小説《堕ちる天使》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅱ…世界の果ての恋愛小説⑦
堕ちる天使
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅱ
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
誰も見ているものなど
わたしは
いない。
そこに、裸の、体中に口紅を塗りたくった頭のおかしな女が、綺麗に、美しい花を持ってたたずんでいたとしても。それを見留め獲る眼差しなどは。その、光に貪欲すぎる肌をじかに容赦もなく、音さえ立てない暮れ始めの執拗な日の光がしずかに灼いていっているのだとしても。
色あせさえさせられずに、むしろ、色彩をだけ、与えるしかなくて。
…だれも。
そこで、私たちが愛し合っても。
だれも。憎みあっても。
見留めるものなど。
あるいは殺しあったとしても。
なにも。
命を与え、生み出す歓呼の声も、誰かを扼殺しはてる叫び声さえも、あるいは、誰かに壊される恐怖の悲鳴さえも、大気は終に地に触れ獲ない上空に、まるごと流し去って仕舞うほかないに違いない。
不意に、窓の向こうで声を立てて笑うので、私は立ち上がったのだった。強制されもせずに。室内にまではその声は聞こえずに、私は室内の、どうしようもない無音を聴くしかない。
細かな雑音に塗れた、静寂にもなりえないその、たんなる、いわゆる無音。
理沙が手を振った。誰も掃除しない窓のガラスはかすかにこまかなよごれの白濁を点在させる。
理沙は、背を向けて、ルーフ・バルコニーの向こうの端にまでゆっくりと歩き、彼女の向こうに、斜めに、代々木公園を隅に散らした渋谷の風景が、ただ、広がる。風は、彼女のかみの毛を乱すしかない。
わななき、ざわめきたって、ときに絡み合いさえして、もつれ合うこともなくて、髪。黒く、長く、解け、乱れ、ゆらいで、ながれた空間の中にそよぐ。光の白の反射を泳がせて。かみの毛、その、散乱するばかりの束なりを、私は眼で追うしかなく、愛している、と。
結局のところはそうつぶやくしかなければ、そう言って仕舞い、そうつぶやかれて仕舞えば、あとに為すべきことなど、あるいは為し獲ることなどほかに、何もありはしないのだった。
…愛。出会って、愛していると、そうつぶやきあった、あるいはそれ以前の、言葉に墜落するその以前にさえ、見詰め合って重なって、お互いの直感そのものとして了解されて仕舞ったその瞬間には、あの、留保もなく完全なる一致の瞬間。結局は、すでに、すべては終っていたに違いなかった。
燃え尽きて、焼き尽くされて、燃え尽きるがままにまかせるしかなかった、だから、いまや、燃えカスの中で、必死に重なり合い、重ねあおうとして、抱き合い、自然として一つになりあおうとするように出来ているにも拘らずに、完全な一致など見ることのない、でたらめな肉体のかぶさりあいにすぎない無様なその行為に、何かの一致を夢見もした。
何も、そんなものからは獲られもしなかったにも拘らず。繰り返される何度もの中で。新しい肉体が、その、何かと一致することさえ出来ない固有の、その特異性にだけ倦むしかないそれ、子供をでも生産する以外には。愛。すでに、始まったときには終って仕舞ったものとしてしか、経験されない、絶望的な、無慈悲な、その、理沙がかみを掻き上げる。
ベランダの手すりに背を持たれて、理沙は私を見つめた。その、私からはよごれた窓ガラスの向こうに。彼女からは、あるいは窓に斜めにあたった鮮やかな、色彩もない反射光の向こうに。
左手に花をいっぱいにつかんだままに、理沙の指先がそのからだの形態をなぞってみせて、そして、私を促すように、…ね?
…と。
ね?
彼女の指先が、自分のそれを確認するのを、私の眼差しは確認する。
胸が苦しいほどにいとおしく、そして、為すすべもない、その存在。
…ね?…と、その、声さえたてない唇が、かすかにだけ開かれた。私の眼差しに追い詰められて。その眼差しに見留められたただ中に、理沙は自分をなぞる。
肌に風が触れて、そして、それ以外ではない。街の臭気さえ届きはしない、その身を曝された上空の光。
瞬く。
理沙は、見て、微笑む。窓の向こう、眼差しの正面に、私の指先も、私のそれに触れて、そして、同じようにそうするのを。
窓の向こう。美しい、とても美しい存在を、私は見つめて、私は見つめられながら、私たちは見つめあう。
終末。…終ることさえ、もはや通り過ぎて仕舞ったに違いない、その先で。その先の、無際限な時間で。生まれ変ったら何になる?
そう言ったとき、理沙は言った。
花。…すぐに咲いて枯れてくやつ。
例えば?
月見草とか?…いいんじゃん?桜なんかより、もっとはかないよ。一時間、もたないからね。
笑う。
ふれる。
なぞる。
見る。
撫ぜる。
見つめる。
つかむ。
息遣う。
そして、私は手を伸ばして窓ガラスに触れて、その向こうの彼女の形態を、ガラスの上に撫ぜた。
何も言わないままに。
フエは、まるでこのまま死んで仕舞おうとするかのように、脱力しはてた、疲れきってもいない身体を日差しに曝すしかないが、私はほら、と言う。
…ブーゲンビリア。
庭先の、その。
その花の、英語名も、ベトナム語も知らない。
ベトナム、この国のあらゆる場所に、咲き誇るしか能がないが程に咲き乱れているあの花の、その名前。
何語なのだろう?ぶーげんびりあ、…それは。
むらさきがかった紅。花びら。すでに堕ちて仕舞った、その。
コンクリートの上に、乱れ散乱してときには風に揺らぎさえして。
背後で、たぶん荷物を届けに来たのかも知れない宅配便の鳴らしたに違いない呼び出しベルがなって、私はそれから遁れるように、不意に、バルコニーへのドアの外に駆け出るのだった。私の体を、瞬間、荒れた上空の風が撃った。風は、強すぎはしないものの、弱々しくはない。その、力を失わない微風が、ときに突然の突風に煽られる。
理沙は瞬いて、笑う。指先は、そしてそのかたちを、…笑う。押し広げて見せて、微笑み、笑った。遠くから私に、キスを投げた。…ね?
声もなく、理沙の唇のふるえだけが、そう言ったに違いない。
ほら。
逃げ出す理沙を追いかけて、私はルーフ・バルコニーを走る。追い掛け回し、喚声を上げて逃げ、危ういところで逃げ出して理沙は、私は笑った。
理沙と同じように、そして、いつか息が荒れれば、体内も温度を持って、皮膚が汗ばんでいたことを自覚する。彼女が逃げやすいように、逃げる余地を作ってやりながら、追いかける私は息を弾ませていた。
心臓は鼓動した。血管の中に、そして理沙の血液も、躍動しているに違いなかった。その瞬間には感じられてはいないその鼓動を、胸に耳を当てて、聴いてみたい衝動に駆られた。
足の裏に、砂をかぶったコンクリートのざらついた触感が。そして。蹴られたコンクリートが残した、足の裏の触感。
触れる。
指先に一瞬触れた彼女の肩の皮膚の触感を、私の指先は追い求めて懐かしむ。抱きしめなければならない。抱きしめて、そして、口付ける。
理沙の腕の中に花が音を立ててゆれ、いとおしむように抱きかかえたまま、逃げ場所がないわけでもない理沙が、不意に手すりの向こうに飛び出したときに、…飛んじゃう?
想った。
ときに下から
飛びたいの?
突き上げるように吹く
笑い声。
突風の中に
飛べもしないくせに。
何を見たの?
ルーフの尽きるすれすれにまで走っていって、急に振り向いて、両手を広げて見せる理沙は、振り返り見た瞬間によろめいて堕ちそうになる。
悲鳴を立てた、その声は風に流れた。笑う。私はゆっくりと、彼女に接近して、じっと。
じっと、だよ
じっと、してて。
…ね?
じっと。
いい?ほら
…ね?
じっと
そう、大袈裟な手振りの意思表示を曝す無言の私に笑いかけた瞬間の、理沙を突風がよろめかせたが、終に彼女を抱きしめた瞬間、足を踏み外しそうになって、私たちは重なり合った声を上げた。悲鳴だったのか、笑い声に過ぎなかったのか。
喚声、…というしなかない、不確かな、あるふたつの生き物の立てた音響。
抱きしめた瞬間に、私の皮膚が一気に感じた取ったのは彼女の、まったき存在。体温と、かすかにぬれた触感と、べたつく、そして体臭は風が洗い流して嗅ぎ取れはしないものの、それら。
接した皮膚の前面にだけふれ、包まれた気さえした。しっかりと。腕の中に包み込んだ、腕が、つかみとるように、そして、瞬間、すでに包み込まれている。誰に?
…何に?
理沙が、ややあって、ながいながい私たちの口付けの最中に、諦めたように投げ捨てて仕舞ったその片手いっぱいの花が、ゆっくりと落ちていくのを、私は眼差しの片隅に確認した。
堕ちる天使
モーリス・ラヴェルの《イ短調のプレリュード》をばかり、いつも繰り返し聴いていた理沙が不意に、「これ、…さ。」
言ったとき、向こうを向いて、ベッドの上、ひざを抱えてすわっていたその背中に、私はたぶん見惚れてさえいたのだった。
「パパさんが好きだったんだよ」
それはあの北見という男のことには違いなく、私はフローリングに、ひじを付いて横たわったままに、その伸ばされた指先が、彼女の前に流されたかみの毛の、その向こうに流れ落ちていく曲線に触れようとする。
「なんか、しょうもない。
あいつ
…わたしみたいな、…いたいけないガキだよ。
まじで、…でも
そんな、身よりもない、
じゃない?
だいたい外国人でさ、…国籍もない。
わかる?
そんな十二、三の女の子に手だしするしかないような、そんな、
くずだよね
能無しの
正真正銘…
犯罪者。…打ってたから。いっつも。
でも、
あいつも。血管に。だから、
笑う。
すげぇ、
まじで、笑えるんだけど
やせてんだけど、そんなやつ。
あいつさ
あんなヤツ、ずっと
私にだけは打たないの
聞いてるの。こればっか。」
打たなきゃ、普通、やらないのに
…と。
「好きだったのかな?」…あいつ。つぶやく。はしゃぐように。
「お前も、好きなの?」…んー、と。
そう口籠って、すねたような媚を作り、不意に、声を立てて笑った。「聞き馴れちゃった。」…だから、聴いてんの。
「…そっか。」…でも、…ね?
「綺麗な曲でしょ?」かみの毛にふれようとしていた、私の指先はその至近距離に停滞したままだった。
その停滞に、意味らしい意味などなくて。
指先に、すれすれの、触れられてはいない先の、その鮮やかな触感があった。
肩越しの龍が遠い向こうをただ、眺め遣る。
2018.08.13.-08.14.
Seno-Lê Ma
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