2つの《Brown Suger》ローリング・ストーンズとディアンジェロ、そして戦前ブルース Ⅰ.
2つの《Brown Suger》
ローリング・ストーンズとディアンジェロ、そして戦前ブルース Ⅰ
~悪魔的な音楽に対する、唯物論的なエッセイ
The Rolling Stones
1962.-
D'Angelo
1974.02.11-
Robert Leroy Johnson
1911.05.08-1938.08.16
《悪魔の音楽》について語ろう。
…いや、まったくオカルトの要素はない。単に、音楽の《ノリ》を形容した言葉に過ぎない。
キリスト教徒でもあるまいし、21世紀真っ盛りの世の中、しかも、僕は徹底的に唯物論者である。
ところで、まず、こんな質問。
《Brown Suger》って曲、知ってる?
このとき返ってくる答えで、その人の年齢や音楽嗜好がばれる。
《Brown Suger》と言えば、世代を隔てた超有名曲がふたつあるからだ。
大体、記事タイトルで察しがついてしまうのだが、60年代デビューの《不良の神様》ロック・バンド、ザ・ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)の曲(1970)と、90年代デビューのネオ・ソウル/ヒップ・ホップ・ソウルの伝説、ディアンジェロの曲(1995)である。
ふたつとも、それぞれのジャンルでは、知らない人がいない超有名曲である。
知らない人がいないくらいの、ではない。実際、知らない人はいない。
だから、僕みたいな世代で、僕みたいな、ロックもヒップ・ホップもクラシックもジャズも雅楽も聴いていたという、若干雑食性の強い人になると、
…《Brown Suger》って曲、知ってる?
その質問の答えは、間違いなく、こうなってしまう。
…ごめん、どっちの?
D'Angelo
Brown Suger(1995)
The Rolling Stones
Brown Suger(1970)
僕は1974年生まれなので、80年代末期から90年代半ば、というのが、一番音楽をリアルに、…すくなくともポップ・ミュージック系に関しては、聴いていた世代、である。
だから、ディアンジェロはともかくストーンズなんて世代が違うだろ?と言われそうだ。
ザ・ローリング・ストーンズなんて昔のバンド、お前、ろくに知らないだろ?
しかし、実は、ストーンズに関しては、1990年ストーンズ世代、と言うのが、たぶん、確実に存在する。
要するに、その年、ストーンズが初来日を果たした、のである。
これには長い長い複線がある。
まず、一度ストーンズは、日本の政府機関に来日を拒否られている。
1973年だ。このころ、ストーンズのブルース・ロック期全盛時代。アルバムで言うと、《山羊の頭のスープ(Goats Head Soup/1973)》とか《イッツ・オンリー・ロックンロール(It's Only Rock'n Roll/1974)》のころ、…かな?
日本にも、もろに影響を受けたバンドがたくさんいた。たとえば《村八分》など。
この時期のストーンズはミック・テイラー(Michael Taylor)在籍時。一番、バンド・サウンドがタイトだったころである。
いずれにしても、外務省だか入国管理局だかなんだかが、ドラッグ問題で入国を許可しなかった、のだ。チケットもすでに発売されていたので、ファンは泣いた(…らしい)。
西郷輝彦(…という、個人的には「水戸黄門」の助さんだったか角さんだったかで有名な人、というイメージのある人)が、《ローリング・ストーンズは来なかった》という曲を書いて歌った(…らしい)。当時、この人、アイドル・シンガーである。
つまり、日本人ファンは一度、ストーンズを《喪失》していたのである。
かつ、80年代後半のストーンズは、結構、ガタがきていた。崩壊寸前だった(…らしい)。
ミック・ジャガー(Michael Jagger)の勝手なソロ活動開始に端を発する、キース・リチャーズ(Keith Richards)との不仲によって。
キースは、ミックの後追いで出したソロ・アルバム《Talk is cheap》で、ご丁寧に「You don’t move me any more(あん?お前なんかにもう興味ねーんだけど、マジで)」と、言うミックに向けた怒りソングを発表している。
もっとも、このソロ・アルバム、超のつく名盤だった。
ともかく、日本人ファンどころか、世界中のファンが、ストーンズを《喪失》しそうになっていた、のである。
そんな崩壊寸前ストーンズが、仲直りしてふたたび結集したのが、シングル《Mixed Emotions(フクザツなキモチ)》と、アルバム《Steel Wheels/1989》だ。話題になった。評価も高かった。それなりに売れた。で、日本に、ついに来た。それが、1990年。
さらに、この時期は、日本だと、《ロック》という音楽が特別な音楽たりえていた、最期の時期だった。…と想う。
かつ、すでに旗色はかなり悪かった。
どう考えても、ニューヨークとロサンゼルスで勃発したヒップ・ホップのほうがかっこよかったからだ。
さらに、ちょうど、日本ではバンド・ブームというのがあって、バンドをやる、というのが、あまりにも一般的な趣味になりすぎていた。もはや、《ロック》に毒っ気はほとんど残っていなかった。
だいたい、僕たちの世代の親は、いわゆる《ザ・ビートルズ/GS/ザ・ベンチャーズ》世代である。子どもがバンドを始めたがっても、別に文句を言わないどころか、趣味程度でさえあれば、応援してくれさえした。
三島由紀夫も言っているが、もともと近代の文学・芸術というのは、不良性が生んだスタイルなのだ、とも言える。
良くも悪くも反道徳的・反社会的ななにかを、持っているうちが華、のジャンルだ。
今ではクラシックな青春文学に過ぎない《ダザイ》も、道徳の教科書に載っていた《ベートーベン》も、当時は社会の要注意人物だったわけでしょう?
80年代後半、ロックは加速度的に獲得した一般的な人気と、世代を超えた承認・理解を獲ることによって、むしろ、急速に衰退していく。子どもにとっては、親が理解できないヒップ・ホップのほうが、かっこいいに決まっているのだ。
親はギターなら楽器だと認知できるのだが、テクニクスのターン・テーブルや、意味不明なMPC2000とかいう名の地味な箱なんて、《楽器》として認知できなかった(こがぁなもん、どうやって弾くんなら?…と、広島弁で言われた記憶がある。…すみません、弾きません。せいぜい、叩くだけです笑)。
…ヒップ・ホップの、この、ロックに対する優位性は、もはや絶対的なものだった。
ちなみに、《ライブ》に行くより《クラブ》に行くほうがかっこよくなってきたのも、このころだった。
そんな曲がり角で、ロックが輝いた最期の時期、それが1990年前後である。
本当に、うそ?というくらい、日本中が盛り上がった。
東京ドームで10日間のコンサートをしたのだが、地上波でゴールデン・タイム放送されたし、誰にも彼にも、不良のロック・バンド=ストーンズは、認知された。
結局、僕もほぼ無意味にストーンズにはまってしまって、アルバムを全部聴く羽目になった。
ギターでもコピーする羽目になった。
しかも、買ったギターはテレキャスターだった、という羽目にも陥る。
ちょうど、ヴァイナル(アナログ・レコード)~CDへのハード上の移行期が完全に終った、ヴァイナル時代の旧譜再発売全盛期でもあったので、レコード会社は、まるで、新譜なみの扱いで、大量に旧譜を売りさばいていた。
そのせいもあって、90年代あたりからすでに、今とは違った意味で、旧譜しか売れない時代が到来していたのも事実だ。
いまは、若い子はほぼダウンロードやストリーミングで終るから、CDみたいな《物品》を買うのは《おやじ》かAKBファンだけである。
実際、日本にはストーン・ローゼス世代も、オアシス世代も、実質、存在しない。《物品》を買わなければ音楽が聴けなかった時代に、だれもまともに買ってなかったから。
1999年スタートの漫画《NANA》も、主人公たちの憧れは《シド・ヴィシャス》である。
22年前に死んだ、リアル・タイムでは知りもしないパンク・ヒーローに憧れているのだ。
いずれにしても、ロック衰退期と旧譜ビジネスは完全にシンクロしてしまったのだ。…たぶん。
話はかわるが、僕がストーンズから教わった音楽的遺産とは、ストーンズ自身の音楽、というよりは(…もちろん、いまでも時々は聴きますが…)、戦前ブルースだった。
でも、この時期、1990年にブルース・ファンになったという人間は、僕だけではないはずだ。
実は、1990年戦前ブルース世代、というのも、またまた存在する。
理由はただ一つ、《十字路にひざまづいて悪魔に魂を売った代わりに早死にして地獄に落ちた魔性のギタリスト》ロバート・ジョンソン(Robert Leroy Johnson)の、現存する全音源を集めたCDが、発売されたからだ。
それは、ストーンズやエリック・クラプトンがこぞってカヴァーしてきた、文字通り伝説の男の伝説の音源であって、すくなくとも、僕は発売日に買った。
バンド・ブーム、ストーンズ・ブーム、ストーンズ来日、ブルース・ブーム(そのまえにも、U2の《魂の叫び》というブルース/ロックンロールのルーツ探しの映画のヒット、というのもあった)、そのタイミングで、キース・リチャーズがライナー・ノーツまで書いている伝説の男のCDが発売されれば、話題にならないわけがない。
当時、ほとんどの音楽雑誌がこのCDの特集をしていた。
ギター雑誌なんか、一冊のほとんどを、ロバート・ジョンソン特集で埋めていた。
ついでに言うと、当時、ロバート・ジョンソンは《ギタリスト》だった。《シンガー》ではなかった。
日本での扱いとしては、である。
いまはもっとまともに、《弾き語りのブルース・シンガー》としてちゃんと聴かれているはずなのだが、当時はあくまで《悪魔に魂を打ったギタリスト》であって、《シンガー》ではなかった。
戦前ブルース。このジャンルは、相当マニアが多い。しかも、コアすぎるくらいにコアだ。そして、日本人ばかりだ。本当に、ブルース・ファンは日本人に多い。そして、コアになればなるほど、日本人率は高くなる。
それって、実は、以上のような経緯がもたらした必然である、という気がする。
60年代から70年代の第一次ブルース・リヴァイヴァルだけなら、その後廃れていくのが当たり前だが、日本の場合、その後1990年世代も生まれたわけからね。
すくなくとも、僕たち世代が死なない限り、廃れない、ということになる。
もっとも、僕たちの世代で、ロバート・ジョンソンのCDを買って聴いた人の大半は、2、3曲聴いて挫折したのではないか。
初発盤は、すさまじく音が悪かったし、《ブルース》という音楽の、かっこいいチョイ悪おやじが咥え煙草にバーボンをロックでぐい飲み的な、そういう当時の適当なイメージを覆す、わけのわからない音楽だったから。
バイク乗りでもないくせに皮製品着込んで(…だいたい、日本でロック音楽やってる人って、スピード狂、少ない気がする。バイクに乗りはしても、ね。そんなに出さないですよね。)、咥え煙草に内股で、ヴィンテージ・モデルのエレキ・ギター的なイメージを、ものの見事に粉砕してくれた。
音質に関しては、のちに発売された《King of Delta Blues Singers》の分売CD盤で、大幅に音質は向上しているので、もう、なにも文句はない。
僕はこのヴァージョンの音質が一番好きだ。
その後にもリマスター盤が出たが、ちょっと、ノイズ・リダクションかけすぎなんじゃないの?…と。
ギターの音が、アンプを通さずに引いたエレキ・ギターみたいな音がする。いくらなんでも、それはひどい。
もっとも、《King of Delta Blues Singers》盤も、ピッチ問題など、マニアが口を開けば文句どころか冒涜だくらいの言葉も飛び出すが、あまりにもディープな問題なので、それはそれで置いておこう。
とはいえ、SP再生の根幹にかかわる興味深い問題ではある。
じゃぁ、お前はロバート・ジョンソンの音楽についてどう想うのかと言う、肝心なところなのだが、高校生のとき、はじめて聴いた瞬間に、すぐに
…いや。
すぐに、……では、なかったが、無理して5トラックくらい聴いて、つまらなすぎて耐えられなくなって、聴くのをやめて、CDを片付けて、お金、損しちゃったな…そう、軽く悔恨にさいなまれながら、ベッドに寝っころがって雑誌を開いた瞬間に、その良さに気付いた気がした。
あくまで、《気がした》だけである。なにもわかっていなかったが、いや、なんか、すごいんじゃない?と。
で、もう一回聞き直しはじめた。
そして、これは、あまりにも個性的で、特異な表現であって、《ブルース》という音楽の何かを代表している、そういう音楽ではないな、と想った。
そして、当時のブルースでパンクな文学かぶれや、文学かぶれの音楽評論家だとか、自称ロック詩人とかの語る《ロバート・ジョンソン》への、どうしようもない違和感をも。
…だって、ロバートは俺の親友だ。心に直接語りかけてくるんだ、状態だったもの。
…そう?そんなに親しみやすい音楽なの?俺、絶対こんな音楽のおトモダチにはなれないんだけど。
とにかく、普通じゃない音楽だ、と。そんな気がした。
だから、逆に、もっと普通の《ブルース》をたくさん聴いてからじゃないと、この音楽の本当のよさは、わかりゃしないんじゃないか?そう、素直に想った。
事実、本当に、なんとなくでもこの人の音楽が理解できたのは、もっと、戦前ブルースやジャズや何やに詳しくなってから、である。
少なくとも、最低でもチャーリー・パットン(Charley /Charlie Patton)やサンハウス(Son House)くらいは聴いていないと、よくわからない。
まず、ロバートの音楽は、発散型ではなくて、凝縮型の音楽だ、という事が言える。
事実、ロバート・ジョンソンで泣いた事があるヤツがいるとすれば、それは相当変なヤツだ、と、僕は想う。
デルタの帝王チャーリー・パットンを聴くとき、たしかに、その素手で音楽の束を大雑把につかみとって撒き散らしたような、おおらかで、繊細な音楽は、ときに涙腺を刺激する。…というか、泣かされてばかりだ。
音楽というものが持つ、本質的なエモーションが、僕たちを打ちのめすからだ。どんなに音楽スタイルが古臭かろうが、それは一切、問題ではない。
聖者サンハウスの音楽で、逆に胸を掻き毟られない人間がいたら、はっきり言っておかしい。
宗教とか、肌の色とか、時代的差異とか、社会的差異とか、そんなものを飛び越えて、何を言っているのかさっぱりわからない彼の英語が僕たちを貫く。
それは、ほとんど宗教的な体験であって、その指がボディごと弦を叩き鳴らすとき、確実に、魂が昂揚する。
唯物論者にすぎない僕の魂さえも、である。
反して、この奇妙なロバートの音楽は、ただ、人々を凍りつかせる。
泣く、どころか、わずかな感傷さえも許さない。
徹底的に抽象的で、クリスタルな輝き。
だいたい、声だ。
この、声は異質だ。
とりつく島もない、すべてを突き放して、嘲笑ったような透明さ。この声が歌うと、すべての風景が凍り付いてしまう。
Robert Johnson
Come on in my Kitchen(1936)
You better come on in my kitchen babe,
it's goin' to be rainin' outdoors
ベイビー、俺のキッチンに入ってきたほうがいいぜ、
外はもうすぐ土砂降りさ
Ah, the woman I love took from my best friend
Some joker got lucky stole her back again
You better come on in my kitchen baby, it's goin' to be rainin' outdoors
そいつは友達から奪った女
でも、どこかの馬鹿が奪い返した
ベイビー、俺のキッチンに入ってきたほうがいいぜ、
外はもうすぐ土砂降りさ
Oh-ah, she's gone I know she won't come back
I've taken the last nickel out of her nation sack
You better come on in my kitchen babe,
it's goin' to be rainin' outdoors
あいつは行ってしまった。もう戻ってこないよ
有り金全部、ふんだくってやったけどね
ベイビー、俺のキッチンに入ってきたほうがいいぜ、
外はもうすぐ土砂降りさ
spoken: Oh, can't you hear that wind howl?
Oh-y', can't you hear that wind would howl?
You better come on in my kitchen baby, it's goin' to be rainin' outdoors
語り:
…風のうなり、聞こえる?
風がうなってるの、聞こえてる?
ベイビー、俺のキッチンに入ってきたほうがいいぜ、
外はもうすぐ土砂降りさ
When a woman gets in trouble everybody throws her down
Lookin' for her good friend none can be found
You better come on in my kitchen baby,
it's gon' to be rainin' outdoors
女がトラブルを抱えれば、誰もがすぐに放り出す
味方を探したって、どこにもいないよ
ベイビー、俺のキッチンに入ってきたほうがいいぜ、
外はもうすぐ土砂降りさ
Winter time's comin' hit's gon' be slow
You can't make the winter, babe that's dry long so
You better come on in my kitchen 'cause it's gon' to be rainin' outdoors
ゆっくりと冬がやってくる
冬なんか越せないぜ、そんなに干上がってちゃ
ベイビー、俺のキッチンに入ってきたほうがいいぜ、
外はもうすぐ土砂降りさ
曲自体は、要するに、単に女を誘っているだけの歌なのだが、ロバート・ジョンソンが歌うと、すべての言葉が一気に妙な暗示力を帯びる。
たかが、キッチンに入って来いよ、そのセクシーなフレーズ一発が、である。
もっとも、何を暗示しているのかなどわからない。
言葉を異化させ、宙吊りにして、焼き尽くしてしまうのだ。
聴いているものは、置いてけぼりにされて、凍りつくしかない。
だから、最初聞いたとき、ついていけなかった。
ここまで、人を感動させない音楽があっていいものだろうか?
音楽が、凍りついたまま、一切のエモーショナルな力を発散することを拒否していても、果たして人間が聴く音楽として、いいのだろうか?
…これでも、それは音楽と呼べるのだろうか?
だから、いまだにロバートの音楽を好きだ、と、そう断言する気にはどうしても、なれない。
そのくせ、もう二十年以上飽きもせず聴き続けているのである。
ある意味に於いて、ロバートの後続世代における、彼の真の後継者は、実は、スキップ・ジェイムス(Skip James)だったかも知れない。
Skip James
Catfish Blues
ただ、その声の極度の抽象性に於いて。
ロバートのような邪悪な嘲笑が渦巻く、向こう側の世界ではない、あくまでこちら側にとどまったままで、すべてを突き放した透明性を、スキップ・ジェイムスの声は獲得している。
もう一つ、二人に共通しているのは、…そして、いわゆる戦前系引き語りブルースに総じて共通しているのは、音楽のいたずらなブレ・ズレ・揺れである。
たとえば、キース・リチャーズは、ロバートの音源を初めて聞いたときに、複数人での合奏だと想ったらしい。
たぶん、そう想った理由は、この時期のブルースの演奏が、とくにロバートのそれをその極地として、伴奏の刻み含めた、さまざまな声部が微妙に伸縮し続け、ズレながら進行するから、だと想う。
拍節感が曖昧だ、とか、指のもつれ、というのとは違う、微妙で意図的な外し方によって、その独特のグルーヴは形成される。
横のラインに於いても、縦のラインに於いても、である。
つまり、突っ込んでいるのか、引きずっているのか、その中間、あるいは両方の、モノ・リズムなのにポリ・リズムっぽい、というわけのわからない世界が形成される。
ロバートの場合、いつもそうだ。
特に、はなはだしい。
とても一人の人間の指先がこんなブレとズレを刻めているとは想えない。…故に、キースは複数人の合奏だと想ったのではないか。
これが、ロバートの悪魔的とでも言うしかないグルーヴを生んでいる。
そして、このノリは、意外にも戦後のバンド=合奏ブルースにはあまり匂われなくなってくる。
どこか、グルーヴが様式化される、のだ。
だから、マディ・ウォータースとロバート・ジョンソンでは、別の音楽スタイルを聴いているような錯覚さえ感じるときがある。そんなに時代が離れているわけではないのに。
いずれにしても、そんな、重層的なグルーヴにあの冷酷な声がかぶさるとき、美しいとも醜いともいえない、ある研ぎ澄まされた真空の音楽空間が発生し、その唯中に、僕たちは取り残される。
感傷や共感など、そんな人間的感情など全部嘲笑われ、そして燃やしつくされてしまいながら。
僕にとって、ロバート・ジョンソンは、アメリカの古典でも、20世紀の古き貧しき風景の感傷でも叙情でもなんでもない。
それは、むしろ、留保無き《前衛音楽》でこそある。
(この稿、Ⅱ.に続く)
2018.06.26 Seno-Le Ma
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