小説 op.5-(intermezzo)《brown suger》⑩…君に、無限の幸福を。
brown suger
#8
波の音を聴いた。
それを聴きたいわけではなかった。
夕焼けは、すでに消滅した。
ざ、ざ、と。
さ、…さ、それら、
ざ、…ざ、…さ、…ざ、…さ、その。
音。
波の。
日は暮れた。
Thanh が耳を澄ましているのは知っている。
マリアは、かたわら、砂浜に胡坐をかいて座った Thanh が、無意味に微笑んで、自分を見つめていることを、そしてひざを抱えたまま、気付かない振りをした。
沿岸警備員もすでに立ち去って、放置された砂浜を、疎らな、本当に疎らな人たちが自分勝手に空間を占有し、それらは単なる影に過ぎなかった。
遠い。その、眼差しに映ったに過ぎない、その。
なにも、マリアが言わないから、Thanh は沈黙するしかなく、Thanh の眼差しをマリアが占有する。
暴力的なまでに、マリアは Thanh の眼差しのすべてを占領して仕舞って、聴こえる気がした。
至近距離の、その心臓の音さえも。
暮れた日が、背後、海岸沿いのビル群の向うに、完全に姿を消してから数分の後。
やまない潮風が、ときに乱暴にマリアの髪の毛をかき乱してみせる。
…ざ…ざ…ざ
…ざ…ざ…ざ
…ざ…ざ……ざ
…ざざ…ざ
それら、単なる音響に過ぎないもの。
…ざ…
ざ…ざ…ざ…ざ…さ
…ざ…ざ…ざ
…さ…ざ…ざ………ざ
…さ…さ…ざ…ざ…ざ
…ざ…ざ…ざ
…ざ…ざ…ざ
…ざ…さ…ざ…ざ
…ざ…ざ…ざ…ざ
…ざざ…ざ
……ざ
…ざ…ざ…ざ…さ…ざ…ざ
…ざ…ざ…ざ
…ざ
…ざ………ざ…ざ
…ざ…ざ……ざ
…ざ…ざ……さざ
………ざ…ざ…ざ
…ざ…ざ
…ざ…ざ…ざ
…ざ…ざ…ざ
…ざ……ざ…ざざ…ざ
…ざ…ざ…ざ…ざざ
…ざ……ざ見つめられた
…ざ…ざ…さ…ざ
…ざ…ざ…ざ
……さ…ざ…ざ…ざ
…ざ……さざ…ざ
…ざ…ざ…ざ…ざ…ざ…ざ
…ざ…ざ…ざ
…ざ…ざ…ざまなざしが
…ざ…ざ…ざ…ざ…ざ…ざ…ざ…さ…さ
…さ…ざ…ざ…ざ
…ざ…さ…ざ…ざ
…ざ…ざ…ざ…ざ…ざ…ざ…ざ……
ときに、…さ…ざ…ざ
…ざ…ざ
…ざ…ざ…さ…ざ
…ざ…ざ…ざ
…ざ
…ざざ……ざ
…ざ…ざ…ざ
…ざまばたくたびに…ざ
…ざ…さ…ざ…さ…ざ
…ざ…ざ…ざ
…ざ…ざ…ざ
…ざ………ざ…ざ
…ざ……ざ…ざ
…ざ…ざ…ざ…ざ…さ…ざ……ざ
…ざ…さ…ざ…ざ
…ざ…ざ
…ざ…ざ…ざ
……さ…ざ…ざ…ざ…さ
…ざ…ざ…ざ…ざ
…ざ…ざ…ざかすかなぶれを
…ざ…ざ…ざ
…ざ…ざ…ざ…さ
…ざ…ざ…ざ
…ざ…ざ…さ…ざさえもって、
…ざ…ざ…ざ
…ざ…ざ
Thanh の眼差しが、マリアを見つめた。
どうしたの?
鼻の先で小さく
なに、見てるの?
一度笑って仕舞いそうになった
微笑みながら、
マリアの気配を
真剣になって
Thanh は見逃さなかった。
それは単なる、冗談か、遊びに過ぎなかった。
不意に Thanh を振り向き見て、すれすれの至近距離に、歯を見せて笑ったマリアにさえ、Thanh はもはや戸惑いさえしない。
…ねぇ。
笑う。マリアが。
そして、掛かった。
その息が。
鼻に。
立ち上がりもせずに、Tシャツを両手でめくって、一気に脱ぎ捨てるマリアを見る。
背後に、バイクと車の、無数の疾走が、音響になって、Thanh の耳に触れる。
我慢できなくなったマリアが、声を立てて笑った。
夜の空間に点在した光が、おぼろげにマリアの肌を染めた色彩と、その輪郭とを浮かび上がらせて、単なる影と、映像の鮮明さの境界線をふらつく。
短パンを、下着ごと脱ぎ捨てたマリアが、
…ねぇ、
言った。
泳ごう、
…ね?
Thanh を置き去りにしたまま、海に走り出したマリアを見る。
波の周囲を一度迂回して、振り向いて、
…おいで。
手を振ったマリアの足元を波が濡らしたに違いない。
左足を上げ、腰を振った。
声を立てて。
聴こえない。
その声は。
影。
海のこっちの、小さな影に過ぎなくなったマリアを、取り戻さなければならなかった。
同じように、服を脱ぎ捨てた Thanh が、波打ち際に走る。
マリアを抱きしめ、抱きかかえるようにして海に入っていく。
匂う。
膨大な潮の匂い。
生ぬるい、海水の温度が、足元を濡らす。
腕に、マリアの体温が。
それは、あまりに明確すぎた。
羽撃く。
鳥たちが。
遠くの空を、そして。
ふれ合う肌が、ただ、ふれた肌を感じる。
羽撃く。
羽撃きの音は聞こえない。
肌は、濡れていった。しぶきに。
マリアが暴れてみせる。
自分を抱きかかえた腕を抱きしめたまま。
声を立て。
至近距離の、その。
耳元の
しがみつくように。
流れた
歓声を、風が流す。
声が
腰まで海につかった Thanh の、胸に抱きかかえたマリアから、海水は彼女の体重を奪い去った。
声を立てて、Thanh が笑う。
聴く
マリアはその、鼻にかかって乱れた
その、笑った
音声を
声を
聴いた。
波が鳴った。
耳元で。
波が鳴る。
水がざわめく。
波に揺られ、マリアに水しぶきを派手に掛けられながら、やんちゃな声を立てて、そしてThanh は探った。
海水に奪われた彼女の重さと、あたたかさと、肌触りのリアルを、すべて一気に取り戻すそのすべを。
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