2つの《Brown Suger》ローリング・ストーンズとディアンジェロ、そして戦前ブルース Ⅱ.
2つの《Brown Suger》
ローリング・ストーンズとディアンジェロ、そして戦前ブルース Ⅱ
~悪魔的な音楽に対する、唯物論的なエッセイ
The Rolling Stones
1962.-
D'Angelo
1974.02.11-
Robert Leroy Johnson
1911.05.08-1938.08.16
…やっと、ディアンジェロが登場する。
実は、このエッセイ、ディアンジェロとストーンズの《Brown Suger》の差異について書こうとしているものではない。
むしろ、その類似性、についてだ。
整理する。
1995年、ディアンジェロを初めて聴いたときの驚きは、その洗練されっぷりにあった。
ディアンジェロの音楽についてよく言われるポリリズム感は、このファースト・アルバムには、ない。
僕たちが驚いたのは、どこまでも洗練されたその音楽美に対して、だった。
D'Angelo
Brown Suger(1995)
実際、これは20年以上前の音楽である。
が、古臭い、と想ったりするだろうか?今、ディアンジェロを全く知らない人に聞かせても、すごく、おしゃれな、かっこいい音楽だ、と、そんな印象を語られてしまうのではないか。
ローリン・ヒルも、TLCも、メアリー・J・ブライジも、初期ビヨンセも、今聴くと単純に、やっぱり、古い。
あのころの音楽だな、という気がする。
ところが、《Brown Suger》には、一切、そんな古臭さがない。
つまり、ディアンジェロはその音楽美において、デビュー盤で最先端を極めてしまっているのである。
実は、ローリング・ストーンズのアルバム《スティッキー・フィンガーズ(Sticky Fingers/1971)》とシングル《Brown Suger》に関しても、実は同じ事が言えると想う。
The Rolling Stones
Can't you hear me knockin'(1971)
ストーンズの場合、《ロック》という音楽自体が古びてしまったので、ディアンジェロほどではない…というか、それこそ50年近く前の音楽なので(笑)それを考えたら、この古びきらないかっこよさは、すごいことだ、と想う。
バンドサウンドはどこまでもタイト、そして一切の無駄がない。アンディ・ウォーホールのジャケット含め、完成された芸術作品と言うほかない、純粋な音楽美の塊だ、と、僕は想う。
《レット・イット・ブリード(Let It Bleed/1969)》や《ベガーズ・バンケット(Beggars Banquet/1968)》にある、あくまで歴史的なノリ、いまや懐古的なかっこよさは、微塵もない。
その意味に於いて、…音楽性のいかなる違いにも拘らず、その本質、音楽美の完成という事実に於いて、この二つの《Brown Suger》が見せる風景は、同じものだ、と想うのである。
その歴史性など宙吊りにしてしまう真空状態の完成度において。
さて、その後の彼らの展開を追っかけてみよう。
《スティッキー・フィンガーズ》を聞いた後に、《メインストリートのならず者(Exile on Main St./1972)》や、とくに《イッツ・オンリー・ロックンロール》を聴くと、そのノリが、まったく別のバンドの音を聴かされているように想えてしまう。
洗練度で突っ走る《スティッキー・フィンガーズ》に比べて、あきらかにぐしゃっとした、いわゆる泥臭いノリが、支配しているのだ。
ところで、泥臭い、と言えばブルース、と言うことになるのかもしれないが、マディ・ウォータース等の戦後ブルースにしても、リズム・アンド・ブルースにしても、ファンク、ソウル、いまのR&Bにしても、かならずしも泥臭い、とはいえない。
ここでいう泥臭さとは、つまり、たとえば戦前ブルースにあるような、あの悪魔的なノリ、のことである。
一般的に、大きな誤解だと想うのは、黒人たちの音楽がポリリズミカルである、という認識だ。
そうじゃないと想う。
モータウンでもディープ・ソウルでもいいが、ポリリズムというより、もっと、タイトだ。
Marvin Gaye
What's Going On
ところで、アカペラや単音楽器の無伴奏ものでもない限り、音楽は声部に分かれる。その意味で言えば、ショパンのピアノ曲にしたって、右手と左手による合奏である。
故に、リズムに関して言うと、ドラムはドラムのビートを、ベースはベースの、ギターはギターのラインを引くのだから、それら全部をリズムとして解釈してしまえば、いかなる音楽であろうとも、本質的に複合的リズムを持つ、と言うことになる。
いくつものリズムが重なり合って音楽を作っているのだから。
あるいは、言葉。
ディアンジェロは、美しい。…そう言った場合、実はこれも異種交配的だ。
ディアンジェロという《概念》が、美しいという《概念》に相当すると言っているのだから。
つまり、言葉も音楽も、本質的に異種交配によって成立しているといっていい。もとから、複合的でしかないのだ。
《ディアンジェロは美しい》という、どんなにシンプルな言表であっても、である。
だから、ポリリズム問題とは、実は、単なる方法論の問題ではなくて、非常に厄介な問題である。
あるいは、たとえば、ジェームズ・ブラウン。
たしかにリズムは細分化されているのだが、基本的には割り切れるビートである。ファンカデリックにしても、マーヴィン・ゲイにしても、だ。
そういう、細分化されてはいても、きちっと割り切れている音楽が鳴っている中に、唐突に現れた割り切れない音楽が与えた衝撃、それが、ディアンジェロのセカンド・アルバム、《Voo Doo/2000》だった。
D'Angelo
Praya Praya(2000)
このアルバムが話題になったとき、それは2000年だったが、いたるところでその《黒いポリリズム》が賞賛されたのだが、僕には違和感があった。
一つは、《黒い》という、ほぼ人種差別に過ぎない括り方に対する違和感。
次。はっきり言って、《黒人音楽》って、ディアンジェロのこのノリを《黒い》というなら、別に、たいして《黒く》ない。
むしろ、ディアンジェロの割り切れないノリは、《黒人音楽》として異質だった。
繰返すが、細分化されているということは、きっちり割り切れている、と言うことである。
こんなに、ぐじゃっとはしない、のだ。
さらに、基本的に、音楽的な方法論としてのポリリズムは、実は、割り切れる。
たとえば、3/4拍子に4/4を重ねても、数字のマジックで、いつかは重なる瞬間がある、と、その、すれ違いさえいつか重なってしまうという大きな単位での数理的なグルーヴ、というのが方法論としてのポリリズムなのだから、ディアンジェロの、いつまでたっても割り切れないグルーヴとは、別種のものなのだ。
じゃぁ、ディアンジェロの音楽のグルーヴが何に近いのか?
…戦前ブルースである。
とくに、ロバート・ジョンソンの音楽の、あの、悪魔的なノリ、である。
意図的に作り出されたブレ・ズレ・揺れの三点セットが、微妙に生み出すさざ波のようなグルーヴ。
ちなみに、ヴードゥー教というのは、ハイチ出生のキリスト教に影響を受けた宗教で、縁もゆかりもない日本人にはオカルトのイメージが強いが、戦前の黒人社会においてはごく一般的な宗教、たとえば白人が日曜日に教会に行って礼拝するのとほぼ変わらないものに過ぎなかった、という説がある。
故に、ロバートもヴードゥー教徒だったらしいし、その影響が、歌詞にも現れている、と言う。
誤解をしてはならないのは、ロバートは、なにも、邪教を広めようとしたのではない、ということだ。
当時の、差別されていた黒人たちの当たり前の日常の風景だったから、普通にそう歌っただけの話である。
で、《Voo Doo》だ。これは結局、ディアンジェロによる戦前ブルース回帰だったのではないか?
戦前、つまりアフロ・アメリカンたちのヴードゥー教時代への回帰、である。
ディアンジェロのセカンドが生み出す《ポリリズムなノリ》は、実際にリズムが理数的に複合されているわけではなくて、ドラム、ベース、ヴォーカル1、ヴォーカル2、それぞれのパートが、微妙にブレ、ずれ、揺らぎが生み出されることによって発生する。
楽譜に起こしてしまえば、どうしても割り切れないわけではない。
いずれにしても、ディアンジェロの割り切れないノリは、戦前ブルース以降、長い間失われていたノリだった。
もうひとつ、類似するノリの音楽がある。
90年代初頭の、ターン・テーブル型ヒップ・ホップである。
今の、打ち込み型ヒップ・ホップと、この当時のターン・テーブルを本当に回していたころのヒップ・ホップは、実は、別の音楽だ、と想う。
たとえばD.J.プレミア。
ドラムラインはシンプルだ。
ドカッ、カッ、ドカッ、…ドカッ、カッ、ドカッ、…と。
が、この人の音源は、いうまでもなく既存のヴァイナルからサンプリングしただけの、別のテンポと拍子を持った音楽の部分をつぎはぎしただけなので、どうしても、ブレるし、ずれる。グルーヴは揺らぐ。
Jeru The Damaja
Album; The Sun Rises in the East(1994)
初期ヒップ・ホップのぐしゃっとした《黒い》ノリの正体は、トラック・メーカーには管理不能の、偶然の、そして当たり前の必然が生み出したものだ、と想う。
そのノリを、殺してしまったのは、あまりにも洗練されすぎたピート・ロックだった、…かも、知れない。
彼のあまりにも完成された音楽には、そんなズレやブレなど介入する余地がない。
つまり、初期東海岸ヒップ・ホップは、戦前ブルース的なものを、偶然にでも何でも獲得してしまっていた。
それを、戦略的に、確信犯として取り入れたのが、ディアンジェロの《Voo Doo》=戦前ブルース回帰アルバムではなかったか?
音楽美の完成から、その間逆の展開を、彼は示して見せたのだ。
ストーンズにも、同じ事が言える。
たとえば、《イッツ・オンリー・ロックンロール》。タイトルからしてロックンロール賛歌と解釈されてしまうが、本当に?と想ってしまう。
意図的な深読みではない。
だって、曲、まったくロックンロールじゃないじゃないか。
Chuck Berry
Johnny B. Goode
the Rolling Stones
It's Only Rock 'n Roll (But I Like It)
基本、ノリは戦前ブルース。戦後のあのタイトな感じですらない。キースの弾くいかにもロックンロールっぽいフレーズも、このゆるすぎるテンポに見事に解体されてしまっている。
それぞれのヴァースの頭の、かなり唐突に突っ込んだ入り方も、戦前ブルースっぽい。
演奏自体、《スティッキー・フィンガーズ》のタイトな感じは微塵もない、ブレ・ズレ・揺れのぐちゃっとしたノリである。
つまり、ここで行われているのは、戦前ブルースへの回帰によるロックンロールの解体作業である。
この、どうしても割り切れないグルーブ。
もっとも、この後ストーンズは、《ブラック&ブルー》という完全に割り切れたビートのアルバムをつくり、やがては《サム・ガールズ》以降のパンキッシュなたてノリに、変貌してしまう。
その後、ついにこの戦前ノリに回帰することはなかった。
そして、ディアンジェロも、十年以上も沈黙する、という異常事態を生んでしまう。
もう一つ、そんな戦前っぽいノリの音楽がある。
言うまでもなく、マイルス・デイヴィスの《オン・ザ・コーナー》である。
僕がこれを聴いたのは、戦前ブルースも、ストーンズもディアンジェロも聴いた後だったので、世で言われていたような問題作とは想えなかった。
普通にかっこいいグルーヴ・ミュージックだと想っただけである。
もっとも、このマイルスも、実質このアルバム周辺の1年間程度しか、このグルーヴを継続させてはいない。
結局、割り切れるビートを正しい音楽、綺麗な音楽と呼んでしまうならば、戦前的なノリは、正しくはない、という意味で、悪魔的な音楽だ、と、言おうと想えばいえる。
悪魔的グルーヴというものは、突然変異的に生み出されるもので、《正しくない》以上、継続などしてはいけないのかも知れない。
もっとも、ここで言う《悪魔》に神秘主義的な意味合いは一切ない。
単純に、正しいものとは神様、故に必然的に、正しくないものとは悪魔、という単純な論理を意味するだけである。
…ところで。
実は、世界宗教の中で、どうしても割り切れない宗教が一つだけある。
仏教ではない。あれは、純粋な論理学、存在論哲学である。
イスラム教ではない。あれもまた、シンプルな一神教宗教である。神は一人。人は彼にしたがわなければならない。それだけ。何の矛盾もない。
割り切れないのは、むしろキリスト教である。
そもそも、救世主が、かれが救済してやるべき人間たちそのものによって殺され、裏切られ(ユダ)、見捨てられ(磔刑時の十二使徒)、よりによって《主よ、主よ、なぜ私を見捨てたのか?》と、詩篇の引用であるとはいえ、あんまりな言葉を、当人が吐いて死んでいったという宗教のことである。
実際、この宗教が生み出す哲学は、キルケゴールはもとより、その基本論理がどうやっても割り切れないものである以上、デモーニッシュなものにならざるを得ない。
Robert Leroy Johnson
PREACHING BLUES (UP JUMPED THE DEVIL)
I's up this mornin' ah, blues walkin' like a man
I's up this mornin' ah, blues walkin' like a man
Worried blues give me your right hand
朝起きたら、ブルースが人間みたいに歩いてた
朝起きたら、ブルースが人間みたいに歩いてた
心配性のブルース、俺に右手を貸してみろ
And the blues fell mama's child tore me all upside down
Blues fell mama's child and it tore me all upside down
Travel on, poor Bob just cain't turn you' round
ブルースが頭に落ちてきて、引き裂かれてまっさかさま
ブルースが頭に落ちてきて、引き裂かれてまっさかさま
逃げ惑え、かわいそうなボブ、振り向くことさえできやしない
The blu-u-u-u-ues is a low-down shakin' chill
spoken: Yes, preach 'em now.
Mmmmm mmmmm is a low-down shakin' chill
You ain't never had 'em, I hope you never will
ブルースは憂鬱で震える寒気
…説教くれてやれよ
憂鬱で震える寒気
あんたがまだ憑り付かれてなければ、
そのまま終わればいいんだけどね
Well, the blues is a achin' old heart disease spoken: Do it now. You gon' do it? Tell me all about it.
Let the blues is a low-down achin' heart disease
Like consumption killing me by degrees
ブルースは痛みに塗れた壊れかけの心臓の病い
やるの?やるんだろ?全部言って見せろよ
ブルースは痛みに塗れた壊れかけの心臓の病い
結核みたく、ゆっくり俺を殺していく
I can study rain oh, oh, drive, oh, oh, drive my blues
I been studyin' the rain and I'm 'on' drive my blues away
Goin' to the 'stil'ry stay out there all day
雨を降らせるぜ、俺のブルースを洗い流してやる
雨を降らせるぜ、俺のブルースを洗い流してやる
一日中、飲んだくれようか?
いずれにしても、音楽に関して言えば、僕は割り切れないこれらのグルーヴが大好きだ。
ぜひ、一度、浴びるほど聴いてみてはいかがだろう?
ちょっと、他の音楽が聴けなくなるほどに、病み付きになってしまうノリがあるのは、否定できない事実なのである。
2018.06.26 Seno-Le Ma
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