小説《underworld is rainy》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅰ…世界の果ての恋愛小説(全)
以下は、連作小説《イ短調のプレリュード》の第一編《...underworld is rainy》を
通して読めるようにまとめたものです。…とはいえ。
逆にネットだと分けたほうが読みやすいという、そん気もしますが。
連作の全体は
・掌編《イ短調のプレリュード》
・1《...underworld is rainy》
・2《堕ちる天使》
・3《scherzo; Largo》
・4《堕ちる天使》
・5《silence for a flower》
全体的に、モティーフはソフォクレスの《コロヌスのオイディプス》、オイディプス王が両目を引き裂いて以降の、その後の物語、ですね。
すべてが終った風景の中に、それでも、あるいは故にこそ休みなく生起し続ける声の群れ。
…そう言ったものを、追っかけてみようと想ったのでした。
ちなみに、《イ短調のプレリュード》と言うのは、モーリス・ラヴェルによる、
ピアノの初見練習用の、短い練習曲です。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
以下の《...underworld is rainy》は、だいたい、原稿用紙で100枚くらいです。…たぶん。
気に入っていただければ、幸いです。
2018.08.22 Seno-Le Ma
…underworld is rainy
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅰ
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
序
旅行に行こう、と妻が言った。
何の前触れもなく唐突に言ったので、振り返って、…え?、と、そして、ベトナム人の妻は日本語が話せない。笑う。私はベトナム語がまともに話せない。
英語の、不意の響きに何を言ったのか聴き取れずにいると、日差しにまばたきながら妻が笑って見せるのが、むしろ私への軽い軽蔑さえ含んでいるようにさえ見えて、想わず笑うしかない。
雨の日の、その朝の、かすかな冷気が服を着る前の肌に、じかに触る。鳥肌を微かに立てたフエの褐色の肌に、日差しが堕ちた。
ベトナム、中部の町、ダナン市。
そして、この亜熱帯の町にも雨は降る。台風も来るが、それは数年に一度、故国、日本のそれに比べれば、子ども程度のひ弱さのものに過ぎない。単なる、風の強い一日にすぎないその日に、ダナン市の学校は休日になる。
誰も殆ど外出しなくなった、もはや廃墟じみた町の中を、過剰な風圧に晒されてながら、バイクを飛ばすのが好きだった。
結婚式があるのだと言った。
どこで?と言うのに、あくまでも微笑んでしかいない彼女が、結局は何を想っているのかはわからない。雨がやまなかった。静かに、日本の小雨のような雨が降って、やさしい光が私たちを、部屋の中に照らし出していることは知っている。
私は、見やるのだった。自分の陽に灼けた皮膚の褐色を、14歳も年下の妻の同じような褐色の腕のこっちに、眼差しの中で並べてみさえして、そして、私はまるでベトナム人のようだと言われた。ベトナム人にも、たまに顔を合わせる日本人にさえも。
雨はやまない。
あくまでも静かに、そしてそれは執拗なまでに、日本へはもう4年近く帰ってはいなかった。
雨は、日本にもやまない。LINEの無料通話でかけてきた母親が言った。土砂降りの雨がもう三日も降り続いている、と。
そう、と、つぶやいて、気をつけて。そう言うしかない私は、やがて画面の向こうで、当然のように母も笑う。当たり前の仕草を私たちは曝す。誰もがそうする、あるいは、そうするしかない仕草を、とは言え、ベトナムの雨。
開け放ったガレージの向こうに、薄い日差しの中に、裏庭のバナナの木の数本の羅列の向こう、広大な何かの廟が見えて、それらと、樹木もまた細やかな雨に打たれた。
妻の実家の家は大きい。敷地は広くて、日本の小さな町の公園くらいはあった。その中に平屋の古い、まるで廃墟か何かのようにしか見えないコンクリート造の家屋が、その三分の二を埋めていた。
最初、結婚する前にこの家を始めて訪れたときに、何事だと想ってしまったくらいの広さ、その。日本を含めた外国の企業のせいで土地は高騰していたから、売れば大金持ちになれるはずだった。
見えない、壁の向こうのココナッツの木が、背後の庭では、同じように雨に打たれているに違いなかった。
その、広く、古い住居には、もはや私と彼女と、彼女の父親しかすんではいなかった。そして、その父親は彼女が殺して仕舞った。半年近くもまえに。理由は知らない。
いずれにしても、殺さなければならないほどに、その瞬間、彼女は彼を憎んだに違いない。
娘は一歳にならずに死んだ。去年の夏に大量発生した蚊が撒き散らした感染症か何かのせいで。私は、その英語名を知らなかったし、知ろうともしなかった。いずれにしても、Hoa、…花、という名をつけられたその生命体は、小さな顕微鏡サイズの生体の繁殖に破壊されたのだった。
私は妻を、…彼女が殺してしまった男の父親によって、Huệフエ、百合、と、そう名付けられたその女を慰め続けるしかなかった。この世界の苦痛の一切を、口から無理やり差し込まれた鉄柱のように飲み込んで、体内を破綻させてしまったかのような、ただ、無意味で、長く、とめどない悲鳴のような泣き声をあげ続ける、その。
Vợ đẹp.
妻が言った。私は振り向いて、
…妻は綺麗です。
え?
聞き返した。私は、…え、という、明らかな日本語で。たった一音に過ぎなかったにしても明確な、その、やがていたずらを仕掛けたような微笑みをくれ続けるフェは、そのまま私に、赤い案内状を差し出したのだった。
来週の日曜日だった。8月の29日。そして、それは日曜
日だった。新郎の名前は、Phạm Anh Tuấn ファム・アン・トン、新婦の名前は Nguyễn Thị Yến Nhi グイン・ティ・イェン・ニー、場所は、近くの、日系の企業が開発したバナー・ヒルと言う巨大な遊覧施設だった。
その、新婦が綺麗な人だ言ったに違いないことを私は了解して、フエの頭を撫ぜてやった。
フエは、そうされたならば、そしなければならないかのように、そうされたなら、そうするようになっているかのように、ただ、私にしがみついて胸に顔を押し付け、擦り付けて、かすかな笑い声さえ鼻から立てるのだが、私はフエが、泣いているに違いないと、何の根拠も、何の必然もなく確信した。単なる錯覚に過ぎないことをは十分に認識しながらも。
彼女が、泣いているわけはなかった。
惨劇の風景。
散々迷ったあとで結局は、惨劇と、そう月並みな言葉で片付けてしまわなければならないほどの、鮮やかな、その。いずれにせよ留保無き惨劇。
その日、フエは朝早くに私を起こした。そのくせ、キングサイズのベッドに垂らされた蚊帳の中には、一歩たりとも入ってこようともしないで。いつもは、かけもちの日本語教師の仕事に、朝早く出掛ける私が、ゆすって起こしやらなければ目覚めもしないはずなのに。予感も何もなく、覚醒しきらない眼差しの向う、その日も雨の日の、白くかすんだ光の色彩に真横からさされて、フエは立ち尽くしていた。
フエは、憑かれたように、そして、どうしようもなく疲れきった声で、私の名前を、例えばアダージョのテンポでつぶやき続けていた。メトロノームのような律儀さで。
パステル・カラーのピンク色の、彼女の寝巻きの色彩。間違っても趣味がいいとは言えない、ベトナムでよく着られている子どもじみたその、そして、彼女は明らかに、その全身に誰かの血を浴びていた。匂うほどではなくとも。すくなくとも、かすかに鉄錆びた臭気の感じられるほどには。
それが他人の血に過ぎないことはすぐにわかった。呆然としながらも、フエの身体が壊れてはいないことは、すぐに私は直感していた。それとこれとには、明らかな差異があった。壊れかけていたのは、その頭脳の中の、あるいは精神と、…心と?言われなければならない、そっちの機能の方なのだった。
見れば、明らかだった。
私は、どうすればいいのか、身をもたげるまでの猶予の間に、考えをめぐらし、そして、結局は何も考えられてはいなかった。
…どうしたの?
その言葉を、英語で言ったのか、
What’s happen ?
ベトナム語で言ったのか、
Chuyện gì vậy ?
日本語だったのか、
Dou shi ta n de su ka ?
それさえ、そして、彼女は困ったように、人より端整なだけでたいして美しいとはいえない顔を終には泣き顔に崩して仕舞いながらも、声を立てて笑った。私を、必死になって慰めようとするかのように。彼女は涙を流す。
滂沱の涙。そう言っても差し支えない、むしろ、そう言わざるを得ないそれ。奔流、とでもいうしかないもの。
私は気付いていたのだった。その日が、特別な日になること。フエはアカウンターを勤める会社を休まなければならないだろうこと、そして私も、予定通りの授業などこなせないばかりか、たぶん、彼女と同じように大きな穴を開けなければならないこと、そして、そこから先のスケジュールなど、すべて、一時解消して考えなければならないだろうこと。あるいは、生活にさえ取り返しようもない穴が開いて仕舞うかもしれないことも?
どうしたの?
再び言った私に、その言葉をは、フエは直感的に理解していたにすぎない。フエだって、何語が話されているのか、意識さえしていなかったに違いがない。
起き上がって、たれさがった真っ白い蚊帳をはぐると、血の匂いがした。蚊帳を通さずに直接触れた眼差しは、捉えられた彼女の体中を汚したその誰かの血の色彩の鮮やかさに、ただまばたいかざるを獲なかった。
結婚式は、フエの働いている日本の貿易会社の、同僚の結婚式だった。もちろん、私は会ったこともなかった。
花嫁は、勝気なフエがそう言うのだから、為すべもないほどに美しいか、あるいは、民族的美感覚の差異をこえて、美しいという言葉の意味を彼女に再び教えてやらなければならないほどのひどい出来であるか、そのどちらかに違いない。なぜだろう?
なぜ、と。
なぜ、フエを抱きしめてやりさえしなかったのだろう。目の前に、涙を流しながら笑っているフエを。その血まみれの彼女を。
彼女は明らかにそれを求めていた。何も言わなくとも、何の仕草をするわけでなくとも、そして、本当に彼女を抱きしめようとしたならば、間違いなく血に穢れたからだをよじって、あるいは声さえ立ててそれを拒否したに違いなくとも、彼女はそれを求めているばかりか、そうされることが当然であることを、たぶん、知っていた。
私と同じように。それを、はっきりと求めたわけでさえもなくて。
私は彼女を抱きしめなかったことに、あとで気付いた。そして駆られたのは彼女への裏切りじみた行為への後悔だったが、結局は、私が何かをしたわけではなかった。埋め合わせとしては。その埋め合わせようもないものをは。
フエが、わたしのその明確な裏切りにさえ気付いていないことをは知っていた。そして、彼女が、いま、彼女が裏切られたことを確実に自覚しているに違いないことをも。
寝室のドアは開き放たれたままだった。蚊帳を出ると、フエはそのまま、私を見つめたまま後ろ向きに後ずさりをして、ときどき躓きながら、私を先導した。
バイクに、壁に。そしてテーブルに、放置された椅子に。
私から目を離さずに、そして彼女は涙を流し続けた。涙腺が破壊させられて仕舞ったような、涙の、完全に壊れてしまった流出。あるいは留保無き過剰生産。
たぶん、私はもう、私がどんなものを見なければならないのか、気付いてさえいたのだった。目の前に血まみれの女がいるのだった。そして、彼女は笑っているのだった。私を、いつくしんで、少しでも私を傷付けないで済むように、やさしく、ただただやさしさをのみ心がけるその。そして、泣き叫んでいるのだった。目の前に存在しているその眼差しでだけで。
私は見ていた。後ろ向きで私を先導し続ける彼女の、周囲の、いまだ屋内に収容されているままのバイクや、テーブルや、洗濯かごや壁に派手にぶつかり、ときに、激しく撃った背中は息をさえ詰める、混乱してばかりの惨状を。
いたずらのようになんども繰り返されて、そのたび彼女を傷めさえして、そしてその馬鹿げた騒音を聴き、フエは私から目線をはなし獲ずに、私もまたフエを見つめていたのだった。
もはや、彼女はいかなる声さええあげられないで、荒い、乱れた息を、唇と鼻の両方から吐き出すだけだった。
ソファにぶつかって、フエは後ろ向きにひっくりそうになる。
何が起こったの?
と、私は、それでも疑問をばかり抱き続ける。言われなくても、見ればわかる。何が起こったのか、そして、わかっている。知っている。気付いている。だが、同じ強度で、私は何もわからない。
フエに、ついていく。なんども躓いて、ひっくり返りかかる彼女を、一度も抱き留めさえしなかったのは、なぜなのか。
フエの、胸元が汗ばんでいて、乱れてい。荒く。骨格を内側からへし折って仕舞おうとするかのような、胸元の上下。
彼女が導いた、その父親の部屋のドアは開け放たれていた。フエがそのままに、背中からその部屋に入っていくのを、私は見つめた。
彼女が何をしたのか、私にはすでにわかっていた。言葉以前の、明確ではないが、鮮明な認識として。
部屋の中は荒れていた。
突き当たりの壁に、吊り下げらたハンガーを引きずり倒して仕舞いながらぶつかって、フエが息を詰める。凭れた。背中ですがりつくように。
ベッドは二つ。今は使われていない彼女の弟のそれ、その上には、ハンガーが通されたままの衣類が散乱していて、扇風機が床に倒されていた。ファンが上を向いて、未だに回り続け、音を立てて、そしてフエは壁にぴったりと背中をつけて、私を見る。顎を突き出して、微笑み続けながら。
向って左側、ちょうどその手間で、窓越しのななめの陽光が切れてしまっているその先の壁際のベッドの、自分の父の惨殺死体には、フエは、目線をくれようともしない。
一瞬、私は残酷な気がしたのだった。たしか Ngọc ゴックという名の彼が殺され、首を変なほうによじってこちらを向き、それでも、しがみつけるはずのない壁にしがみつこうとしたかのように腕と足ををひん曲げて、向けた背中には果物ナイフと、日本の包丁が突き刺してあった。
果物ナイフのほうは私が彼女にやった、日本で買ったイタリア製のもので、日本製の方は、結婚する前、彼女が自分で買ったものだった。一緒に行ったデパートの中で、必死に、私に色目を使って見せながら。
日本人の奥様になるんだもん。
日本製の包丁くらい使わなくちゃね。
そんな、意識されないままの、全く無意味で無根拠な媚態。
その死体は、その、ひん剥いた眼と口の、あまりにもこれ見よがしな憤怒の表情もあって、むしろ、私を一瞬笑って仕舞いそうにしたのだった。そして、私はいまさらながらに、戦慄、といしか言いようのないもの…恐怖とはいえない、どこか透明で、研ぎ澄まされた、冷たい鋭い感情にさいなまれつづけててた。
彼女が、父親を殺したのは、もう、気付いていた。寝室の中で血まみれの彼女の姿を眼差しが確認した瞬間には。それは、彼女の目が大粒の涙を噴き出させたときに、容赦のない強度で確信されさえしていたのだった。
まさかこんなことが、と、私は、目の前の風景が、いまだかつて見たこともない風景であることの実感に、おののいてさえいた。今この瞬間は、…と、初めて体験する一瞬なのだ。
その実感が、なぜ、あんなにも圧倒的でなければならなかったのか?
それ以上その感覚に関わっていたなら、やがて失心さえしてしまいそうな気がしたほどに。
意識さえ、むしろ鮮明にくらんでいく。
土砂降りの雨だ、と、そう母は言った。
舌を咬みそうなほどの早口で、もう大変だ、と。
母親は自分からは無料通話を鳴らすことはない。使い方がわからないのではない。無駄な金をかけるかもしれないことが、嫌なのだった。無料、と聞いて知っているにもかかわらず。
その日、日本語学校から帰ってきた私に、見ろ、とフエはつけっぱなしのインターネットの画面を指差した。私も知っていないこともなかった。日本で、大雨が降って、土砂災害が多発している、と。
西日本をほぼ横断する、大規模なそれ。崩れ堕ちる山肌、なぎ倒される樹木の群れ、流れ出しあふれかえる泥色の濁流、崩壊する村落、家屋、破綻した市街地。
学校で、生徒からさえ言われた。先生の実家は大丈夫ですか?
ベトナムのテレビのニュースでも見た。あざやかな泥色の濁流が山を削る画像。それなりの時間を割いて、取り上げていたから、誰にでも、いやでも目に付いたはずだった。その前に、かなりの規模の地震があったことも知っていた。その前は記録的な渇水だった。母親が言っていた。今年は、全部が、変だ。
去年もそんな事を言っていた。その前も。子どものときから、そう言っていた。今年は異常気象だ。そして、いつだったか、子どものときに、いたずらな眼差しを作って、そのうち、世界は滅びるかもね…耐え切れずに母は声を立てて笑い、私は彼女を喜ばせるために、わざと怖がって見せた。
派手に。これみよがしなほどに。
泣き叫んでやる。お母さん、…世界が終る日は、僕と一緒に死んでくれる?
そうだね、それだったら、…ね?…みんな一緒だったら、…ね?さびしくはない…ね。
約束してくれる?…お願い、約束してくれる?
やがては、その演技の結果、本当に私は世界が崩壊する恐怖と、一緒に十羽一絡げに死んで行くしかない、とても安らぎになどなれようもない安らかさを、実感さえし始めるのだった。
もはや、私は嘘の涙を流していたのではなかった。
いずれにしても、ベトナムのテレビ画面を見ながら、日本の自然災害のニュースが世界中で大きく報道される理由がわかる気がした。たぶん、日本が世界にとってそれほどまでに重要な国だから、ではなくて、親日国が多くて、誰もが日本に興味をもっているから、ではなくて、災害が日本ほどには多くない日本以外の国にとって、それは、驚くほど刺激的な映像なのだった。そして、安全な映像でもあった。そこは、日本ではないのだから。
日本を襲う巨大な津波も、大陸にまでは到達し獲ず、太平洋を渡ることなどありもしない。
どの時間帯のニュースでも、山が崩れて、濁流が家屋を飲み込んでいく映像が流された。
人々はそれに見入った。文字通り、目を点にして。比喩でないほどに釘付けになって。
大変だよ。
一応は心配して、一日おかずにかけた通話の向うで母親が言った。母親は家にいた。脳梗塞で半身不随になった父親は、介護ベッドの上で陽気に手を振る。
ひどいものだ、と、微笑み、そして、嘆いた。町の地図が変わっちゃうよ、大変なことだよ。
母親の家はなだらかな高台のてっぺんにあったから、山崩れも何も、心配はなかった。数百メートル先の山が崩れない限りは。とは言え、その山は、あくまでもなだらかに一度傾斜してさがり、その上でゆっくりと隆起していく、高くもない山なので、普通に考えて、彼女のうちが何かに飲まれることも、崩れて仕舞うこともありえない。
地震で、地面がひび割れるか、陥没でもしない限りは。
いずれにしても、その周囲は惨状を広げた。どこもかしこも、土砂に埋もれるか、濁流に浸りこむか、無傷な土地は、母親たちのその高台の、わずかな三世帯だけだった。
…君が?
…You ?
フエを見なおした私が言ったのは、ただ、その短い言葉だけだった。
Em làm … …làm …vậy… làm…
ベトナム語を、口につぶやきかけたとき、とっさに、文法をすべて忘れた。君がしたの?
私にも話せた、もっと、慣用句程度の簡単な文法だったはずだった。
君が?
私は、言った。
お前が?
フエはなにも反応をしないままに、
…ねぇ。
私を見つめ、めりこんでしまいそうなほどに壁に背をぴったりつけて、泣きながら笑っている。
ずっと。
彼女に近づいて、抱きしめてやろうとした瞬間に、眼差し。彼女の。
涙に輝く、その。
それがまばたいて。
私は彼女を殴った。容赦なく。力の限りに。
からだがへし折れたようにくの字に曲がり、私は蹴り上げる。失心しかかった汗まみれの横っ面をもたげようとし、頭を上から踏んづける。突き出された尻は蹴り上げられ、つかんだ髪の毛ごと、壁にたたきつけた。
涙と一緒に、鼻水さえ、フエが吐き出したことは知っている。わたしはその触感をさえ、感じる。触れてもいないそれを。
彼女の身体は、まさに、汗ばんでいて、私は見つめた。
まるで穢いものを見るように。
フエは声をさえ立てない。息遣い、そして私のひざが、立ち上がりかけた彼女の腰を蹴った。そのとき、両手を挙げて、まるで何かに降伏したかのように、体を反対側に折り曲げるのを、私は見た。
体温。彼女の発熱する体温を感じた。折りたたむようにして、床に倒れ臥して、フエは、そのつかんだ手が吊り下げられた蚊帳を引きちぎった。
蚊帳をかぶった、その身体を、私は踏みつけた。のどから声が立った。
フエの首根っこをつかんだ私が、彼女をその部屋のバスルームに連れ込むのを、彼女は、何の抵抗もしなかった。フエは、ただ涙を流して、その表情はもはや、ただ、無意味な悲嘆にくれていた。
何かを嘆いていたが、何を嘆いているのか、自分自身、わかってさえいないはずだった。もはや、何も考えてはいない。それが、はっきりとわかる。体にもつれた蚊帳を剥ぎ取って、髪の毛が乱れ、汗と血で、彼女の額に、首に、張り付く。私は頬をひっぱたく。白目を剥いて、白熱した、白濁した意識の中で、ただ、何をと言うわけでもなく、明晰にすべてを嘆く。
眼差しが。
嘆いた。
首筋が。
汗が。
息遣いが。
逆立った耳の横のかみの毛が。
指先が。
私の手がつかんだ、その皮膚が。
体温が。
体臭が。
もつれる足が。
私は彼女を、バスルームの壁になげつけて、しがみつくようにその指は壁を掻く。
しがみつけるものは何もない。
くずおれて、私の眼差しのそこで壁を舐めながらひざまづくしかない。痙攣じみて、からだをふるわせて仕舞いながら。
ベトナムの家屋に、バスタブなどはない。
私がコックを全開にして、冷水を浴びせるのを、彼女は見上げた。水流に激しくまばたき、待ち望んでいたように、おびえた表情を曝しながら首をへし折りそうなほどに顔を上げて、そして、吊り上げられた魚のように口をパクパクさせながら。
私がひざまづいて、彼女を抱きしめるのに、フエはまかせた。
私は、母が送ってきた画像を見た。実家…と言うべきなのだろうか?私が二、三度しか行った事がない、広島の外れの小さな町の、どこもかしこも崩壊した、小さい画面に映し出されたちいさでささやかにすぎない画像が、5枚くらい、私のLINEの画面に並んだ。それが、大きな破壊を捉えた画像であることくらいは知っている。
他人事のように、私は興味を持って、その見慣れない風景を見た。大雨と、土砂災害の、決して見慣れたわけではないが、インターネットで見慣れていると言えないわけでもない凄惨な、と言ってしかるべきと解釈されざるを獲ない風景が広がっていた。そして、いずれにせよ二、三度しか行った事がないそこは、実際、見慣れない場所には違いなかった。
父親の自営した建築会社が二十年近く前に倒産してから、実際には、彼らは借家を転々としていた。
だから、そこで生まれ育った経験はなく、両親の居住地を持って実家と言うべきなら、そこは間違いなく、私の実家であるほかはなかった。
そんなことはどうでもいい。私にとって、実家と言うものはそういうものだったし、そういうもの以外のものでは、もはや、なかった。
まだ雨が降っています。…そう、母親は、画像から一分後れて、メッセージを送信してよこした。
記憶があった。
単純な記憶だった。まだ小さい頃、小学校の三年生とか、四年生くらい?宇宙の写真。広大な、その、たぶんNASAか何かの提供によるところの、その。子供用の宇宙図鑑の、それ。世界がここにあるのだったら、いずれにしてもそれは始まったのだった。例えば、それが時間と存在そのものの始まりであって、存在と時間のうちには、その起点をさえ持ちえず、その意味では始まりの《時》さえもたなかったとしても。
それは、結局は、いつか終るのかもしれなかった。その、存在と時間の終わりの、想像もつかない明瞭さに、私は恐怖した。
実感できない以上、その明確な実感さえなく。
フエのからだを洗ってやった。
誰が?
…Ai
私は、
…Who
言った。
Dare ga ...
誰が、殺したの?
私よ。
Là em
言った。
Me
…そう。
言葉もないままに、私はうなづいて、彼女の髪を洗った。濡れた、血を染み付かせた寝巻きを剥ぎ取って、そして、彼女は私の寝巻きも剥ぎ取った。
簡単な作業だった。私はショートパンツだけで寝ていたのだから。
私たちは、冷たい水の流れに自分たちの体を洗い、慰めあうしかなかったかのように、やがて体温は、冷やされていく。私の皮膚が感じる彼女の体温は。
冗談のように、フエは私のそれを手のひらでつかんで、
なに?
言った。
これは、
微笑む。
何ですか?
声を立てて笑い、
Cái gì ?
その瞬間に、水流は彼女の唇の中をまで濡らす。
君のだよ。
ぬるい水流にぬれたはずの粘膜。
答える。
…口の中の。
Của em
その瞬間に、そのどうしようもない無意味なその冗談に私は声を立てて笑って、戯れあい、為すすべもない。
壁の向こうには、当たり前だが、まだ、あの男の滑稽で、凄惨な死体が、死んだまま放置されているに違いなかった。
私たちが始末しないかぎり、他には誰もいないのだから、放置されていざるを獲なく、そして、私たちはいまだにいかなる始末をもくだしてはいない。
涙を流し続けているのには、気付いていた。その水流に洗いながらされながらも。
フエが、私の、そして腕の中で戯れてもがいてみせながらも。
声を立てて笑い、じゃれて私にしがみつき、私は額にキスをする。
…ね?
シャワーの水の、かすかな錆びた味が、唇にだけ広がった。
好き?
外は雨が降りつづいていた違いない。...yêu không ? この時期にはめずらしい、かすかな、細かい、繊細な、雨が。
わたしの、からだ。
目に触れるものすべてを白濁させた、その雨の色彩を広げながらも。
好き?
眼差し。それは、
…すべて。
涙を湛えたままに、さらに、水をかぶって。
ね?
ぬれて、ぬらし、
わたしの、
ほら。…ね?
心?
拭いて。…と、
すべて。わたしの…ん、
言葉にもせずに、拭いて御覧、涙を。…私は。
好き?…
まつげを撫ぜる。その。
…すべて。
指先で。
...Anh yêu em
愛してるよ。
ひざまづくようにして体を拭いてやると、フエは上半身を折り曲げて、私の頬にキスをくれた。
私たちは、眼差しをあの男の死体に横目にくれながら、寝室に帰って、警察を呼ぶ前に、もう一度愛し合った。
日本は、どんなところですか?
フエが言った。
英語で。
How about Japanese nature.
ベトナム語で。
Nhat ban the nao ?
...life, ...and,
日本語で
culture
にほんわどでっか?
...Sống, ...văn hóa
綺麗だよ、と私は言う。
Là đẹp
いつだったか、なんどか、きまぐれに、話されるべきことがもはやなくなって仕舞ったときにも。
Tuyệt vời
例えば、出会ってすぐのころにも。…あなたは、...anh à 日本に帰ってしまいますね?
Thật
帰りませんよ。
南部の町、サイゴンで。夜になっても温度が冷え切りはしない、部厚い熱気の張った、あの。
あなたは嘘つきです。
…サイゴン。おびただしいモーター・サイクルの騒音。
嘘つきではありません。
南部の、あの雨期と乾期しかない都市で、その、雨期の毎日の数十分の土砂降りの雨の中でさえも。
日本は、どうですか?
美しいですか?
ええ、美しいです。
私は嘘をつく。私はすでに知っていたのだった。地震と、大雨と、土砂崩れと、津波と、川の氾濫と、不意の熱波、熱帯の町をさえ越えた夏の強烈な暑さと、雪の寒さの容赦ない破壊性と、火山の噴火と、地崩れ、地割れ、そこに、そもそもの逃げ場所さえなくて、結局は、その瀟洒で小さい、大陸の人間にとっては単なるミニチュアのようであるにすぎない島に住む人々は、その、巨大な破壊と破壊の生起の狭間に生息して、生き残った人々、死ななかった、あるいはまだ死んではいない人々であるというに過ぎない。
明日の保障は、本質として一切ない。
まばたく。
出会ったばかりのころ、そして今も、私の顔が至近距離に近づくたびに、フエはまばたいたものだった。まるで、はじめて見る風景に戸惑ったように。体温を、触れ合う寸前の距離で立てながら、まだたき、まるで、ただ戸惑う以外には為すべきことなどないかのように。
唇が触れ合うまでのその数秒に満たない一瞬の間に、一度か二、三度。
私はその、いわば祖国と言うべきもの。あるいは、その場所を、棄てたのだった。フエが、私の裏切りを確信していたから?…あなたは、日本に帰って仕舞います。或いは、その裏切りの確信を裏切ってやるために?…あなたは、わたしを棄てて仕舞います。私はフエを愛していたのだろうか?彼女が、おそらくは私を愛している程度には?
愛。
何をすれば、それを愛と呼びうるのか、結局は私は知らない。
フエの唇に指先で触れてやり、彼女がまばたくのを待つ。不意にまばたく。その、至近距離に、ぼやけてゆがんだ褐色の形態が、そして彼女を見つめる。
息をさえひそめずに。
フエが鼻に息を立てて、私がふとかすかな笑い声を立ててしまった意味を、フエは知らない。
彼女は、思いあぐねたように、再び言うのだった。《日本はどうですか?》沈黙を、あるいは、波だった疑問形以前のクエスチョンマークの残像と戸惑いの気配の無意味な連鎖を打ち消すために、波紋の広がりにあがなって、その答え。
いつもと同じ、その、《…美しい》と、それを聞くことになることをは、すでにふたりとも知っている。
私たちは、確信していた。何も口に出されることもなく。私は警察にフエを突き出したりはしないし、フエは自分を法などに売ったりもしない。結局は、誰かが殺してしまったことにして仕舞うに違いなった。
望まれない不意の侵入者が。
あの男の死体をは。
男は、男があったこともない、誰も、一瞬たりとも会ったことがなく、聞いたことがなく、見たこともない、顔のない男が、何の気配さえないままに殺して仕舞った。
フエと私は、もう一度シャワーを浴びた後で、二人で、ベッドの上の汗に塗れた体を流し合った。フエが警察に電話をかけたのはその後だった。
土砂がひどい、と母が言った。朝、うちでカーテンを開けて、土砂降りの雨の中に、向うの山が白く霞んでいるのを見ていたら、いきなりその斜面が崩れたと言った。数キロ、あるいは1キロとちょっとの距離の、それ。
「なんにも、聴こえなかったけどね。」
遅れて、彼女はその遠い轟音が鳴っていたことに、耳の中のどこかで気付いた。目の前のそれは、ミニチュアの山の模型が壊れてしまったような、ちいさな、雨に白濁した瀟洒な風景に過ぎなかった。
もちろん、それが、その触れ合いかけた近くにおいて、すさまじく暴力的な現実に他ならないことには気付いている。
すごいものだよ、と、母はあきれたように言った。
暇つぶしのように、母親は、毎日電話をくれた。彼女は、もはや暇な時間を持て余すだけだった。いたるところの土地が、そして道路が氾濫した穢水や土砂に埋まっているので、外に出るのも大変だし町の地図自体が変わっているし、開いている店に行っても、結局は何も売っていないのだから。
でもね、…と。行ったコンビニの、ミャンマー人のアルバイトの日本語がとても上手だったのよ。
母は大袈裟に驚嘆してみせたのだった。
ミャンマー人、すごいのね。
私は笑った。
警察が来る前に、私はフエの、血に塗れた衣類を丸めてバイクのシートの下にしまって仕舞ったし、彼女は鼻歌さえ歌いながら、私のそんな献身的な協力に、じゃれつてみせた。
Cám ơn anh
私は彼女の頬を軽く叩いた。
ありがとう。…わたしの
バイクに乗ってきた警察官は、
わたしだけのために
私をはほとんど尋問しなかった。私の代理は、フエだった。
私はその尋問の間中、彼女の近くに座って、警官とフエの唇の動きと、眼差しの動きの繊細さだけを、ただ、追った。
学校の方も、フエの会社のほうも、問題などない。かりに、私とフエがこの世界に存在しなくなったとしても、何の問題もなく、無理やりにでも誰かが処理して仕舞うに違いない。私たちがかけがえもなくも重要な存在だったとしても。あるいは、であるならであるほど、むしろ迅速に。そうするより他に、なすすべなどないのだから。
警官が、不意に、想い出したようにフエを問い詰めた。私はその仕草にあきらかな演技を感じた。
カマをかけたに違いない。私は、声を立てて笑いそうになった。彼らだって、馬鹿で無能なわけではないらしかった。一応は、私たちをも疑ってはいるのだった。
いわゆる完璧な密室殺人だったから。ドアは内側から鍵が閉められていた。警察が来るまで、私たちは鍵さえ開けていなかった。単純に、忘れていたのだった。そんな事など。
警官は、水浸しのシャワールームについて、聴いたに違いなかった。何度も、そっちの方を指さして、そして、フエは沈黙し、しかめ面を曝し、そして、何度も私を見返して、思いあぐねたように、顔を伏せ、警官に何か言った。
警官は声を立てて笑った。
私を見つめ、そしてにこやかに私の肩をたたき、早口のベトナム語で私にまくし立て、手のひらと手のひらをなんども叩いて見せた。
要するに、お盛んなんだね、と。
フエは言ったに違いない。死体を発見したときに、動転して、私たちはお互いの体を洗いあった。何の意味があったのかわからない。そして私たちはとても激しく愛し合った。とても、とても、とても、激しく。
だって、動転していたのだもの。まるで、死にあがなおうとするかのように、…本能的に?
…ねぇ、わかるでしょ?それに、彼は男なのよ。
男なの。…わかる?
そんな。媚びいるような眼差しで、ときに呆然とて嘆息するような意図的な眼差しをさえ私に投げつけて見せながら。
密室殺人のトリックを暴いてやるのは簡単だった。
家屋正面の観音開きの巨大な木製のドアは、床に鉄心を通して鍵をかけるだけのものだったので、そんなもの、バイクの鍵を通しただけで外からすぐに開けられた。築の40年以上経過して、古びてかすかなゆがみさえ曝しているのだから。閉めるときは、何度か揺らしてやればいい。長い時間の経過のうちに、変形して丸まってしまったパーツは、すぐに鉄心を下に落としてしまうのだった。
…でしょ?
警官に、私はそれを実演して見せて、肩をすくめた。フエは誰かを詰めるように、何かを、なんども、警官に罵って見せるのだった。…知らないよ、俺は。
俺に言われても、どうしようもないよ。
警官はそう言っているに違いない。
「死んだりした?」
「誰が?」
「知り合い、誰か、…」
「死にはしない。死にはしないけど、…死んだね。」
「死んだの?何人?」
「知り合いの、友達のね、その、知り合いの、…何回かあったことあるよ、私も。」
「俺は?」
「ない。」
「何人?」
「三人。」
「三人も。」
「その人は一人よ。その、お連れの奥さんとか、そういう、…もう年だったからね」
「三人?」
「もっとよ。」
「もっと?」
「全部で。」
笑う。母親は笑って、もう大変よ、といい、捨て置かれた自分の存在を主張しなければ気がすまないフエは、何を言っているのかわからないはずの会話の間中、スマホのカメラの前で、私の胸に身を預けてじゃれついた。
いっぱいの、これみよがしに女じみさせた媚態を撒き散らして。来年30歳になるフエは、まるで、十代のやっと後半に差し掛かった少女のように、指先を戯れ、表情を遊ばせ、私は倦んでいた。
そうした媚態のすべてに。母親は、隠しながらも嫉妬さえしたのだろうか?あるいは、そんな事実など忘れて仕舞ったとでも?
妻をまだ、日本に連れて行ったことがなかった。その煩雑な手続きと、そもそもが私にとって、もはやそこは生まれてきただけの外国に過ぎないような気がしてさえいた。そのために。かならずしも、そこを憎んでいるわけでもさえもなくて。
懐かしさを感じるのは、インターネットで、あるいはベトナムのテレビ・ニュースで、日本を襲った災害のニュースに、たまに、というよりは頻繁に触れたときだった。
あの、災害にまみれた自然がただ、懐かしかった。大陸は、山脈も平野も何も、すべてが大きく、はるかに、果てしなく、スケールが大きいのだが、それは牙を抜かれた家畜にすぎなかった。たやすく人間に飼いならされてしまう、殆ど人間を殺すことない、それは善良な飼い犬のようにしか見えなかった。
そこの自然災害で人が死ぬなら、まぐれ当たりか、あるいは人間たちのせいにすぎなくさえ想われた。
そこに、留保無き暴力の、破壊の大きさはない。
島ごと破壊されてもおかしくないような、辛辣さは、熾烈さはない。
美しさ、と。そう呼んでしまうほかない、理解不能な尊厳はない。
フエの父親の葬儀には、殆ど親族が来なかった。わずかばかりの、そして短時間しか滞在しない客たちにだけ、彼は見送られた。まるで、親族の間でのノイズのような存在だった彼を、真摯に弔うものは、殆どだれもいなかった。
フエも人付き合いがいいほうではなくて、私は外国人に過ぎないから、彼らにとって、葬儀の礼を尽くすべき暇など、もとから存在していないのだった。
警察をいなしてしまってから、始末に困っていた血まみれのTシャツを、午前1時。もうだれも慰問客がいなくなって、町も寝静まってしまったのをいいことに、フエはバイクから取り出した。それは、血と言うよりは、布地自体の臭気を篭らせていた。
あるいは、長い間になじませられたフエ自身の体臭に。しわだらけでピンク色のそれをかたまらせた黒い血痕が、みじめに穢していた。
いたずらじみた笑い声を、フエは立てた。
私は床に座り込んで、胡坐をかいていた。ただ、にぶい眠気がまぶたに合った。
…ねぇ、と。フエの眼差しの呼び声に、無言のまま微笑んでやり、そして、フエはビニールごと、棺に安置された遺体の下に、押し込んだ。
白い、埋め尽くした花々を掻き分けて。
黄色にまで至らない黄色から、桃色にまで至らない桃色、それら、さまざまな、結局は白いというほかない色彩のグラデーションを曝した花々は、そして男の肥満した身体は、たやすく女の寝巻きなど押しつぶし、覆い隠してしまう。
あとは、色彩の白の、それになじまない汚点のような肌色の散乱が、棺の中に拡がるにすぎない。
…ねぇ、と。突き出したフエの尻が言う。
どう?
私は彼女の戯れのために、彼女が振り向き見る前に、声を立てて笑ってやった。
土地問題で、親族は離散状態だった。
基本的には貨幣価値の低い国で、土地にだけ日本の関東並みの価格がついているのだから、それもこれも当たり前なのかも知れなかった。日本における、物価も高ければ給料も高く、貨幣価値も高くて土地も高いのとは、まるで意味が違う。
貧しい日本人がこの国では、ガリヴァーの法則に従うお金持ちになれて仕舞う貨幣価値の差異の中で、土地だけが同じレヴェルにまでなって仕舞えば、何が起こってもおかしくはなかった。
研ぎ澄まされた細い剣に剣をあてるような、そんな痛々しささえ、感じられた。
もともとは、フエの母親が相続したものだった。ホーチミン市、旧名サイゴンに十年近くも住んでいたフエは、殆ど、そこに帰って来はしなかった。母親の妹と、その娘の家族だけが、実質そこに暮らしていた。
彼らは不意に所有権を主張し始めて、家族は争いになった。
フエの側で、そこに住んでいたのは彼女の父親だけだった。彼女の弟は、ハノイで仕事をしていたから。性格的に、弟は争いごとに向くタイプではなくて、臆病なくせに勝気な、吠える小型犬のような彼女の父は、でたらめに吠えついてばかりで、用を成さなかった。フエは、一人で立ち回るしかない。
裁判には勝った。そしてそれは、追い出された妹方の家族全員のみならず、母方の家族の大半を敵に回すことになった。
結局のところ、私たちがでたらめな証拠隠滅を図りえたのも、その込み入った事情のおかげに過ぎなかった。咬みつきもせずに、遠くから吠え掛かってばかりの父親は、一番に、明確な憎しみの対象になっているに違いなかった。彼らのうちの誰かが、何かの拍子に想い余って殺して仕舞ったに違いない。誰もがそう想っているはずだった。
事実はともかくとして。
もっとも、娘も、口を開けば父とはけんかばかりしていた。会話とは罵りあい以外ではなかった。あの男が、彼女をひっぱたいたのは一度や二度ではなかった。
いつかは、そうなる必然に過ぎなかったかもしれない。フエと、その父が、仲良くいたわりあったのは、ただ、娘が…Hoa、…花、まだ男とも女ともはっきりしないただの赤ちゃんに過ぎないその、無意味に生き生きとした生命体が死んで仕舞ったときだけだった。
それは、あきらかな、破綻。
体中のやわらかい匂いたつ皮膚が真っ赤な充血を曝して、奇怪なほどに呼吸がおかしい。眼差しには明らかな発狂があった。体内は、確実に壊れ、壊滅しかかり、そしてすべてが狂乱して仕舞っていた。
狂った生命体。どうしようもなく、破綻した、その。
体温は、もはや人体のそれではなかった。人体そのもの発狂が、明らかにその肉体そのものを急激に破壊しようとしていた。その破壊のスピードを緩和させるためだけに、体中にぶち込まれたチューブは薬剤を身体にねじ込んだ。
たかが、一匹の蚊のキスが、そして、触れ合ったその小さなヴィルスが、その、体積にすれば何倍なのか、その桁さえわからない巨大なものを破壊していた。
…死、が。
ただ、死んだ、と、その破壊の完了の最終通告がなされたときに、フエは数十秒間声もなく泣き、そしてやがて、息を継いだ瞬間に、彼女の喉から怒号のような泣き声が発された。
私は耳を塞ぐことさえできずに、彼女のためにだけ泣いた。
その生命が破壊されて仕舞う前まで、その、発病から3日の間、悪くなっていくばかりのその様態に、やがて来るに違いない死を覚悟した…あるいは、覚悟も何もなく、自覚した?いずれにしても認識したままに、私はその寝付けない夜には、彼女の避け難い死の予感に涙した。
目を潤ませて、何度も。
目の前のそれは、なにか、他人事のような冷たさがあった。触れ得ることさえできない、どうしようもない冷たさが。
なぜ、自分がフエのように泣くことができないのか、自分を破壊してやりたくなるような、しかし、自虐的なわけではなくて、あくまでも他人を制裁してやりたがっているに等しい、冷静な暴力性に、私は駆られた。
自分で、他人を破壊するように、自分を破壊できない身体的な不自由さの必然が、その暴力の具現を妨げたに過ぎなかった。
いずれにしても、私は悲しかった。
娘の死を確認した夜に、家につれて帰って、部屋の、子供用のベッドに寝かせる。
寝床に着く。
フエは泣きやまない。私は泣きやんでいた。
疲れていた。私の全身を、容赦のない疲労が、もはや燃えるように包んでいた。
その、内側から。眠れなかった。
室内が匂った。フエの、そして、移り香の、そして、亡き子の残し香の、それら、生物の匂いの群れが。
フエは、泣きながら私にしがみついた。医者に言われたとおりに、彼女は精神安定剤か何かでも、注射してもらうべきだった。あるいは、処方してもらうか。
フエは、ベトナムの薬物は危険だから嫌だ、と、それを拒否した。死にたがってはいないことを、むしろ私は奇妙にさえ想った。
いずれにしても、Hoa の容赦ない死体にくらべるまでもなく、そして、比べてみてさえも、明らかに、フエのみならず、私の身体にしたところで、無慈悲なまでに生きていた。それは否定できなかった。
彼女の涙が私の胸元を濡らした。それは、ただ、温度そのものとしてしか感じられなかった。
彼女の体温が、執拗に感じられた。
生き生きとした、その生命体の、健康な発熱。自分の、同じような発熱を、自分では感じられないことが、むしろ自分において、自分とは常に、すでに死んだものに他ならないかのような、そんな実感を感じさせた。
あるいは、死んだものとしてしか、自分を体験することなどできないとでも言うのだろうか?…そんな実感など、何の意味もないことだ。
フエの絡みつく腕が、私を放さなかった。彼女の頭を撫ぜてやり、背中を撫ぜてやるうちに、それははっきりとした愛撫になって、私たちは愛し合った。
憑かれた様に腰を振って、そして、フエは逆らわなかった。むしろ、下からしがみついて、そして、終ることのできない行為が、ただ、時間を浪費しながら、フエの発熱する身体の上で続いた。
まるで、でこぼこして骨ばったばかりで、肉をぶよつかせさえしたそれら二つを、無理な体勢を取らせてむりやり二つ重ねて乗っけて無様にバランスを取らせようとしたような、その、いつもの、重なった愛の、愛を確認して一つになろうとする試み。
肉体的な私の疲労が、やがて、それを途中やめにして仕舞った。
…獣のような?
飢えたような。
もっと、もっと、…と。
激しく。
求め合って、ただ。
まさに。
壊れて仕舞いそうなくらいに。
家畜のような?そんな、そして、そんなくだらない中断。
フエは泣きやまない。
一方的に、他人の体温を感じる。肌を合わせた他人のそれの、それを。体臭をさえ。同じように立っているはずの、自分のそれをではなくて。あくまでも、他人のそれだけを。汗に塗れる。自分の汗をも含めて。
ならば、流れ出した汗はもはや自分のものでさえないということなのだろうか?
あるいは、涙も。
流れ出した、そして明確に、その触感とその温度さえ感じて仕舞うのならば、その限りにおいて、まさに、涙は他人のものだったのだろうか?
あるいは。
フエは、他人の涙におぼれた。
私は、フエの目が流す他人の涙を指先ですくってやった。
誰の涙だったのだろう?それは。
涙には、結局のところ、所有のあるいは所属の人称さえも与えられていない、いわば世界の外の実在だったのだろうか?
指先は触れたのだった。
いずれにせよ、涙に。
フエは、私の体の下で、四肢を投げ出して息遣い、脱力して、その汗。私のそれと交じり合ったそれに塗れながらも、目を閉じて、涙を流し、他人のそれ。
決定的に他人の、明らかに彼女に固有のそれ。
悲しかった。言うまでもなく、私は。私も。彼女とともに。すぐ近くの、手を伸ばせる触れ得てしまうほどの距離に安置された、明らかに私たちとは断絶されたその物体。
あからさまに失われた、その。
花。…Hoa、と、名付けられたその。
今は亡き彼女。
雨が降っていて、その質感が、空間を満たしていた。フエが首を傾げて見せて、私に笑いかけて見せるので、私も笑って見せた。何がおかしいわけでもないことは、私たちにはすでに共有されていた。
何もおかしくはなかった。そして、私たちは微笑んでいた。
フエが手渡した結婚式の招待状を、その、飾られたピンク色のレターサイズのそれをテーブルの上に投げ出しながら、私は雨の匂いをかいだ。
日本にも、雨が降っているに違いなかった。土砂を流して、地表を削り、地図や地形を変えて仕舞いながらも。
*
* *
バナー・ヒルズというのは、日系のレジャー・デベロッパーが仕掛けた観光施設だった。バナーと言う高山地帯を丸ごと買い取って、あるいは商業開発権を買い取って(詳細は知らない)、下から長いロープウェイを通して、その低空に千切れ飛ぶ雲のそのうえの高山の頂上に広大な遊園地施設を開発したのだった。ホテルもあれば、イベント場もあった。
とは言え、普通、そんなところで地元の人間は結婚式など挙げたりしないので、私は少し、奇妙には想った。
そこに行くためには、それなりの入場料…現地貨幣で50万ドンから70万ドン程度の金銭が必要なので、そもそも多くの親族を集めるわけにはいかないはずだった。日本円にすると3千円程度なのだが、一般的な月収は、2万円や3万円から、エリートでも10万円以下であれば、かなりの出費になるには違いない。
それでいいと言うのかも知れないし、それでも来るという事なのかも知れない。そんな事は、私には関係ないことでもあった。
いずれにしても、雲の上で結婚式をするというのは、確かにロマンティックなイベントであるには違いなかった。
ダナン市の中の町の外れに在って、その存在は聞いたことはあったが、行った事はなかった。
朝方、夜が明けるか明けないかのうちに、土砂降りの雨が、十分に満たない数分だけ、降った。たぶん。
朝起きたとき、誰も手入をしなくなったから、自由に生育を始めた草花が乱れ茂り始めた庭は、そしてその向うのアスファルトの路面は濡れていたし、そして、ココナッツの樹木の上空に垂れた葉も水滴をときに垂らしながら、風にそよいだ。
私はベッドの中で、いまだ半分以上、意識を睡眠の中に埋没させながら、その降りしきる音を聴いていた記憶があった。…雨、と。
今日は、雨だ。そう、今日の予定など何も思い出せないうちに、何かを思い出そうとしながら、私の意識がその言葉を何度かつぶやき続けていた記憶がある。
鮮やかな、記憶が。そして、その記憶には、無意味で曖昧な痛みがあった。心の柔らかい部分を、絹の布地で引っかいたような、そんな、繊細な痛みが。
いつも化粧などしないフエが、朝から化粧に追われた。化粧などしないフエは、もちろん、化粧が下手だった。施す、と言うよりは、描く、そんな化粧の仕方。
日曜日の、午前。
珍しく香水をくぐったフエをバイクの後ろに乗せて、フエに道の指示をもらいながら、バイクを走らせる。もっとも、妻のお気に入りの、ホンダの白い原付きにすぎない。
朝の9時過ぎ。
結婚式自体は十一時からだと書いてあった記憶があった。
日曜日の朝の町は、次第にゆっくりと人々をどこかに吐き出して、路上は疎らなバイクの群れを、どんどん増殖させていく。町の中央部を通り過ぎると、その数は減少し始め、殆どすれ違うバイクもいなくなり、山とも丘ともいえない土地の隆起の上に這った広い主幹道路を走る。
空はただ、曇りかけていた。
その大半に、透明感を湛えた青空の青がむき出しにされ、そのところどころを雲の白濁した色彩が汚した。
やがて雨が降るのかも知れず、そのまま持ち堪えてしまうのかも知れなかった。
森林地帯に、そして、土地の隆起にしたがって山林地帯に入って行き、道路の周囲に家屋は消滅する。道路はもはや道路それ自体にすぎない。
樹木が匂った。おびただしい、道路両脇に繁殖するそれら。
それなりの雨が、降っていたのかもしれなかった。あの、誰もが眠っていた明け方前の数分間の間に。樹木は、濡れた匂いを、いまだに鮮明にたてていた。傾斜をえぐった道路の両脇で、何に触れるわけでもなく、何かを突き刺して仕舞おうとしたかのような鋭利な枝の、研ぎ澄まされた短い葉の連なりが密集して突き上げ、伸び、ひん曲がって、それらの自由な形態が、わがままに空間を支配していた。
バスが何台も通り過ぎ、或いは、追い越す。
バナー・ヒルの駐車場は、半分くらい埋まっていた。バスも、車も、バイクも。人々があふれ、ベトナム人、韓国人、中国人、そして白人たち。或いは、インド周辺の、あるいは、その他の。
それらの声と体臭が、湿った大気の中に群れる。大した高低差の中を、バイクを飛ばしていた気はしなかったのだが、それでもそれなりの高度にいるに違いなかった。樹木の、葉に刺す光に、わずかな違いが感じられた。
柔らかく、色彩を感じさせないまま、その、色彩そのものの鮮度だけを強烈にあらわしたようなそれ。
色彩の鮮度以外のすべてを、ことごとく捨象してしまったようなそれ。霞んでいくような、鮮やかさ。
…高山の光?その、色彩。
さまざまな文化流儀をでたらめに表現した人ごみをかいくぐってロープウェイに乗る。フエがはぐれないように、私の手をつかんで、私を先導したのだった。
いつ?フエは言った。いつ、子どもをつれてくるの?
振り向いて、ロープウェイの中で、私に上目遣いの眼差しをくれながら、いつなの?
次の、子ども。
Hoa が死んでから数ヶ月。
もう、三年近く経ってはいた。フエが、彼女を妊娠したときから数えると。いつ?
私は意味もなく同じ質問を彼女に返し、フエはじれたように、
Khi nào ?
繰り返す。…いつ?
…いつだよ。
いつ?
いつ、死ぬのだろう?次の子ども。生まれたとして。むしろ、生まれる前に死んで仕舞うだろうか?生き延びて、生まれるだろうか?生まれて、生き延びるだろうか?どれだけ?
ほんの数時間か。数日か。数年か。数十年か。それとも、その固体の死をは体験しないでやり過ごして、私のほうが、先に死んで仕舞うだろうか?どっちが先に?子供か、私か?私たちか。私か、フエか。誰が先なのか?
あるは、子供は私を殺して仕舞うだろうか?フエのように。
ロープウェイが山林の上を滑走していく。足の下に樹海の沈黙したままの浪のてっぺんが、こちらに向ってその先端を突き刺そうとする。その、無数の。
はるか向うまで高山地帯は樹木に覆われて、確かに、そこを支配しているのは完全に、樹木であって、間違ってもヒト種ではない。そこは、樹木の留保無き領域に侵犯したヒト種が、大量の資金と人材と労働力を投入して掛けた、それは頂上への長い上空の道であって、眼差しの先には、明らかに私たちの生存領域とは言えない、無慈悲なまでの冷酷さこそがあった。
フエがカメラを向けて、私を撮影するので私はときに微笑を浮かべてやらなければならない。
Cười
フエは、
笑って
つぶやくように
Anh à
繰り返す。
…ねぇ、
何度も、その唇の先で。
声を立てて笑い、小声ではしゃぎ、乗り合わせた若い韓国人の集団に気を使った。
足の下には、息をひそめながら、野生動物が茂った樹木の氾濫の陰に、その生存を続けているに違いなかった。あくまでも、その樹木らに依存しながら、滅びはしない程度の繁殖を維持して。
そこは、哺乳類たちの領域とは言獲ない。彼らの生存領域でありながら。むしろ、明らかに野放図な野生の樹木の支配下に過ぎない。
気がした、のではなくて、それは、ただ、眼差しの中に確信されていた事実にすぎなかった。
大陸の山脈は大きい。
ひたすら大きく、はるかな、その頂が、見上げた向うに見える。
はるかなもの。
そして、基本的には沈黙を守っているもの。
日本の、ちいさな、そして凶暴なそれのように常に饒舌なものではなくて。
巨大なもの。
巨大で、単純なもの。
その巨大な平面を、でたらめに、暴力的なまでに茂った樹木が覆い尽くす。
高山は、空の低いところに漂うちぎれ雲をぶつからせ、ときに、下方にまで増殖してしまった雲を頂点にかぶり、雲は斜面に雪崩れを起こす。
緑は、白濁に埋もれ、私は瞬く。
フエが身を預けて、私たち二人の写真をデータに残す。
ロープウェイのゴンドラはちぎれた雲を、あるいは上空の水蒸気の塊に突入し、視野は白濁し、そして、その色彩はたゆたう。
雲を突き抜けた先に見下ろせば、ちぎれて浮かんだ無数の雲のはるか下方に平野が広がって、その尽きた先に海が広がる。視界の中に、波立ちのうごめきさえ知覚出来ないながらも、そしてあまりにもちいさくしか見えないながらも、その支配領域の巨大さに、改めて気付かされるのだった。
地上にへばりついた海辺で向うに見る、すぐ視野の先で尽きてしまう海のスケールが、結局は人間の視界のサイズに矮小化されたものに過ぎないことがよくわかる。
それは、あまりにも巨大なものなのだった。
その上でも、その中でも、そしてそれを飲んでも決して生きてはいけないところの、その破壊的な海の恐ろしい巨大さは。
海は美しくはない。ただ、凄まじいものだ。
雲が乱れる。霧が散る。ロープウェイの外は、細かな霧雨に、かすかに白濁していた。
ロープウェイを降りると、肌に高山の冷気が触れる。寒く、そして、すべのものの色彩はいよいよ、その純度を増す。高山の光に当てられて、それらは本来の色彩そのものだけを、ただ、むき出しにする。
無造作を極め、霞むように鮮度を窮めて。
眼差しの向こう、どこまでも広がった空を、雲が埋めて、その切れ目から下界が…茶色い、或いは緑の、単なる色彩のグラデーションに過ぎないそれらがときに、姿を現す。
見上げられた空は、その上空にあった雲はあまりにも近い。
以前、フエと、その弟たちと行った、南部の高山の町、ダラットでもそうだった。
幻想的と言うよりは、むしろすべてが鮮明な風景が広がる。そしてその上には何もない。そんな事が実感される。その先には天国などありはしない。文字通りそこでは生きてはいけない、世界、と、そう呼ばれる生存環境にすぎない領野の、その真っ黒い果てが、広がるしかないのだった。
美しい、
...Đẹp
と、私がそう言ったとき、フエが声を立てて笑った。ゴンドラが辿り着いた先、その路面に立って周囲を見回し、私にじゃれ付いて、私の頬につま先だってキスをくれ、寒い。大気は容赦なく冷え切って、彼女を軽く抱きしめてやった。
高山の上野遊園地を、人々が埋め尽くす。会話の、物音の、イベントのBGMの、そしてあらゆる音響が混濁して、私はそれを聴く。
私もフエも地上にあわせた薄着にすぎなかったので、冴えた大気の冷たさがじかに皮膚にふれた。
どうせ、時間にはまだ余裕があるに違いなかった。まだ十時前だったし、いかなるイベントも一時間後れでしか始まらないお国柄であれば、フエは、二人で、この遊園地で遊んでみたかったに違いない。
私たちは手をつないで、遊園地の中を散歩して回り、どこかの東欧の国の団体が、ダンスと演奏のイベントをして、韓国人がポップコーンを食べる。
ベトナム人の観光客が写真を取り合って、ざわめき立ちながら、鳥の数羽が、路面に散乱した食べ物をついばみ、さらに散乱させては声を立て啼く。
ホテルの場所だけを確認するが、まだ、そんなそぶりなど何も見えなかった。飾られた招待看板も何もなく、本当にここで今日、ほんの一時間後に結婚式が行われるとも想えない。
閑散とした、単なるホテルのロビーに過ぎないそこに、集まった親族たちの姿もない。
そのまま通り過ぎて、フエが思いのままに先導していくのについていく。思いのままに、きまぐれに、やや、でたらめに。
無造作に。
想いつくままに。
あてどさえもなく。
実際、フエも始めて来たのだから、何を知っていると言うわけでもない。日本の遊園地と同じ、代わり映えのしない、いかにもヨーロッパのお城風の建物が、乱立する。
ジェットコースター、ゴーカート、観覧車、それら、アトラクションの散乱。フエがときには不意に声を立てて笑えば、私に振り向き、手を振って、こっちよ。
こっちに来て。
そっち?
こっち。こっちに行きましょう。
走る。雑踏の中にもはや聞き取れないフエの声の散乱。さわぐ。手をつかむ。はしゃぐ。手を握る。腕を抱く。それら。人々の混雑の間を縫って。細かい霧雨がやまない。
あるいは、霧が静かにただよい獲もせずに、ただ、重力に敗北して失墜していただけなのかも知れない。フエの、かすかに濡れかかった髪の毛を指先ではらってやった。その水気を。
何にきっかけがあったわけでもなく、目を離したすきに、すぐ近くはずにいたはずのフエを見失ったのは一瞬のことだった。立ち止まって周囲を見回し、彼女の姿を探す。眼差しは、そこにフエの姿を捉えない。フエを、私は探す。
見回し、振り返り、振り向き見、立ち止まり、じれてまた振り向いて、背伸びしてみせ、ややあって数歩、きまぐれに歩いてみて、立ち止まって、また、そして、フエは見当たらないのだった。彼女の携帯電話は、私のポケットの中に在るのだから、それは今、何の意味もない電力の消費に過ぎない。
霧雨が、濃くなっては、そして、薄くなる。そらはただ、そのまだらな白濁を曝す。
建物の先にはるかな雲の千切れた散乱が見下ろされ、混雑の中に、背伸びをして首を回す。
フエがいなければ、私に行きたい場所などなく、行くべき場所もない。今、この瞬間のここには。そして、そもそもが、この場所自体、私には何の用もない場所に過ぎないのだった。
音響が耳に響く。まったく、私に無関係で、私には興味のないそれ。眼差しの中に色彩が、そして捉えられた形態が踊る。無意味な、その。なぜ?と。なぜ、こんなところにいるのか、もはや、全く意味がない。フエを探さなければならず、そして、結局は、そのために歩き回るしかない。誰かのひじが私を打った。そのやわらかい腹部を。探し回ろうとした瞬間に、足は停滞した。どこにいるのか知らない以上、どこへ行くあてもなく、どこへ行くべきか、それさえもが一切わからないのだった。
取り合えずは歩き出すより他なくて、そして、だから、歩き出す。どこへも向わずに歩き出すことの、容赦のない困難が、笑うしかない。笑いかける相手もなしに。すべてが葛藤と逡巡でしかなく、そして、徒労に過ぎない。彼女を見つけ出すまでには。私の意志は、結局はその偶然の到来を期待しているに過ぎない。本質的には、すべてが、…私の挙動のすべてが、すでに留保無き徒労であるに過ぎない。
私は、歩いた。
...underworld is rainy
いつの間にか驟雨、…と、言うのだと想う。そんな雨が数分間だけ降って、やんで、霧が舞い、そして、空は雲を斑に引き裂いた。
鮮やかな風景だった。
美しい、と、そう頭の中でつぶやこうとした瞬間に、そうとも言獲ない気がした。美しい?あるいは、そんな言葉以前の、あるいは、以上の、あるいは、そんな。
そんな言葉とは無関係な、あくまでも他人の風景に過ぎない、そんな、それら。それらたち。それらの群れ。それらの集合。その、散乱。一切のかかわりなど許されてはいないところの。
故に、それを捨て鉢に美しいと、そう呼ばなければならないのだ、と。
疲労が、私の体内の真ん中に、にぶく、あった。
何分たったのか、何十分なのか、そんな事はわからない。私はフエを探す。
歩き回れば回るほど、私たちははぐれるだけなのかもしれない。いま、この瞬間に、視線の視覚の中にフエが、同じような視線の視覚を曝して、すれ違って行ったかも知れない。
お互いに気付きあわなかった共有されない空間の共有の中に。
フエが、見えない。
彼女はいない。
気配も感じられない相手に、かけるべき言葉もなかった。私は、ただ、彼女を探した。こんなはずではなかったと、そればかりが、無意味な悔恨になって、私を襲った。
為すすべもなく、そして、見あげられた空の、白濁の切れ目から、青の色彩の、光のその鮮度そのものが、下方に落ちる。
私の眼差しのただ中に。
光。
私もその光に差されているものの一つに他ならなかった。高山の頂の土地はならされていながらもかすかな隆起をくりかえし、私の足がそれを踏む。
這う。
這うように。
あるく。
探す。
求める。捜し求め、そして、あるいは、さ迷う。
また、霧雨は降り始めるのだろうか?この高山の上に。
花の公園に出る。
フランス語で、Le Jardin des Fleursと、書いてあった。壁面に植えつけられた花の、その鮮度の高い赤から紫にかけての花の色彩の文字で。
花の庭園、と言うのだろうか?
匂う。植えつけられたままに咲き誇った花々の匂い。人ごみの、あるいはその音響。衣擦れ。濡れた植物の匂い。
…花の。
フエは、その名前は百合、と言う意味だった。花の百合を探し、そして、眼差しのうちに花の百合さえもない。
百合の花にさえ見捨てられて?
歩く。
巨大な花壇の周囲をまわり、広大な花園をさ迷う。
この花園の写真を撮ってやれば、フエは喜んでくれるだろうか?
蝶の姿を、不意に探した。見つからなかった。高山には、蝶など存在しないとでも言うのだろうか?
あるいは、人々の吐く息に穢されたこの周辺を嫌って、蝶の群れは飛び去って仕舞ったのだろうか?
その、気配さえもない。
人ごみから遠ざかって、その意志があったわけでもなく、公園の、そしてアトラクションの尽きた先の背後に出る。
建造途中のアトラクションが、無骨な構造体を曝し、資材は周囲にでたらめに詰まれて放置される。今、トラックも、クレーンも何も、稼動してはいない。
それどころか、作業員さえ一人もいなくて、単なる廃墟に過ぎない。
完成する前の、その。生み出される前の、この、まごうことなき廃墟。
たんなる廃墟としか、言いようがないもの。
こんな場所にいるはずがないと、そんな事はわかっている。誰に言われるまでもなく、自分で認識するまでもなく、そんな事はわかっていたのだった。
いるはずはなく、事実、いない。
何もかもが、遠くに聞こえる。その、それらの音響の群れは。
静寂?…何も聴こえないわけではないが、その聴き取られつづける微弱音の群れがかたちづくるのは、ただ、静寂と呼ぶしかないものだった。
こんなところに来なければよかった。そして、こんなところにきて仕舞ったのだった。
スマホの時計は、十一時をもはや十数分過ぎて、そして、結婚式は始まって仕舞ったかもしれない。そうに違いない。あるいは。あり獲ない可能性では逢っても。
花嫁は綺麗に違いない。
二人は幸せなのに違いなく、今この瞬間にでも、人々の祝福と囃し立てる嬌声のなかで、熱い抱擁と口付けを交わしたのかもしれない。
みんなの祝福の前で、恥じらいをさえ曝してやりながら。
フエは、私を探しているのだろうか?
鉄骨と、資材の山の間を歩く。
眼差しの向こうで、山脈は一気に傾斜して、ただ、雲が広がっていた。いつの間にか、向こうまで、それは白濁をだけ曝し、もはや、その下は見えない。
ただ、白い。霧、なのか、雲なのか。
…色彩。
樹木の群れが、その白濁に飲み込まれる前に、その無垢なまでの色彩の鮮明さをだけ曝し、そして、そこには一切の動きさえ感じられない。
霧状の色彩が、白濁して乱れる。
静かだった。
そして、それらは生きていた。
私がこのまま死んで仕舞っても、例えば数十年の年月をかけて、死んで仕舞っても、それらはそれら固有の時間の尺度で生存し続けるに違いなかった。
雲は、その全体として、かすかにうごめきさえしているようだった。大気のやすみない流動のせいで。
気付く。すぐに。かすかに、目を凝らせば、そして、数十秒でも見つめていれば。
立ち尽くす。私は。
そして、息遣う。
不意に、男の声がした。背後の鉄骨に、若い男が座っていた。煙草をすいながら。休憩をしているか、それとも、単にサボっているのか。
作業員なのかも知れなかった。薄汚れたTシャツと、ショート・パンツを身にまとっているに過ぎない。
日に焼けていた。
30歳に満たないように見えるその童顔の男は、もっと若い老け顔の男のようにも見え、とはいえ、もっと年を取った、若く見える男なのかもしれない。
私にはわからない。
笑いながら私にベトナム語で話しかけてきて、私にはそれは、一切、理解できはしない。Anh ơi ... あなた、という私への呼びかけが、ときに耳を撃つに過ぎない。
それは、単なる音声でしかなくて、人声のノイズに過ぎないのだった。
神経質そうな、若干ナーヴァスな、そして陽気な舌を咬みそうな危うさを持ったそれ。
立ち尽くしたまま自分を振り返って、何の反応もなく自分を見つめる私に、いつか、言葉のわからない異邦人に他ならないことを気付いたに違いない。
口をつぐんだ。
肩をすくめた。
沈黙した。
見詰め合った。
腕を伸ばし、指を立てて、下のほうを指さしながら、不意に言った。想い出したように。
…Underworld is rainy
声を立てて笑う。
あんなに雲に覆われているんだから、下は雨に違いないぜ。
…メイビー。
私は、微笑んでやった。
2018.07.30.-8.1.
Seno-Lê Ma
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