小説《堕ちる天使》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅱ…世界の果ての恋愛小説(全)
堕ちる天使
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅱ
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
序
フエが胸の上で悲しげな眼差しを曝すので、私は彼女の頭を撫でてやる。
温度。気温と、その、重なり合った体温と。休日の昼下がりに、ベッドの上に寝転がった私の体の上で、昼寝を始めようとして、そしてときに私の顔の造型を指先にいじって見せながら、吐息。
吐かれたそれの、そして息。吐く。
生物の匂いがする。
かすかな。臭気までには辿り着かない以前の。その。いずれにしても、私たちは生きていた。フエの背中を撫ぜた。
たたずむ。
時間の中に。
無為?
あるいはそれ以前の。
だらしなくて、ふしだらでさえあって、為すすべもなくて、どうしようもなく、どうでもいい、その。
私たちの。
泣いていい?
その時間が、私たちにそれみずからを消費された。
…どうして?
不意に指先で私の**をいじって見せて、フエは声を立てて笑った。
涙さえ、ながれないから
堕ちていく。
私は想い出す。…唐突に。
堕ちていく。
それはわたしではなくて。フエでもなくて。そして、誰でもなくて、彼女、その彼女以外の誰でもない、彼女の名前は理沙といった。冴木という苗字の、その。
本名は知らない。それが風俗店での源氏名に過ぎなければ。
堕ちていく身体。悲鳴さえ立てずに。
欲しいの?
理沙は言った。その
名前さえ名乗らない前に、なにが
欲しいの?
その瞬間、私はそれを黙認するべきだと想った。そうすればいいのだった。私が、その瞬間に彼女を見棄ててしまったのだとは、たぶん言獲ない。確実に。事実として私は彼女を愛していたのだし、(…その動詞。)願ってさえいた。私は(なんども想い出されながらも、)確実に願っていたのだった、彼女が(そのほとんど口にされることのない)その(動詞。)理沙が(好き、という、その)いつか、そして今(やや軽んじられて濫用されるあの)救われることを。救われて(形容詞とはたぶん、)あることを。…ため。(あるいは)彼女のために。(確実に差異する、その)私の?(動詞。)私のために。
私のためにも。
まばたく。
私は十九歳だった。
東京に出てきて、そして彼女と出会って、いずれにしても理沙のために、ビールを買いに行ってやって、コンビニに、アジアから来た留学生らしい、たぶん年上の、私より年下に見える幼さをいっぱいに残したその彼に金を払って、マンションに帰って行く並木道に繁殖した樹木の向こう。
わたしのなにが?
見あげられた青空があった。光。そして。
初めて会ったときに
瞬き、そして、私は息遣う。未来などすべて閉ざされて仕舞っていた気がした。ずっと、そんな気がしていたし、私はそれに馴れていた。飼ってさえいたのかもしれなかった。
音が聞こえた。
頭の奥のほうで、しゃ、と、じゃ、と、ぢゅ、と、しゅ、それを75%と13%と7%と43%混ぜ合わせたような音とともに、その、ノイズ。若干だけナーヴァスで、本質的に恥じ入るような、ひそめられたナイーヴさをもったその。
ノイズ。
私をしずかに食い散らしていく。その、音は。知っていた。
どうせ、私を食い尽くすことなどできはしないくせに。どうせ、なにも、歯を立てて噛み砕き、飲み込むことさえ出来ないくせに、その、咀嚼能力さえ欠いたささやかでナーヴァスでナイーヴなノイズが、その口いっぱいにに私を食い散らす。
知っている。それが本質的に抱えているくだらない無意味さを。唾棄すべき、と。なんども詰ってやることさえ、そして?
だから?
それで?
…光。
理沙の部屋の
私は、そして、なにより理沙はすくわれなければならなかった。横たわった床から見上げられたその、
当時の《合法ドラッグ》から始まって、…光。
窓越しの
やがてはお決まりの**剤に。
正午の
…旧日本軍が開発したの。
光。それを
知ってる?
ん?
これ。戦争のとき使ってたらしいよ。
なに?
まばたきながら
日の丸の旗の下で。
どうしたの?
見つめさえして
国産なの。
…ほら
撫ぜたのは
すごくない?
なんだよ?
彼女の頭部、そのかみの毛
「なにが?」
私のからだの上の
私がわらって答えるのを、理沙は聞いていたことがあった。フエと同じように、私の胸の上に顎をたてて。つまらなそうな眼差しを作って、「…なにって…」
言う。
「なにが?」
つぶやくように。
「なにが、すごいの?」…すごいって、…声。なにが?聞く。私は、私の立てた笑い声のその、声の響き。
アルト
理沙がやがてそこからいなくなる、理沙が道玄坂に借りていた部屋の中で。けばけばしい
低い
風俗広告に載せられた清楚な振りをして意外に****。煽りの文字と煽情し、媚びて微笑み、修正された裸身の。そして、ピンク色のあざらかな氾濫の中で、じみな、人体の肌の色彩を曝すしかない
彼女の、アルトの
フィリピン人の女。
渋谷の風俗の女王様。雑誌を開けば、理沙は微笑んでいる。
いずれにしても道玄坂の街路樹越しに、見上げられたのはその街路樹沿いの高層マンションのいかにも歴史を帯びたたたずまいの、ルーフ・バルコニーから落ちそうなほどに体をのぞかせて、理沙は微笑み、私の姿を遥か下の路面の上に見出した、その。それは理沙だった。
理沙は笑っていた。その微笑みが、留保なく彼女が私を愛していることを、私に教えざるを獲なかった。その瞬間に、まるで世界は私たちが見つめあうためだけに生まれこそしたかのように感じられて、想わず、微笑む。私は。為すすべもなく。
手を振った。理沙は。
好き?
ショートパンツしかはいていない。
百合の花、…
どうせ、と、彼女は言うに違いない。
…とか?
だれも見てないからさ…一番、いいんじゃない?それは、…べつに。このあたりで一番、高い建物だった。その居住用マンションは道玄坂の上にあったし、70年代に変更された建築法のおかげで、地区でもっとも古いそのマンションは、周囲でもっとも高い建造物だった。合法にして、違法の。
…大丈夫だよ。
いつもそう言った。理沙は。…かまわないって。
別に。
彼女の部屋は、…だれにも。道玄坂沿いに唯一棟だけある大規模な、…見られやしないから、高層の居住用マンションの、…さ。最上階一個下の、ただふたつだけある巨大なルーフバルコニー付きの部屋の、そのひとつだった。築は古かったが、希少な建築には違いなかった。理沙は砂埃りをかぶったバルコニーに鉢を並べて花を育てた。
無数の。
見て
紫色の花が、私の好みだった。
好き?
なぜ、紫色の花ばかり選ぶのか、理沙は訝った。「…なんで?」花屋で。
どれが
花屋の店員は、(その、)声を立てずに(女が立てていた香水)笑った。
好き?
理沙の好みは、終に知らないままだった。
見あげられた空の、どうしようもない遠さのその、青の、曝された透明な青い部厚い光の洪水のこちらに、やややわらかな逆光の中で、理沙は私に触れようとしたに違いなかった。
バルコニーの手すりに身を乗り出して。
手を伸ばすことさえなくて。性急に、切迫した何かがそれを強制したわけでさえなくて、ただなんとなく、彼女は。
接近する。あるいは、より正確に言うならば。
接近、しようとする。
そのの手すり(白いペンキが剥げかかって、所どこに腐食のあったそれ)、それを乗り越えて、そのまま空を歩くように踏み出して。やがては。不意に。
微笑む
堕ちる。
こんにちは…ねぇ
なぜ?と、想う時の停滞さえなくて、音もなく。
好き?
音がする。
ナイーヴな、その。
理沙は堕ちた。微笑みながら。私を抱きしめてやろうとしたのだろうか?ふと、想い立って。重度の薬物中毒と、アルコール依存に実質破綻し、崩壊し、解体され、壊滅して、滅びきっていて、壊れ果てていて、再起不能で、いよいよひどくなるしくなくて、そして、つまりはどうしようもないヒト種の***にほかならない、理沙の。
海、見に行かない?
そのために、ビールを大量に買い込んでやって。
暇なとき
そんな私を。いい子いい子するために。
そのうちの、いつか
路上ですぐさま悲鳴を立てた女は、私の背後で立ちすくんでいた。二人の女。その片方。なぜか前方に急ブレーキが、そして、後れて、私は振り向く。後方でのささやき声が、至近距離に聞こえた気がして。そのときは、すでに路面が理沙の身体をたたきつぶした後だった。
その瞬間は、私の眼差しにだって捉えることが出来た。
すでに、ひとつの鮮明な記憶のように。舞い散ったちれぢれの血か何かの色彩。
カフェ店舗になっていたマンションのグランドフロアの、その前に止められていたスズキの白いバイクに頭からぶつかって、それをなぎ倒し変形させ破壊しながらみずからの柔らかい首をも破壊して仕舞って、変によじれてにもかかわらずふっとびもせずに、空中に一瞬の停滞を刻んだ後に、斜めに叩きつけられてその、撥ねかえらせられたアスファルトが彼女の頭部を叩き壊す。
空中で爆発したかのようにさえ見えた。脳漿?…と、かたい漢字で表現される柔らかそうで赤いそれら。飛び散って舞い、気付いたときにはアルファルトの上に、理沙の死体はうす穢いそのさまを、ふしだらなまでに曝していた。
あの、空間の一番上で微笑んでいた彼女のその身体は、そのとき、立ち囲んでざわめく人々のつま先の狭間に、数十メートルの眼差しの先で、しずかに動きもなく、曝されていたのはその褐色に灼かれた肌に過ぎない。
至近距離に彼女の死体を取り巻いて、人々は見たのだろうか?右足の先から始まって、太ももを這ったあと、腹部に一度とぐろを捲いて左の乳房を横断して、そして終にはその背中の肩越しに振り向いて牙を剥いた、花を体中に巻きつかせた龍のタトゥーを。
けばけばしい、極彩色の、そして、その、肌の褐色に自然にくすんで仕舞った、その。
人々は、そして、私は彼らの声を聞くしかなかった。嬌声のような、甲高い、興奮した、どこか狂って感じられるそれらの音響。どこかで冷静を確保している、密かに冷淡なそれ。彼らはみんな、おびえていた。
見えたのは散乱
恐怖し、ささやくように怒号を上げて、悲鳴?…の、ようなその、それら。連なる声の、なぜ?
たとえば色彩の無際限の
なぜ、彼らはおびえるのだろう?もはや破壊されて、死んで仕舞って、生き物として留保もなく破綻して仕舞っているにすぎないその、単なる残骸を取り囲んで。
殺意を持って、ささやきあうな
それは、おびえさせ獲るなんらの力も…その生命さえも、いまや持っては居ないはずだった。
ときにつぶやかれた無意味な
音声と時間とお互いの存在そのものを持て余し
重ねるしかなかったのは唇と
肌と心とは
呼び獲ないその冴えた意識の鮮度だけ
私は立ち尽くしていた。
彼女は、と、想う?どこへ行った?あの。
あの、理沙は?
どの?
無際限の色彩の散乱に過ぎなかったたとえば愛と
呼ばれた私たちの時間
思考。
考え。そして感情。
聴こえた?
さざ浪のように、それらはかすかにささやかれつづけて波紋をさえ広げながら反響しあい、重なり合ったその挙句の、どうしようもない大音響を。
聴いた?
私は大音響に包まれていた。怒号のような、その。叫び声と、怒号。図書館で借りて、呼んだことがある。…フォークナー。
響きと
沈黙に等しい。
怒り
私は知っていた。その時に、私は単に沈黙していたに過ぎず、何も聴いてなどいなかった。なにも、私をつつんではいなかったのだった。
葛藤も、逡巡もなかった。
そうするより他なくて、私は単に背を向けて、道玄坂を降りた。「飛び降り?」その男声と摺れ違った。
「…まじ?」歩く。
…やばっ
まじかよ
彼らと、逆の方向に。
若干うざくね?
駅のほう。
理沙は死んだかもしれない。
確実に
とは言え、私は生きているのだった。その留保ない事実を、私は頭の中に咀嚼しながら、そこからなんらかの結論じみたものを引き出そうとさえするのだが、
何の留保なく
いずれにしても、駅を通り過ぎて、その、駅前の。
私が愛していたのは彼女だった
青山から宮益坂でくだって、そして公園通りと道玄坂に上がっていくその盆地の、一番下の底までたどり着けば、理沙のあの事件の、起きたばかりのあの墜落の、その名残さえも残っては居ない。なにも。
綺麗に。もはや、完全に。
なにもなかった。何も知られてはいない。
それは事実に過ぎない。
…何の?
宮下公園の階段を上がって、一番年季の入っている、つまりは私だって顔くらいは知ってるホームレスに、そのままコンビニの袋を遣った。
その男は
地べたに座り込んで、ひなたの日差しをもろに浴びているホームレスは、私を見上げて微笑みもしないままに、
私の顔など記憶してさえいなかったに違いない
何か言った。わたしにはそれは聞き取れなかった。方言なのか、その知能に深刻な問題を発生させているのか、日本語であるに違いないこと以外、私は理解できなかった。
想いなおして、私はビールを一缶だけ引き出したが、それを詰る男に、私は笑い声をくれるしかなかった。たぶん、もはやその、一ダース近いビールのロング缶を詰め込んだそれは、彼自身の私有財産になっているに違いなかった。
男の、明らかにボロボロの、破れかぶれの、異臭を放つ衣類に、そして、日に焼けたのか、あるいは穢れているだけなのか、その黒ずんだ肌に、そして、日差しはそそぐ。やわらかく。
朝の。やさしく。
無際限の癒しを与えたように。
夏の、とは言え、まだ、光は強烈な力を持ち獲ない。ふれて、やさしく、灼きもしないままに肌に浸透していくしかないかのような、完璧に無音の、その。
午前9時。
私はブランコに座り込んで、ビールを開けた。
理沙は私がビールをあけて遣らなければ、それをあけることさえ出来なかった。白ずんで青く、あざやかで清楚な、派手めの短いネイルのせいばかりではなかった。単に指が、そして腕そのものが震えて、あけるまでには大量にこぼして仕舞うのだった。踊るように、細かい超人的なステップを刻むような、力まれた腕の。
指先の。
爪の。
私たちは、殆どの時間を、彼女の部屋の、浴室で過ごした。
築の古いマンションのその、建築当時そのままの名残を留めた、タイル張りの、それはそして、むき出しのバスタブを据えて見せた、バランスを欠いてちいさなバスタブの中の奇妙な狭さ。ぶち込まれた洗濯物かボロ布かのように身を丸めて抱き合いながら。
裸の皮膚に、こぼれ続けるビールがかかって、濡らし、やがては匂いを立てる。甘やいで腐ったような、そして、それが鼻に面倒くさくなったら、ノズルを捩ればよかった。あたまから降って注ぐ冷たい水流が、すべてを流して仕舞うに違いないのだった。いつも。いつものように。
水流の中で、口をおおげさにぱくつかせながら、目を閉じて、ビールを口に運ぶ理沙を見る。
破壊されたもの。
廃棄されたもの。
くず。
ごみ。
こわれもの。
くそ。
どうしようもないもの。
**以下の。
完璧に資格のないもの。
生きる資格の。
死ぬ資格さえも。
壊れるしかないもの。
それ以外には、いかなる帰結も獲ることの出来ないもの。
生き生きとした、まさに、この目の前で生きていてる、なまなましい、その、生き生きとして、まさに、その目の前で生きていたものだった、その生々しかった、その。
…それら、その、記憶。
救われたの?
私は不意に想った。理沙は。あるいは?
すくなくとも、もはやこれ以上破壊されない以上は。
…色彩
私はビールにもう一度口をつけたとき、泣きそうになった。
そして、諦めた。泣くことを。
禁じた、のでは、確実に、なかった。ただ、あのとき、私はたぶん諦めただけに過ぎない。…涙が、すでに、こぼれそうだったのに。
足元の低空を飛び散った脳漿の
いずれにせよ、自分の悲惨な死の惨状を見せ付けてもなお、泣きもしなかった私を、笑うのだろうか、彼女は。…あるいは。
*
* *
午前9時。
声を立てて笑いながら、それでもフエを半ば跳ね除けるようにさえして身を起こし、部屋をでて、声。
「どうしましたか?」
...Làm gì ?
背後の。それは、単純に暑苦しくなってきたからだが、そのときに、私がまだ素っ裸のままだったことに気付くものの、どうでもいいことだった。フエが父親を殺して仕舞ってから、どうせ、私たちのほかに誰もいないのだった。フエの弟、その Thanh タン という名の長身の男は、どこかの女の家と、親戚の、殺された父親のいとこに当る Anh アン のうちを行ったり来たりしていた。
アンのうちでは、その子供たちの世代としては、タンが一番の年上だったから、彼としてもわけのわからない日本人とかならずしも仲がよいわけでもない姉の夫と同居するよりは、そっちのほうが気兼ねもなくて、そして、自分の自由に振舞獲るには違いなかった。
私は、裏面の二つめのリビング・スペースのシャッターを開いた。掻き毟るような音を立てて、そして一気に光が、朝の、その、流れ込んでくるそれに瞬いて仕舞いそうになるものの、切り開かれた視野の向こうには誰もいないなにかの廟が、細い道路の向こうに誰も訪れるひとさえもなくて、ただ、静まり返っているほかない。
外から見たときの、この部屋の開口のつくりがたまたまそうなっているのかも知れない。時々バイクが目の前、むき出しに曝されたほんの十数メートル先を通っていくのだが、結局は誰もこっちを振り向きはしない。バナナの突き刺さるような葉の群れのそこに、そんな家屋が存在していることなど認識されていないかのように。
だから、わたしたちは、そこで、もはや好き勝手に振舞うことも自由だった。たとえば、そこで反道徳的で、いかがわしくて、若干、あるいはあからさまにエロティックな映画じみて、愛し合ってみたとしても。
近所の人間が、折悪しくシンチャオと、顔を覗かせればお互いにバツの悪そうな顔を晒して仕舞えばいいだけに違いない。
後から、フエが声を立てて私を非難する。
何を遣ってるの?
Are you
振り向いて、そして
Crazy ?
…ねぇ、あなたは、何を?
...Anh à
私は声を立てて笑う。フエ、その、取り憑かれたような必死の非難を曝してみせる、その、顔の、フエ。
いまさらに
褐色の肌が、そこまでは届かない日差しの切れた薄い影の中に、しずかに浮かび上がって曝された。自分だって、と、
あの古臭いゴーギャンの
私は想うのだった。まだ、なにも着ないでのこのこと、這い出して来たに過ぎないくせに。
色彩を曝すしかない熱帯の
…退廃?あるいは。
人間はすでに
たぶん、そして、恥ずかしげをもって体のどこかを隠そうとするわけでもなくて、そのまま立ってるに過ぎないフエを手招きして、
「なにしてるの?」
退廃していたのだろうか?
笑う。
Anh làm gì ?
眉間をしかめる。
あなたは、
しかめる。
Anh à...
フエは
なにを?
眉間を。
たやすくも、手招きされるままに近づいてくるフエを、そのまま抱きしめてやった。口付け、…ねぇ、と。
その光の中で?
「…ねぇ」と腕の中で、腕ごと震わせながらビール缶をつかんで。そして私を見上げる眼差しを、ただ、半開きの唇のままに、(そして)言葉を(それをさえ)一瞬(細かく震わせながら。)飲み込んでしまって、理沙。
まばたきもせずに
なに?と私が彼女に言葉をかけてやる前に、もはや理沙は自分が何を言おうとしているのか、忘れて仕舞っていたに違いなかった。
なに?
理沙は、ただ微笑しかなかった。
どうしたの?
そのとき、水流はもう留めていたし、一度洗い流した水の、その水滴のだらしない集合、つまりは乱雑なだけの皮膚のうえの散乱が、お互いの重ねあった皮膚に、水滴のふるえ。
…細かな。
結局はそれが、どっちがどっちのものであるかの意味性をさえ感知せずに、そんな事は無視してさえ、ただ、高いところにあけられた換気窓から差し込む斜めの光に照っていた。眼差しの中の、そして、寒くもない彼女の体の震えが、…それら。細かな振動をあたえて、…あ、と、その予知の隙もなく彼女のひざの頂点に震えていた水滴は、いくつかのそれらをも巻き込んで仕舞いながらも流れ落ちていき、やがては接した私の胸の皮膚にも触れ、水溜まりを作った水滴。…ねぇ、と。
…ねぇ
そう訴える眼差しを見る。フエ、の、その。
外は、晴れ
もっと。キスは熱くて、飢えていて、渇望していて、もっと、悩ましいほどに、飽き足らなくて、さらに、ただ、空しくて、そのうえ、でも、重ねあわさなければ気がすまない、そういうものでしょう?
…ねぇ、と。
…ねぇ
唇を、そしてもう一度かさねて、私は、その私の指先がフエの背中に這うに、任せる。そのまま。
…飢えてるの?
眼差し、まだ、目を、そしてやがては閉じてしまうには違いなくとも、いまだに閉じてやりさえしないその、
…渇望してるの?
フエの眼差しを、光。
…欲しい?
その黒、と呼ばれるべき色彩と
…欲しくて仕方ない?
茶色、その色彩の狭間にゆれるしかない
…泣き伏したいほどに?
色づいた無機質なグラデーションが、フエの、そして、私が
…*******夜の、次の
見てもいない私の黒めにも存在していることなど。
…その朝にまで?
知っている。私は、
…欲しくもないのに、
見た。フエの、その、
…でも、求めるの。
きらめきの存在。
…なぜ?
細かな、
…どうして、そんなに
点在。それら、
…渇望することしか出来なかったのだろう?
反射した光の粒は、留まることなくかたちを崩して雪崩れ、崩壊し、発生して、きらびやかでさえもなくて、しかも、執拗なほどに、ただ
愛し合うしかない私たちは
…もはやつつましやかさも
きらめいて。
ただ獣じみて?
…はじらいさえもなく
瞬く。
…なにが
フエが、そして。
欲しいの?
その瞬間に、私は彼女の頭を撫ぜてやる。愛し合う、重なり合った身体は、
…私は
結局はそのまま愛し合うしかなく出来ている。…ねぇ、と、その。
ねぇ、という、終には、理沙が現実的にはたてもしなかったその音声が、耳の、浅い近くで聞こえた気がした。
私の指先が、私がそれを意志するよりも前に彼女のかみの毛を撫ぜようとするのに、私は自分の意志を確認した。彼女のぬれた髪の毛の触感が、指先に、確かにある。
何度も、吐いたものだった。
体の中の何か、暗くて、重くて、穢らしいものを吐き出さなければ気がすまないかのように、切実で、すこしだけ飽き果てたような眼差しとともに。
見えていますか?
私に振り向いて、そのたびに、その眼差しの意味を確認させようとする。
わたしが
…ね?と。私は空のバスタブの中に、そのまま身を横たえたままに、彼女に眼差しをくれて、理沙は21歳だったはずだった。あるいは、20歳だったのか、22歳だったのか。出会ったとき、私の年齢を聴くと、二つ上だ、と、まるでそれが驚くべき発見であるかのように、そう言ったのだった。
それは、18歳のときに、だった。東京に出てきて、すぐに。浪人して大学に入ったのだという、予備校二年生上がりの年上の友人に連れられていったクラブの中で、その薄暗く、かつ、まばゆい店内の中でも、空気をただ振動させるしかない轟音のなかに、際立って見えるほどに、美しかった。あるいは、綺麗だった。
綺麗、と。
身を屈めてトイレの丸のなかに顔を突っ込んでいた理沙は、やがて、汗ばんだ顔を持ち上げる。
綺麗、と、その言葉に、ある種の鋭い質感があるとするならば、突き刺すような、その。そして。
理沙。便器に片ひじを突いて、息遣って、荒く、そのかみの毛、乱れ、ぬれたままのそれに、光が差す。
フロアに入って、その体を揺らす人体の断片の無数のごちゃごちゃの集合のなかに、光に照らされたわけでもなくて、その震える空気の振動の中に彼女の後姿の小柄さを見留めた瞬間には、私は、はっきりと感じていた。…結局は。
見る。その、乱れた、聞く、息遣われる、彼女の。理沙は身をまげて、唾を吐き、目を剥いてうずいた瞬間に、むき出しの乳房が震えて便器にこすれる。
結局は、彼女と私は愛し合って仕舞うに違いないと。意味もなく。そして、振り向かせた彼女はたぶん美しく、私を彼女は愛するに違いないのだった。…悲鳴さえない。
なにも。
鮮明な苦しみ。…痛み?眼差しに感じられているもの。喉の、灼けつくような、助けてよ、と。彼女はそう言っていたかもしれなかった。そこに。…ねぇ。
お願いだから。
秀雄という名前だったはずの、もはやその苗字など私にさえ忘れられて仕舞った友人に引かれて、フロアの前のほうへ、むしろ通り抜けるために彼女の身体の至近距離に接近して、私は。
そこにそんな風に、時間を持て余してばかりいないで、その、と、そして、あるいは、いずれにしても彼女は、次の瞬間に、指を突っ込んで、背中。
へし折れそうなほどに丸まって。
彼女の揺らしたひじが、私の腹部を打った。回転する証明の逆光が差す。打った瞬間には、感じたはずだった。彼女のひじは、その。
吐く。丸められた、その背中はまだ水滴を這わせたままだったし、
私のやわらかい腹部の息遣い。
そして、彼女の発汗が、さらに皮膚に密集する水滴の群れを油立たせては、震えさえ、そして、理沙の内側に発熱しているに違いないその。
力を入れられているわけではないそのままの。私の、萎えた腹筋に覆われたに過ぎない腹部の、か弱いほどの柔らかさと、不意に、意識さえないがままに押し返した腹筋の蘇生。感じる?
体温?
肉体。生き生きとして、壊れかけの、愛された、私に、ただ、愛され、そして、いつか彼女を救わなければならないと想いながらも、その手立てのなさに、結局はそれをただ見てるだけに過ぎない自分自身をも含めて、丸ごと許してしまったもの。
…何を。
感じた?
何を?…私を?理解する前に、…そして振り向いた、感じられきったもの。彼女の眼差しが不意に行方を失って彷徨って、…存在。やや見あげた眼差しは私を捉えた。
許す。私は許した。何の権限を持って?そう、するしか。そう。そう、して、そう、するしか、なかった、…から?
…見る。
手をこまねいて?
彼女を。
胃液。
聞く。
吐かれた、胃液が唾液の線を引く。便器に突っ込まれた顔が、そしてかみの毛がその縁の白に覆いかぶさって、へばりついて、そして、時には無造作に垂れ堕ちる。
音響、クラブの、そして、女は戸惑った眼差しをくれるが、美しい、と。
堕ちる。
想っただろうか?
堕ちる人。
彼女も。
堕ちる女、その、あるいは、天使。
理沙。…という、その。
ほら
すくなくとも私にとっては、その時に、どうしようもなくかけがえのなかった、それは、その。
見える?
彼女を、私は見つめ、彼女を綺麗だ、と、認識する前に私は理沙の腕を引っ張った。もはや、
君が愛さなければならないもの
悲鳴さえも上げようとしない。ただ、息遣うばかりで。
君は
まだ、たぶん、軽度の《合法ドラッグ》の経験しか持って居なかったはずの。
私を
彼女は。
愛するほかなかった
彼女の。…その、戸惑うばかりのおびえた眼差しは、結局はすでに彼女が私を許していることを証明していた。
私は君の愛を許す
友人にはぐれるがままに任せて、無理やり理沙を引っ張って後ろに引き下がっていくのを、たぶんそこにいたはずの彼女の男は見逃して仕舞う。理沙が、声さえ立てなかったから。男が、いくつかの頭の揺らぎの向こうで体を、そしてその頭部を揺らして、ふとした瞬間に、彼女の不在に気付いて首をぐるぐる回すのには気付いていた。眼差しの、端のほう、思い出せば、視界の中に確認されていたに他ならないもの。
そのときには見逃されて仕舞った、その。
つぶやく。
理沙がなにかつぶやいて、私の腕を解こうとしたので、私はそのまま彼女を抱きしめて、口付けた。無理やり、そして、すでに彼女によって許されているに違いなかったのは、それ。不意の口付け。暴力的な。一瞬の、反射反応のような激しい拒絶と、とりあえずの拒否と、やがては唇の葛藤らしき停滞の次に、容赦なく差し込まれ始める理沙の舌を、ときに歯と歯を触れ合わせながら私は許した。
お互いの体内に、侵入させることを。お互いの、そして、お互いに侵入させあい、感じ取られていたもの。
何を?
愛を?
むしろ
そうとでも呼ばなければならず、絶望的で、無慈悲なまでにそれ以外にはそう呼びようがなく、ときには逡巡し、いつもの、変わり映えのない執拗な葛藤にさえあいながらも、結局は再びそう呼ばれて仕舞うに違いないもの。
悲しみ
…愛。
身を引き裂くような
す、…る。
て。…し、て。
し、た、…愛。
す、
れ、えー、…ば。
した、ら、
す、…るうー、と。
せ、る。
せ、…た。…ら、…せ、たあー、…ら。
し、よう。
愛。
し、よう…
…と、する。す、…れ、えー…、ば。
せ。
…せ。
せよ、し、な、さい。て。
…よ。
て。…し、て、…ください。す、
…る、うー、…な。
な。
せ。
せよ。せ。
て。し、て、
いる?
る?
る。
いる。
よ。る、よ。と、愛して
…る、よ、と。
空間に
そんなもはや唾棄すべき言葉など、吐かれるすべさえなかった。
散乱さするしかない
吐かれる、その。
悲しみ
嘔吐する。汗に塗れて。理沙は力尽きたように、やがて前のめりに、便器にそのまま頭を突っ込んでふらつきながら両足は立ち上がってみようとしたが、ようとするばかりのそれはいよいよ彼女の体のラインをひん曲げるばかりで、汗は伝う。
伝って堕ちる。その、鈍い色彩を曝す、極彩色であるべきその、タトゥー、彼女の肌の色に染まって仕舞ったそれ。
…龍。
...long
一瞬震え、急速に、そして耐えられずに流れる。
堕ちる。
そして、流した。彼女はコックをひねって、あるいは、吐き出されたままのビールと胃液の中に突っ込まれて仕舞った自分の顔ごと、洗い流そうとしたのだろうか?
あるいは。
きっと。
たぶん。
…かも。水を流して、直接鼻を、そして口を穢して洗い流すその水流の激しさに咳き込んで、いきなりのけぞった身体は、勢いそのままに背後の壁に、その後頭部を打ちつけて仕舞うのだった。
脳細胞の細かないくつかが破壊された音がした気さえした。
彼女の内部で
荒れた呼吸。
乱れ、そして、みだれる。
行われるのは
綺麗な曲線。
喉の華奢な逆カーブのかすかな流線が、肩に当ってその突き出した鎖骨にだけ名残をのこして一気の広がりを経験する。
闘争に似た、不確かな葛藤
丸みを帯びた肩越しは糸をたらしたようなか細い二の腕から下に、そのまま垂れ下がっていく。
震える。荒く、震える腹部が、息遣って、あららいで、揺らす。おおげさに上下する乳房のいかにもおおままかなふくらみの上の、その浮き出した肋骨のラインが、皮膚を食い破ってしまいそうな痛々しさで、苦痛に震えながら、震える。
痛みを伴う視覚上の対比として。
激しい上下に、わなないて。
水が、そして油汗が濡らした水滴だらけの身体が、彼女が立てたひざを互いに打ち鳴らして、それに何の意味があったのだろう?
骨をさえ砕いて仕舞うことをもくろんだに違いない、そして。
**していく、彼女のそのあたりの床が、その水分を水平に広げていく。壊れたもの。
壊れていくもの。
壊れているもの。
壊れるもの。
どれなのだろう?もしも、そのすべてではないのだとしたら?
理沙の活けた花に、至近距離まで、その触れて仕舞う寸前にまで鼻を寄せて、匂い。その、それら。それらの束なった、潤って、潤んだ臭気に似た芳香をかいで見たとき、背後で理沙は笑ったものだった。
生け花は母親の趣味だった、と言った。
フィリピン人の、その。
理沙の乱れた息はなかなか止まない。呼吸器自体が、壊れて、破綻して仕舞ったような、その、荒れた、暴力的に、その肉体そのもを内側からへし折ってしまいそうなそれを、見るでもなく私は見て、不意に。
見た?
不意に、そして私は涙を流したのだった。
咲いていた花
悲しいわけでもなくて。むしろ、泣きじゃくりさえしながら、私は彼女をただ見やって、バスタブの中で身を丸め、あの、逆光の中で。
色彩のない空間への裏切りと鮮明な
破壊行為そのものとしての
窓越しの逆光の中で。理沙をクラブから連れ出したときに、あの、十分近いキスの後で。
気付いた?
開いたままの目が、理沙の男が私たちを認めたのには気付いていた。男は、小柄な私がまっすぐに立ったら、見あげなければならないその男は、
いつか立てたその花の
私をひきはなそうとしたが、理沙が
微香に
目を閉じたままなのには気づいていた。何を見ていたのだろうか?その、閉じられたくらい眼差しの中で。
男は二度三度試みた後で、聞こえよがしの舌打ちだけを残して立ち去って仕舞うのだったが、その、長すぎた口付けのあとで、私にとっては、結局は、目を開けたままのそれは、接近した彼女の閉じられたまぶたのこまかな震えを捉えたにすぎず、そのまま理沙に連れ出されたクラブの外で、…こっち。
そう言ったのは彼女だった。飢えた眼差しをくれた理沙。
何に?
キスの後、一瞬だけ目を伏せた後で、クラブの外に私を外に連れ出そうとしたのも、そしてそれを請けがった私が彼女を無理やり羽交い絞めにしたようにして、彼女を
抱擁に
連れ出すのを許したのも、そして、こっち、という若干低めのアルトを耳に確認しきらない内には、その理沙は私の手を引くのだった。
確認しあうことに
円山町の坂を上がって、道玄坂の上に。連れ込まれた彼女の部屋の中で、私は彼女に衣服を剥ぎ取られるに任せるのだし、いずれにしても、そうなる以外に、
なにを?…すでに
選択の余地などあってはならなかった。私たちは、破壊的で、壊滅的なまでに愛し合わなければならなかった。例えば、すでに私たちが愛し合っていることを、もはや
確認されて仕舞ったにすぎないものを
なすすべもなく追認してやらんがために、ただそれだけに、その、気の抜けた、すでに飽き果てられた、どうしようもない、くだらない、子供を生産する以外には何の役にもたたない、何の意味さえもない、そして、愛し合う。
愛し合う私たちは愛し合って、やがては朝。
その、逆光の光に。
眠っては居なかった。まだ、私は目を閉じていた。朝であることには気付いた。体が、そしてまぶたは、そこに朝が存在していることを感じてはいた。カーテンさえ閉じられてはいなかった窓から、野放図に侵入するしかない光の、その、正確な時間などわかりもしないままに。
髪の毛の先で、私の鼻をくすぐって、からだの上にのっかった理沙は声を立てて笑うが、そして目を開けた私は、聴く、その、耳元に彼女の低い、鼻にかかった笑い声。
見ていた。覆いかぶさった彼女の、逆光の中のくらい、微笑んだ顔の、そして、あざやかに匂っていたことに気付く。彼女の体臭が、その、鼻先に、あるいは胸に、おおいかぶせられたかみの毛の、かたくななまでの芳香とともに。「…お母さん。」
おかーさん、と、その音だけを耳繰り返して、背後に立てられた笑い声の尽きた先に、発されたその声。活けられたばかりの花が匂う。聞いた。理沙の声を、耳の中を指の腹でしっかりと撫で付けるようなアルトの、絹の音色。
まま、と、不意に繰り返して、振り向き見た私を見ようともせずに、おかーさま、その、ママ。無為にすぐされているに過ぎない活けられた花の形態にだけ注がれた眼差しは、りー、ざ。何を捉えていたのだろう?
その時には。
だれ?
りー、ざ。
おかあさん?
りーざ、さん。「りー、」と、
りー、
「…ざ」繰り返した私の「りー、…」
「…ざ。」唇の動きを、理沙は諦めたような眼差しに、見つめていた。理沙、という彼女の名前の必然性が、なんとなくわかったような気がした。
「お母さんの趣味が、生け花だったんだよ。」言って、そして、殺された母親。十二歳のときに、と言った。十六歳で、フィリピンで理沙を、あるいは Lisa を生んでから、二十歳すぎた頃にその日本人やくざのお目に留まって、日本につれてこられて、そして広島のフィリピンパブで、田舎のお金持ちたちを食い物にしてやりながらも、二十八歳のときに真鍋悠太という名の当時45歳だった独身男に絞殺、遺棄されて仕舞うその。
発覚後に、撮り貯めされた十本近いリーザとの行為のVHSヴィデオは押収されて、その販売用のダビングテープは段ボール箱2箱ぶんくらいだった。
真鍋の実家は岡山市にあったから、会社のある福山市内の独身者用アパートを借りて住み込んでいた。
真鍋は独身で、女っけもなければ奥手だったが、そんな事件を起こすようには思えなかったと、その、地方の戸建て分譲会社の同僚や、学校時代の同窓生は語った。
店で口説いて連れ出して、両者承諾の上で何度も行為に及び、リーザは馬鹿な客だと同僚に言って笑っていたらしい。
面白いほどにお金をくれるのだ、と。ろくに、お金持ちでさえないくせに。
明日の金にも不自由するくせに。
真鍋の言うところに寄れば、真鍋以外の男にも肌を許したことをリーザがほのめかした瞬間に、激高して仕舞ったらしかった。
首を絞めて殺した、そのあと、復活しないために、もう一度ビニール紐で、喉の骨が複雑骨折を起こしていたほどに何度も締めた。
リーザはキリスト教徒だったから、復活するかも知れないと想った。そう語った。
離れて遺棄するのは忍び難かったので、近くの、広島城の中の茂みを深夜掘り起こして、埋めた。
発見されたとき、死体は死後二週間立っていた。土は、まだその肉体を十分には土に返していなかった。
掘り起こされたその遺体は、解剖にかけられた。彼女の身寄りは、理沙しかなかった。
店の従業員がそれを拒否したため、遺体確認は子供がした、と言っていた、だから、それは、理沙に違いなかった。
記憶の中に在った。
子供の頃、当時の報道番組で毎日繰り返し放送されていた、その《福山市フィリピン人バラバラ事件》の詳細は。
なんとなくの記憶に過ぎないにはしても。
涙の向こうに震えて、その形態を乱して仕舞う理沙の形姿を、私の眼差しが追う。やがては諦めたようにバスタブから身を出して、理沙の前にひざまづく。私は、そしてはっきりとは見定められないその、目の前で、白くくらんであざやかに乱れるむちゃくちゃな形態としてのそれは、そこで相変わらず荒く息遣ってばかりで、目を見開いてむき出したままに、突き上げた顎が上向かせるがままの、その、うつろな視界を震わせているに違いない。
顎先がのけぞるように尖らされて、下唇が痙攣する。
私は彼女を羽交い絞めして抱きかかえ、キスをくれた。長い長い、そして、こまかく痙攣してばかりで、何の反応さえも示そうとはしない理沙に。
くれる。
涙を。涙にくれて。
私は。
その。
涙。
あるいは、滂沱の。
ながれるがままに。
*
* *
フエの、床の上にそのまま横たわった身体に、開け放たれたシャッターを通過した、その朝の光が触れて、やわらかい陰影の中に、空間はその形態をうがたれる。
あるいは空虚な拡がりの中に。
視界のに、まったき、取り返しもつかない存在そのものとして。
何度も通り過ぎたバイクは、だれもこちらに目線を合わせようとはしない。あるいは、あわせているのかもしれない。それに、私たちが気付くことが出来ないだけだったのかも知れない。
いくつかの、バイクの騒音。エンジンの。そして。
かったるくまわる車輪の。
いずれにしても、目を閉じるとさえなくフエは向こうの狭い通りにそのまま目線を投げ捨てて、にも拘らず、彼女がかならずしも何かを見ているわけではないことなど、すでに、気付いている。
見る。庭先に、その道路をまでも、散った庭先のブーゲンビリアのむささきがかった紅が、ただ色彩として乱れ、日に当っていた。
その光に、きらめきさえさせられながら。
まばたき、あざやかな…と。
なんという、鮮やかな、と、私は想う、
フエの頭を、見向きもしないままに探り当てて、終ったあとで、何も言わなくなって仕舞った彼女の額に、指の腹を当てる。
…いずれにしても。
そう想った。
理沙が血を吐いたときに。浴槽の中、転寝を始めた理沙の頭を、取り立てて意味があるわけでもなく撫ぜてやり、そして、やわらかくて、執拗な眠気が眼球の奥のほうの至近距離から進入してきて、あとは為すすべもなくて、目舞う。
なにが、目舞ったでもなくて、そのにぶくて甘い感覚に対する抵抗力が終に奪われようとした瞬間に、不意に屠殺された動物のような唸り声を喉に立てて、理沙が吐いた血は私の胸元から、やがて腹部に、たれ堕ちて下腹部をぬらし、吐く。
血を吐いて、身を曲げ、えづき、目を剥く。
反対側にのけぞって、ときに、そして髪の毛が乱れる。
死んだら?
私はつぶやく。頭の中で。死ぬしかないよ。
…違う?
指は震えている。
彼女の、細い。
フエの指先は
行き場所などない。
そしてかすかなふるえを見せながら
すでに、ここが終着点だから。あるいは、…。
床の御影石の上を掻いた
…違う?
そのときに、私が
それを過ぎた場所。
たてた笑い声を彼女はたぶん
…だろ?
聴く
あるいは。…大丈夫?
…と。「大丈夫?」とだけ口に中で私が…ねぇ。つぶやいたとき、その「お前、ほんとに…」呟きを耳にした私は、私が「だいじょうぶ?」久しぶりに声を発したような気がした。まともな、人間らしい声を?
だい、じょ、…ぶ。
理沙は、そして。
…じゃ、ない。…かな?笑う。
彼女も、声を立てて笑った。
「死んじゃうかな?」
光
「いつ?」
まばたかれるしかない
「死んだら、」
その
「お前、」
光
「…ね。」
直視されずに
「いつ、」
いつも
「わたし、死んだら、さ。」
だって
「死ぬの?」
直視できないから
「誰が、するんだろ?」
まぶしくて
「いつ、」
斜めに
「葬式。」
若干の
「死にたい?」
その
「誰が私の葬式…ってか」
傾きの中に
「雨の日?」
光
「墓、」
見留められた
「晴れの日?」
光は
「つくるの?」
そして
「台風?」
ふれていたのは
「死体の始末するの?」
皮膚
「いつがいい?」
私たちの
「山の中に棄てちゃうと犯罪だよね?」
曝した
「俺、」
あるいは
「やばくない?」
空間の中に
「雨の日がいい」
曝された
「死にたくない」
与えられる
「…春。」
温度
「なんか、」
その
「桜とか、」
感じ取られた質感に
「死にたくない。」
想い出されたのは
「咲く前。」
いつかの夢
「生きてる限り、死ななきゃいけないんだけどさ」
浅い眠りの
「まだ、」
その中で
「やばいよ、」
朝に
「寒い頃」
崩壊していく
「やばい。」
その
「冬の終わり」
知覚されなかった
「死んだら。」
空間の中に
「雨の中で」
下から上に
「まじで、」
吹き上げられていく
「…朝。…朝がいい。」
静かな
「…ね。」
上昇
「今、しねない」
音もなく
「まじで、」
無数の花々が
「春じゃないから。春はもう、」
ただ、散乱する
「行き場所なくなっちゃうよ。」
色彩の
「終っちゃったから」
氾濫として
「…ね?」…違う?
いつでも。
いつでも、理沙は留保なきまでに綺麗な笑顔として笑うので、いつも、彼女が本当に笑っているのだとしか想えなくなる。
花々は
あるいは、本当に笑っていたのだとしても。
無際限なその空間の中にただ
上昇していくばかりで美しいとも、あるいは綺麗とも
想わないままの私はそれを
見つめるしかない
激しい嘔吐のために、目に涙を一杯にためて、ときにこぼして仕舞いさえしながらも、華奢な体を骨格ごと揺らしながら声を立てて笑う。日差しが差す。昼間しか会わない。
夜と早朝はいつも、他の男のそれをくわえこみに出勤するのだから。
店がはねたらときに外で待ち合わせて、渋谷のクラブを回ってみる。
時間が過ぎて行く。
渋谷。…早朝が好きだった。夜の時間の留保なき終焉の、あまりにも明晰な兆しが、路面から始まって大気中を満たしていた。希薄なままに。
もう終ったものは取り返すことが出来ない。悔恨?
そんな感情さえ追いつかない、時間など流れている気さえしない単に停滞した、白んだ気配に満たされて、私たちは笑うしかなかった。理沙と、私と、ときに松枝圭輔や、北浦茂史や、かれらとつるんだ時間の終わりの、味気ない、…のではなくて。
笑うしかないから、私たちは笑うのだった。かならずしもおかしくもないままに。
出会ったばかりの頃、その春の昼下がりに、不意に理沙は起き出して、化粧ポーチをひっくり返した騒音が私を目覚めさせたのだった。不審な、そして揺らいでさわぐ不安感が私の喉もとを襲って、…壊れるの?瞬き、それを背中で察したに違いない理沙の振り向いて微笑んだ、…壊すの?笑っている、と、そう言うしかない笑顔は私を半分癒しきってしまう。
どうして
とはいえ、そう。
君は私を癒して仕舞うのだろう
もう、完全に壊れきっているのに?
君の悲惨を、そして惨状を
半分の癒しきれない騒がしさを取り残して仕舞ったままに。そして、
ただ見せ付けるだけなのに
まだ、何も壊れてさえいなかったのに。私は笑ってやるのだった。彼女のために。
その、不意のいたずら心のために。
困り果てて、ふてくされたような顔をして、どうせ途中までしかしないくせに、いつも逢えば重ねるほかない肌と肌の、そのせいで理沙も私も裸のままだったが、光。差し込む、大学にはもうほとんど通いもしないままに入り浸った、渋谷の高層の建物の中の、それは上空だったからなのか、まだ、なににもべたべたと触れられてはいない静かで、どこかで凛としたたたずまいさえ曝していたのだが、その光、空気も含めて、冴えた、その。
たとえ、夏であったとしても。春の、まだ桜さえ沖縄で咲き始めたばかりの、その浅い春が、醒めない冷気を持って、空気は私たちの皮膚に触れた。為すすべもないあたりさわりのない自然さしか持たずに。
花。匂う。花々が。理沙は、いずれにしてもやがて片っ端から枯らして仕舞うにしても、買い込んでは部屋のいたるところを埋め尽くさずには置かない花々の匂い、そして、微笑みに飽きたに違いない理沙が、フロアに胡坐をかいて座って、化粧品の山をまさぐり、探す。何を探しているというあてがあるわけでもないことには、お互いにもう気付いていた。
過ごされあうお互いの時間。その交錯。その只中で、にもかかわらず指先に触れたピンク色のリップを取って、何も見ずに唇にぬってみる理沙を見る。
私を捉えたままの眼差しは、ふるえさえもしなかった。
絶えないのは私の微笑み。耐えがたいほどに、愛すべきもの。美しい、いわば社会そのものの**。理沙。穢い***。**以下の残骸。あるいは私も?かならずしも、あるいはまさに、私こそは。
不意に声を立てて笑ったので、理沙は、そしてふたたび私の眼差しははっきりと合わさったその焦点の中にくっきりと理沙の姿を捉えるのだが、日差し。斜めに差して、おどろくほど褐色に染まりきった肌に陰影を刻む。
何が?と。
何がおかしいの?
その問いかけを吐く余地さえ与えないままに、理沙も笑いながらリップで、その体にでたらめな線を引いた。
もう一本の赤いリップと。重ねあわせさえしながら。
指先に挟まれたそれらが、肌に色彩を与え、色彩。人種の問題?褐色の、…いずれにしても、太陽の光そのものを、他のいかなる存在よりもいっぱいに吸収して、みずからの破綻すれすれまでに自分の、本来、黒くはなかったはずの皮膚を染めきらないではいられないような、むしろ飢えたような貪欲な褐色に、瞬き、意図もないままに引かれていく線のなぞる色彩が、私は、その息づいた皮膚の上に息遣うのを、見る。
…ほら。
理沙が言う。ベッドまで這ってきて、匂い。横たわった私に嗅ぎ取られた、かすかな。混濁した、その、「…ね?」聞く。
じゃない?…
耳元の、彼女の、嗅ぐ。におい。
香り。
匂われたもの。花々の、そして人より豊かなかみの毛の、肌の、体臭、それら、まざりあって、漂って、鼻を撃ち、…ほら。
そう言って、覆いかぶさった理沙は私の唇に、そしてやがてはからだ中に線を引くのに、…ね?任せる。
笑う。くすぐったくて、優しい抵抗を私は曝して、戯れられる時間の濫費。
君と居ると、時間などすぐに経って仕舞うのはなぜだろう?そう、私は想って、指を伸ばせば。それ。指先がふれたのは、理沙の唇。好き?
見えますか?
言った。
匂いたち
「…ね?」
散乱して
なにが?
見えますか?…眼差しに
「好き?」と、理沙が言って、何が、と、そう問い返すしかない私に理沙は
見えているものが
ふてくされた顔を曝して見せるが、すぐに笑みに崩れて仕舞い、
その
「…わたし」
眼差しが
「お前?」
ときに
「好き?」
ひそめられた
「好き。」
気配を
「嘘。」
嗅いで
甲高い、理沙のわざと立てた笑い声を聞く。なんで、と、理沙は「なんで、あんた、嘘しか言わないの?」口走る。私の腹部に、「…ねぇ、むしろ」でたらめな曲線を描いて、「死んだら?」口づけた。
理沙の指先がつまんだそれに当てられたリップが、それにピンクと、赤の色彩を与える。体内に入り込むしか能のないもの。それが、リップの油じみた、ぬれたような触感を感じて、声を立てて笑い、私は馬乗りになった理沙の首に手のひらを当てる。
綺麗でいたい。理沙は言う。誰よりも、なによりも、と、彼女はくちずさむように言って、瞬き、短いキスを額にくれて、温度。感じられた、「誰よりも穢いから。」体温。「わたし、さ。」知ってるでしょ?
「誰よりも穢いから、」彼女の「だから、」発熱したような「誰よりも綺麗でないと駄目なの。」あたたかな体温が肌に触れる。
自分の体温など、誰も自分では感じられない。自分の体臭でさえも。そこに息づいてさえいるのに。
そんなことは、もう知っているはずなのに、むしろ私はおびえて。
高校のとき、恵子という名の、もはや苗字も忘れためがねをかけた女が言った。いい匂いがする、と。
どこに?
何が?
皮膚から?…だれの?
見えますか?
体温も体臭もまるで嗅ぎ取られない自分の肉体は、いわばまるで、死体としてしか自分自身にとっては認知されない気さえした。
綺麗?
やがてはひざを立てて、理沙は立ち上がって、ベッドの上の、その理沙のからだを下から見上げれば、逆光の、柔らかい陰影が彼女の形態を浮かび上がらせた。…ね。
またぐられた眼差しの向こうに、いつもよりも遠く。
綺麗?と理沙は言った。「…どう?」むちゃくちゃに引かれた赤いラインが、彼女が息遣うたびに皮膚の上にこまやかに踊る。
震える。
ゆらぐ。
痙攣を刻む。
わななく。
母親が死んだ後の、一応の後見人になっていたのは、そのフィリピン・パブの経営者だったが、理沙は結局は彼の***になっていただけだった。あてがわれた店の寮には週に二三度、様子見と当座の食事と当座の小遣いと、その見返りを求めに男は来たし、その、北見俊介という50近い離婚歴のある男が理沙に教えたのは、軽度の《合法ドラッグ》と、******すべだった。
十三歳の理沙が魅力的だったのかどうかは知らないし、単に北見という男の趣向に過ぎなかったのか、あるいは、何らかの見返るくらいはもらってしかるべきだと想われた、その見返りとしてそれしか当然、なにも持たない少女にはありもしなかったからだけなのか、そんな事はわからない。
中学校には殆ど通わなかったし、そこで彼女が教わったのは同級生に****ときの身の処し方に過ぎない。要するに、冗談のように、受け入れてやるしかない。店に出て自分で稼ぐには見かけが幼すぎれば、誰かの***にでもなるほかない。
いずれにしても、唐突な家出は繰り返されて、過呼吸と嘔吐の発作に襲われながら、十六歳になったときに、本気の家出をして東京に出てきた、と言った。
歌舞伎町を皮切りに、複数の風俗街で働いて、それから渋谷にながれて、そして、私の皮膚に口紅をぬって遊ぶようになった。何度も堕したから、もうボロボロのはずなのに、相変わらず妊娠を繰り返すのだと言った。生命力。強靭なそれ。
壊れないんだよ。言った。しつこいくらいに。下腹部をなぜて。
死のうにも、なかなか死に切れないもの。
途方もない時間と労力をかけなければ、死に絶えてはくれないもの。
死んで仕舞ったように、理沙は身を横たえたのだった。仰向けに。遊びつかれ、はしゃぎ飽きて仕舞った後で。口紅を、落としさえせずに。
彼女の傍らにひじをついて、私の肌と並べると、それは、白と黒の鮮やかな対比をつくっていたはずだった。自分の視界がかろうじて捕らえた、自分の腕の白さが、そして、彼女の腹部に這わされる指先の、その、白さがピンクの線に穢された褐色のうえに、私は見惚れてやる。
あるいは、見惚れるほどに綺麗だった。事実として。荒稼ぎをして、ほとんど使い切りもできないままに、ほかにしようがないから口座の中に溜まっていくしかない金銭の束。
時間を気にし始めるにはまだ早かった。
午後3時半過ぎ。
もうすぐ、今日も陽が暮れて行って、裸になるために店に行く。くだらないスタッフに愛想を言われて、数をこなしていく。潤んだ目で、不意に、「…わたしみたいなの、穢ないって想うよね。」そう言ったら、「ガイジンだし…」男は食いついてくる、と言った。
その一面において本気の甘い言葉がかけられて、そして理沙は男の頬に口付ける。ためらいがちに、臆病で、想いきれないままに。何も誓いはしない、誓いの口付けのようなもの。
活けられた花。
想いあぐねたように、重なったままの私の体を払いのけて、立ち上がって、そのままバルコニーに出たとき、その素肌を、その春にまだ若干遠いはずの冴えた、冴えきった上空の大気は、風になって触れて行ったはずだった。
バケツ一杯に張られた水の中になげこまれた花々を、手に触れるものを気まぐれに抜取ったにすぎないようにして選んで、振り向いた理沙は、窓ガラスの向こう、私に微笑をくれた。
ここにいます
誰も見ているものなど
わたしは
いない。
そこに、裸の、体中に口紅を塗りたくった頭のおかしな女が、綺麗に、美しい花を持ってたたずんでいたとしても。それを見留め獲る眼差しなどは。その、光に貪欲すぎる肌をじかに容赦もなく、音さえ立てない暮れ始めの執拗な日の光がしずかに灼いていっているのだとしても。
色あせさえさせられずに、むしろ、色彩をだけ、与えるしかなくて。
…だれも。
そこで、私たちが愛し合っても。
だれも。憎みあっても。
見留めるものなど。
あるいは殺しあったとしても。
なにも。
命を与え、生み出す歓呼の声も、誰かを扼殺しはてる叫び声さえも、あるいは、誰かに壊される恐怖の悲鳴さえも、大気は終に地に触れ獲ない上空に、まるごと流し去って仕舞うほかないに違いない。
不意に、窓の向こうで声を立てて笑うので、私は立ち上がったのだった。強制されもせずに。室内にまではその声は聞こえずに、私は室内の、どうしようもない無音を聴くしかない。
細かな雑音に塗れた、静寂にもなりえないその、たんなる、いわゆる無音。
理沙が手を振った。誰も掃除しない窓のガラスはかすかにこまかなよごれの白濁を点在させる。
理沙は、背を向けて、ルーフ・バルコニーの向こうの端にまでゆっくりと歩き、彼女の向こうに、斜めに、代々木公園をさえたくわえたの渋谷の風景が、ただ、広がる。風は、彼女のかみの毛を乱すしかない。
わななき、ざわめきたって、ときに絡み合いさえして、もつれ合うこともなくて、髪。黒く、長く、解け、乱れ、ゆらいで、ながれた空間の中にそよぐ。光の白の反射を泳がせて。かみの毛、その、散乱するばかりの束なりを、私は眼で追うしかなく、愛している、と。
結局のところはそうつぶやくしかなければ、そう言って仕舞い、そうつぶやかれて仕舞えば、あとに為すべきことなど、あるいは為し獲ることなどほかに、何もありはしないのだった。
…愛。出会って、愛していると、そうつぶやきあった、あるいはそれ以前の、言葉に墜落するその以前にさえ、見詰め合って重なって、お互いの直感そのものとして了解されて仕舞ったその瞬間には、あの、留保もなく完全なる一致の瞬間。結局は、すでに、すべては終っていたに違いなかった。
燃え尽きて、焼き尽くされて、燃え尽きるがままにまかせるしかなかった、だから、いまや、燃えカスの中で、必死に重なり合い、重ねあおうとして、抱き合い、自然として一つになりあおうとするように出来ているにも拘らずに、完全な一致など見ることのない、でたらめな肉体のかぶさりあいにすぎない無様なその行為に、何かの一致を夢見もした。
何も、そんなものからは獲られもしなかったにも拘らず。繰り返される何度もの中で。新しい肉体が、その、何かと一致することさえ出来ない固有の、その特異性にだけ倦むしかないそれ、子供をでも生産する以外には。愛。すでに、始まったときには終って仕舞ったものとしてしか、経験されない、絶望的な、無慈悲な、その、理沙がかみを掻き上げる。
ベランダの手すりに背を持たれて、理沙は私を見つめた。その、私からはよごれた窓ガラスの向こうに。彼女からは、あるいは窓に斜めにあたった鮮やかな、色彩もない反射光の向こうに。
左手に花をいっぱいにつかんだままに、理沙の指先がそのからだの形態をなぞってみせて、そして、私を促すように、…ね?
…と。
ね?
彼女の指先が、自分のそれを確認するのを、私の眼差しは確認する。
胸が苦しいほどにいとおしく、そして、為すすべもない、その存在。
…ね?…と、その、声さえたてない唇が、かすかにだけ開かれた。私の眼差しに追い詰められて。その眼差しに見留められたただ中に、理沙は自分をなぞる。
肌に風が触れて、そして、それ以外ではない。街の臭気さえ届きはしない、その身を曝された上空の光。
瞬く。
理沙は、見て、微笑む。窓の向こう、眼差しの正面に、私の指先も、私のそれに触れて、そして、同じようにそうするのを。
窓の向こう。美しい、とても美しい存在を、私は見つめて、私は見つめられながら、私たちは見つめあう。
終末。…終ることさえ、もはや通り過ぎて仕舞ったに違いない、その先で。その先の、無際限な時間で。生まれ変ったら何になる?
そう言ったとき、理沙は言った。
花。…すぐに咲いて枯れてくやつ。
例えば?
月見草とか?…いいんじゃん?桜なんかより、もっとはかないよ。一時間、もたないからね。
笑う。
ふれる。
なぞる。
見る。
撫ぜる。
見つめる。
つかむ。
息遣う。
そして、私は手を伸ばして窓ガラスに触れて、その向こうの彼女の形態を、ガラスの上に撫ぜた。
何も言わないままに。
フエは、まるでこのまま死んで仕舞おうとするかのように、脱力しはてた、疲れきってもいない身体を日差しに曝すしかないが、私はほら、と言う。
…ブーゲンビリア。
庭先の、その。
その花の、英語名も、ベトナム語も知らない。
ベトナム、この国のあらゆる場所に、咲き誇るしか能がないが程に咲き乱れているあの花の、その名前。
何語なのだろう?ぶーげんびりあ、…それは。
むらさきがかった紅。花びら。すでに堕ちて仕舞った、その。
コンクリートの上に、乱れ散乱してときには風に揺らぎさえして。
背後で、たぶん荷物を届けに来たのかも知れない宅配便の鳴らしたに違いない呼び出しベルがなって、私はそれから遁れるように、不意に、バルコニーへのドアの外に駆け出るのだった。私の体を、瞬間、荒れた上空の風が撃った。風は、強すぎはしないものの、弱々しくはない。その、力を失わない微風が、ときに突然の突風に煽られる。
理沙は瞬いて、笑う。指先は、そしてそのかたちを、…笑う。押し広げて見せて、微笑み、笑った。遠くから私に、キスを投げた。…ね?
声もなく、理沙の唇のふるえだけが、そう言ったに違いない。
ほら。
逃げ出す理沙を追いかけて、私はルーフ・バルコニーを走る。追い掛け回し、喚声を上げて逃げ、危ういところで逃げ出して理沙は、私は笑った。
理沙と同じように、そして、いつか息が荒れれば、体内も温度を持って、皮膚が汗ばんでいたことを自覚する。彼女が逃げやすいように、逃げる余地を作ってやりながら、追いかける私は息を弾ませていた。
心臓は鼓動した。血管の中に、そして理沙の血液も、躍動しているに違いなかった。その瞬間には感じられてはいないその鼓動を、胸に耳を当てて、聴いてみたい衝動に駆られた。
足の裏に、砂をかぶったコンクリートのざらついた触感が。そして。蹴られたコンクリートが残した、足の裏の触感。
触れる。
指先に一瞬触れた彼女の肩の皮膚の触感を、私の指先は追い求めて懐かしむ。抱きしめなければならない。抱きしめて、そして、口付ける。
理沙の腕の中に花が音を立ててゆれ、いとおしむように抱きかかえたまま、逃げ場所がないわけでもない理沙が、不意に手すりの向こうに飛び出したときに、…飛んじゃう?
想った。
ときに下から
飛びたいの?
突き上げるように吹く
笑い声。
突風の中に
飛べもしないくせに。
何を見たの?
ルーフの尽きるすれすれにまで走っていって、急に振り向いて、両手を広げて見せる理沙は、振り返り見た瞬間によろめいて堕ちそうになる。
悲鳴を立てた、その声は風に流れた。笑う。私はゆっくりと、彼女に接近して、じっと。
じっと、だよ
じっと、してて。
…ね?
じっと。
いい?ほら
…ね?
じっと
そう、大袈裟な手振りの意思表示を曝す無言の私に笑いかけた瞬間の、理沙を突風がよろめかせたが、終に彼女を抱きしめた瞬間、足を踏み外しそうになって、私たちは重なり合った声を上げた。悲鳴だったのか、笑い声に過ぎなかったのか。
喚声、…というしなかない、不確かな、あるふたつの生き物の立てた音響。
抱きしめた瞬間に、私の皮膚が一気に感じた取ったのは彼女の、まったき存在。体温と、かすかにぬれた触感と、べたつく、そして体臭は風が洗い流して嗅ぎ取れはしないものの、それら。
接した皮膚の前面にだけふれ、包まれた気さえした。しっかりと。腕の中に包み込んだ、腕が、つかみとるように、そして、瞬間、すでに包み込まれている。誰に?
…何に?
理沙が、ややあって、ながいながい私たちの口付けの最中に、諦めたように投げ捨てて仕舞ったその片手いっぱいの花が、ゆっくりと落ちていくのを、私は眼差しの片隅に確認した。
堕ちる天使
モーリス・ラヴェルの《イ短調のプレリュード》をばかり、いつも繰り返し聴いていた理沙が不意に、「これ、…さ。」
言ったとき、向こうを向いて、ベッドの上、ひざを抱えてすわっていたその背中に、私はたぶん見惚れてさえいたのだった。
「パパさんが好きだったんだよ」
それはあの北見という男のことには違いなく、私はフローリングに、ひじを付いて横たわったままに、その伸ばされた指先が、彼女の前に流されたかみの毛の、その向こうに流れ落ちていく曲線に触れようとする。
「なんか、しょうもない。
あいつ
…わたしみたいな、…いたいけないガキだよ。
まじで、…でも
そんな、身よりもない、
じゃない?
だいたい外人でさ、…国籍もない。
わかる?
そんな十二、三の女の子に手だしするしかないような、そんな、
くずだよね
能無しの
正真正銘…
犯罪者。…打ってたから。いっつも。
でも、
あいつも。血管に。だから、
笑う。
すげぇ、
まじで、笑えるんだけど
やせてんだけど、そんなやつ。
あいつさ
あんなヤツ、ずっと
私にだけは打たないの
聞いてるの。こればっか。」
打たなきゃ、普通、やらないのに
…と。
「好きだったのかな?」…あいつ。つぶやく。はしゃぐように。
「お前も、好きなの?」…んー、と。
そう口籠って、すねたような媚を作り、不意に、声を立てて笑った。「聞き馴れちゃった。」…だから、聴いてんの。
「…そっか。」…でも、…ね?
「綺麗な曲でしょ?」かみの毛にふれようとしていた、私の指先はその至近距離に停滞したままだった。
その停滞に、意味らしい意味などなくて。
指先に、すれすれの、触れられてはいない先の、その鮮やかな触感があった。
肩越しの龍が遠い向こうをただ、眺め遣る。
2018.08.13.-08.14.
Seno-Lê Ma
連作第一編はこちら ↓
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