御申し出を、御帝よりはじめられて、惜しまない人などありもせず、

いにしへは十二年くらいはこの国で過ごしてからこそ帰途につかれたものなのですから、せめて五年がうちぐらいはお留まりなさいませ

と、人々集まって惜しまれつつも、

名残り惜しくて立ち去り難いのはまさにそうなのだけれども、さすがに、此処こそ終に棲家と想うには、心も焦がれて、御母上をはじめ、大将殿の姫君など、恋しくも切なく心惑わせる人も多く、この国の人の心になじめもせずに、かの故国の懐かしくのみ想えれば、想いは歎かれるばかり、いずれにせよ此処に留まることも心憂く、ひと想いに帰って仕舞えばおのづから引き裂かれた心も慰められもしようよと、

御君、当然此処に留まる理などありもしないものを、三の宮の御皇子も、そうに違いなかろうとお想い当られなさられて、あえてひき留めても差し上げようとなさらないその御心、御君は、

この世でまたいつお会いできるものやらと、

心細く悲しげな風情をこぼれさせていらっしゃられる御皇子の御気色をご拝見なさっておられるほどに、よろづの理をもくらませられて、やがてこのまま、想い惑ってばかりで時だけが朽ち果てていくものかとさえお想いになられておられながらも、

御君、

母上の想い乱れて息子の帰りを待っておられようものを、見棄てて仕舞うのはできかねて、いかがお過ごしでおられようかと案じられて仕方もなければ、ただその心配のあまりに想い立ったことでございますから、と、

申し上げられなされば道理以外のものではあらず、御一同、言うべきことも何もなくていらっしゃる。

なんにせよ、その身を分けていただいた御母君にあらせられれば、殊に在り難い御方に違いないにもかかわらず、遠い途上に引き裂かれてみれば、そのご心配のほど、なぐさめも出来ない当然であって、ただ、ものもろくに召し上がらずに、御遊びなさるわけでもなくて、悩み煩いつつも御母后を恋しもうしあげておりますものの、逢えもせずにと、三の宮の御君も、御君に曳かれたかのように、いつか、申しあげられなさられれば、御帝も想い驚かれなさって、そく山の御后に、帰りたまえとの御宣旨しきりになさられるのを、御后も、さすがにこのような人の世の行いのすべてを儚む者と、突き放していられるわけでもない。

ただ、心惹かれるかの秘められた御子のことなどくれぐれも人の目に触れはしないようにと、よろしくお托しになられられて、三の宮の御皇子の恋しいこともやみがたくおいでであれば、終に、山を下りられなさられるのだった。

御帝、いつか御行幸なさった折にお見かけなさられてより、ひさしくお逢いおできになられなかったその御面影も、御からだも、香りたち、物想いにやや痩せて仕舞っておられるのを、並ぶものなくただただ美しさのみ冴え勝るとこそお想いになられる。

限りもなくただ《あはれ》とだけ御覧じられて、《やうしう》のうちに、明け暮れ並んでおわされるのを、眼差しにうつるこの世のことのことごとく、ただわずらわしくこそお想いなさりはじめられる。

御后も、その身の負うた御契りのそら恐ろしくも感ぜられれば、それ以上にも打ち解けて差し上げるわけにいかれなくて、

その他の后たち、大臣たち、山深く籠って仕舞って心安んじていたものを、おとなしくそのまま引き篭もっていればいいものに、またこう下山して仕舞ったならば、御帝も絶えず渡られなさられて、珍しくも親しんでばかりいらっしゃられるのを、ねたましくも侘しく想って、ふたたび、聴きにくくも恐ろしいいやがらせも出てくるのだけれども、御后が都にお帰りにおなりになったといえば、三の宮の御皇子、少しばかりは慰められておいでになられる。

なお、この中納言の御君の、御帰りなさられる御日程のほど、次第に近くもなればものども集いて惜しみ悲しがっていらっしゃるばかりだけれども、さすがに御留めさせていただくすべなどなくて、ほど近くなって、御帝、

この人、三年がほどにもこの国にあらせられるのを、よろづの事ども、なににつけてもこの国に、この人に勝る人などなければ、この人も聴くことも見ることも何につけてもこの国に驚くことなどあらず仕舞いだったものを、日本に帰って想い出していただくのもただ恥ずかしいことよと、

起き臥し想い弱られられて、

この国にすべての世の中を驚かすべき事、ゆめゆめにもありはすまい。

とはいえ、《かうやうけん》の御后の容貌有様、琴の声などお聴かせ差し上げれば、これほどまでのもの、この世にあったものかと、そればかりは夢に現に驚いて仕舞われるに違いなかろう。

后とお知らせしてお見せ差し上げお聞かせ差し上げたならば、日本の国で御語られ伝えられるのも軽々しい。

この中納言、この国に長くお留まりになるというならば、万が一にでも過ちの起きないこともないでもなかろうが、すぐに御帰国なさられる御身の上であられれば、心配の要もありはすまい。

后とは決してお知らせ差し上げないで、ただ《やうしう》のうちにある下郎などのように見せ聞かせてさしあげて、この国の無上の想い出に想わせてみせようか、と、

お想い定めになられるのだった。

お帰りにおなりになる御日取りは九月晦日と定められてあるので、八月十五夜は、別れの宴して月をもてあそぼうと言うのに、常よりも微にいり細にいり宴を整え準備させられておいでであったが、そのところ、《ひやうきう》とは、日本では冷泉院などというところのようなところである。





《原文》

下記原文は戦前の発行らしい《日本文学大系》という書籍によっている。国会図書館のウェブからダウンロードしたものである。

なぜそんな古い書籍から引っ張り出してきたかと言うと、例えば三島が参照にしたのは、当時入手しやすかったはずのこれらの書籍だったはずだから、ということと、単に私が海外在住なので、ウェブで入手するしかなかったから、にすぎない。





濱松中納言物語

巻之一


これはすべて、いさゝかあらぬ世の人と覚えず、唯我が世の人に違ふ事なし。物言ひ有様も尋常(よのつね)なれば、懐しくおぼえて、物語こまやかにし給ふに、うちとけ、この后の御母に別れし程の事など、語り出でたるまゝに、いみじう哀れなり。遊びし文作りなどして、明けぬれば帰り給ふを、飽かずいみじと思さること限りなし。朝ぼらけの山陰、こゝら霧わたるに、后の御方の妻戸おしあけて、簪(かんざし)うるはしく、例の絵に書きたるやうなる人々、さし出でて見送るに、立ちかへりやすらひつゝ、

 朝霧の峯にもをにも立ちこめて帰らむかたもえこそ知られね

と宣へば、

 をに立つや山のかひなる朝ぎりの晴れずばしばし立ちとまれかし

と答へたるも、見し世には変らず。この大臣の日本の人に馴れ、母宮もかの世の人なりける故に、この后の御あたりに人は、かゝるなめり。一の大臣の有様、人々の物言ひしなどは見も知らず、誠にあらぬ世とこそ思ひあはするに、遂に行方も知らず、思ひ歎かする人のけはひ有様、その国の人こそ又かくはありしか。この大臣(おとゞ)のへんの人にやありけむ、他人(ことひと)はかゝらざめるをなど、つくづくと思へども、尋ねあふべき方もなきまゝに、うつり香しみし恋の衣ひきかけつゝ、

 なかなかに我が身にしむもわびしきに何とゞまれるにほひなるなむ

何となくて冬にもなりぬ。かのそく山の后は、この頃にやすと思すに、帝にも、今一たびあひ見奉らず、皇子をも見奉らで、空しうなりなむ悲しさを、思し入るほど堪へ難きに、いさゝか例にかはり、悩み煩ひ給ふ気色もなくて、唯袖のうちより生れ給へるやうにて、中納言の顔を、うつし取りたる男にてぞおはしける。すべて変化(へんげ)の子なり。いたく悩み給はしかば、いかにせましと、嬉しきに物おぼえず、心しりの人、二三あつかひ奉る。后は、あはれ皇子の生れ給ひしをり、帝、父大臣(おとゞ)思し喜び、世の中にかしづきあつかはれし有様、この時思し合するに、いと心憂けれども、又いと哀れにも思されて、この人を御覧ずるに、契りの程も浅からず思しつゞけ、今はいかゞはせむ、事なくたひらかにおはするにます事なく、思し喜びて、心しりの人々、わたくしに忍びたる事のやうにて、さるべき人のちあるなどもとめて、私に忍びてありける事のやうにて、隠し養ふに、日に日に物を引き延ぶるやうにて、ゆゝしきまでに美しげに大きになり給ふを、后も密(みそか)に時々見奉りて、いかなるべき人にかと、さすがに哀れに思されけり。かゝる事をも、中納言はいかでか知り給はむ。その年もかへりぬれば、帝にも母上にも、三年がうちに行きかへるべしと、暇申してし程にもなりぬ。今年は帰るべしと思すに、哀れなる事多かる中に、終にこの人を見ずして帰るべきにやと思ひ侘びぬ。かく帰りぬべき心遣ひを、帝より始め奉りて、惜しみ思はぬ人もなくて、いにしへは十二年をだに過してのみこそ帰りけれ、五年をだに過して給へと、あつまりて惜しみつゝ、出し立つべきやうもあらねども、さすがにつひの住所(しみか)と思ふには、心もあくがれて、母上を始め、大将殿の姫君など恋しく覚束なき人多く、この世の人の心強く、深く我が事見え聞かれて、かう思ひ歎かせて、止みぬる事も心うければ、さばれ行き帰りなば、おのづから慰む事と思ひもやたてば、留まるべきにもあらぬを、皇子もさるべき事ありと思せば、えも留め給はぬものから、この世には又いつかはと、心細く悲しげなる御気色を見るにぞ、萬(よろづ)くらされて、やがてかくてもありはてぬべき心地しながら、母上のさばかり思ひ惑ひ侍りしを見すて侍しに、この程にいかゞなりはてぬらむと覚束なきになむ思ひ立つと申し給へば、道理(ことわり)に今暫しとだにいふべき事なし。身を代へたるわれにより、殊にありがたき道をふり離れ渡りたるに、まして實(げ)におもかはりせぬ親を、覚束なく思はむ、言ふ方なきことわりにて、唯物も聞し召さず、御遊びもなくて悩み煩ひつゝ、母后をいみじう恋ひ申し給へば、帝もいとゞ思し驚きて、そく山の后かへり給ふべき宣旨(せんじ)しきりになるを、后もこれにはじめぬ大方の世を、やがて厭ひはてむとだにもあらざりき。唯侘しかりし程の事を、帝に御覧じつけられじと託(ことつ)けて、思ひ入り給ひにし事なれば、何かは皇子もいと覚束なく恋しうおぼえ給へば、出で給ひぬ。帝いつしか行幸(みゆき)して見奉り給ふに、久しかりつる行ひも、物思ひにうち面痩せ給へるしも、いとゞ似るものなく、美しげさ勝り給ふ。限りなく哀れと御覧じて、やうしうのうちに、明暮れならべて坐(おはしま)さぬを、なべての世、あぢきなく心憂く思さる。后も我が身の契り、そら恐ろしう思さるれば、更にうちとけ給ひても御覧ぜられ給はず、后たち大臣山深く籠り給ひしを、少し心安しと思ししに、又かく出で給へば、絶えず渡り御覧じつゝ、珍しういみじう思しまさるを、いと妬く侘しと思して、又いと聞き難く、恐ろしき事ども出でくれど、后出で給ひては皇子少し慰み給へり。猶この中納言、帰り給ふべき程近くなるを、集りて惜しみ悲しみ聞こゆれど、さすがに留むべき方なくて、近くなりぬるを、帝この人、三年が程かくてありつるを、萬の道々の有様、我が世に、これより優る人なかりければ、この人珍しう、きゝも見も驚く事なくてやみぬるが、日本に帰りて思ひ出でむが、恥しかるべきかなと、起臥し思し召して、我が世にすべて思ひを驚かすべき事夢ばかりもなし。かうやうけんの后の容貌有様(かたちありさま)、琴(きん)の声を聞かせたらばしも、かゝる事、さはこの世にありけりと、そればかりにや驚き思ふべき事ならむ。后と知らせて見せ聞かせむは、日本に聞き傳へむも軽々しかるべし。この中納言、この世に久しくあるべくはこそ、もし心にかけて、あるまじき思ひやあらむ事も危ふからめ。后とはかけても知らせで、唯やうしうのうちにある、下郎(げらふ)などのやうにて見せ聞かせて、我が世の思ひ出に思はせむと思し定めぬ。帰らむことは、九月(ながつき)晦日(つもごり)と定めらるゝに、八月十五夜は、別れの宴して月をもてあそぶに、つねよりもいみじう事ども整へて、ひやうきうといふ所は、日本にとりては、冷泉院(れいぜいゐん)などいふ所のやうなり。










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Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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