小説 op.5-(intermezzo)《brown suger》⑨…君に、無限の幸福を。
作品の中に、何回かバイクに乗るところがでてきますが、…
ところでベトナム。
もしもバイクに乗る人で、もしもベトナムに来ることがあったら、間違いなくおすすめなのは、バイクに乗ること。
レンタル・バイクとかありますからね。簡単に乗れます。
ベトナムの公道はカオスだ、という意見もありますが(笑)、
公道で小うるさいバイクの群れを何台も抜き去っていく快感と言うのは、日本の公道にはないですよね?
バイクに乗る人でも、いける人はいけるし、無理な人は無理だと思いますが、結構、おもしろいです。
もっとも、以上はそれなりに、若干イリーガル気味な話ではありますが(笑)。
もちろん、公式見解としては、交通規則は守らなければなりません。
…とはいえ、…ま、灰色グレーゾーンのなんとなく怒られないファウル、というのもあって、特にベトナムの公道にはあふれています(笑)。
2018.06.26 Seno-Le Ma
brown suger
#7
■■■■■…………、その音。
Duy が唇の先に立てた、口笛の音に振り返り、Thanh は微笑を返してやった。
知っているか?と想う。…誰に、というわけでもなくて。
風に温度があることを。
どんな、風圧でさえも。
雨が降る前は
Duy はいつでも快活だった。
大気が湿る
健康を持て余したように、声を立てて笑い、そして。
Thanh は想い出す。バイクの上では、すべてのもが力として、その姿を曝す。
日差し、それが海を、その波立ちのかたちをさえきらめかせ、そられを隈取もせずに浮かび上がらせる。
衝突してしまえば、単なる電柱でさえ、無慈悲なまでの力としての、その存在自体を曝すに違いないのだった。
その力への畏怖が皮膚を刺すが、その予感された苦痛は、知覚される前にすでに、風圧が消し去って仕舞っている。
明滅する、その色彩。
海の。
Duy が何か言って笑った、その何かを、Thanh は聴き逃していた。
風が Duy の髪の毛を吹き上げて、後に乗っているマリアの髪の毛も、派手に乱れたに違いない。
自分の前髪と同じように。
目の前に真っ白い家があった。新しい家が、
…温度
たいてい白いのはなぜなのだろう?古い家が、
日差しの、その
どれも優しいパステルカラーの色彩のペンキで、
温度
彩られているものだというのに。
Thanh は、
感じられたもの
目の前の家をあごでしゃくった。
Duy に、別に異存はない。
…湿度
周囲に疎らに散乱した更地の前に
かすかな
バイクを止める。国家ぐるみの大規模な再開発が、
水の
この都市を覆いつくしていた。どこにも、かしこにも、
存在
少しバイクを走らせれば、更地が広がる。一区画そのものさえ更地に剥かれ、再び開発されるのを待つ。
後ろ手を引かれた。マリアだった。バイクを降りた Thanh が、その家へ行こうとした瞬間に。
Duy が振り向く。何も言わない。
Duy の、何をも伝えない、
…なに?
ただ投げ捨てられた眼差しが、マリアを捕らえていた。Thanh は、
綺麗だよ。いま
マリアの眼差しに
空は
耳を澄ました。
マリアが、いかにも尻が重そうにバイクを降りて、二人を先導し始めるのを、Duy は声を立てて笑った。Thanh たちの目の前で、大袈裟に尻を振って見せながら、歩き、振り向き、舌を出しておどける。
妊婦の死体が、うつ伏せで床の上に転がる。背中が腹部の形態にあわせて、滑らかに歪曲していた。ガレージを兼ねた、居間を入ったすぐだった。
マリアはそれを見つめ、Duy にまわされた煙草をすった。左腕の血管にある、かすかな痛みが離れない。目の前の、時間を失ったそれは、もはや痛みなど感じはしない。
階段の下には、上から投げ落とされた4歳くらいの子どもの死体が、首と左腕を変な方向に向けて、死んでいる。
その時、声を立てるな、と、振り向いた Thanh の眼差しが命じた記憶がある。なぜ?と、想うまでもなく、自分が悲鳴をあげそうな顔を曝していたからに違いない。
子どもを叩き落したのは Thanh だった。奥から抱きかかえてきて。その子の唇が、何か言おうとして開きかけた瞬間に、微笑と共に、その子どもは墜落した。
とても、多くの血を見てきた気がした。何人もの。
マリアは思いなおす。
晴れた日には
Thanh は、...一度だけ、目を細めて、その俊敏なだけの無表情は、何をも語らなかった。
水をやる
ママの、あの墜落していく後姿以外には、見はしなかった。
花壇の花に
あの日、午前九時に目を覚まして、ベッドの中でまどろむ。スマホで、ゲームをした。
水をやる
奥で、物音がしていた。二階の。男の。…何歳だかわからない。若くはないはずだった。
晴れた日には
ママが歌った。《Nothing Comperes 2 U》お気に入りの、古い、その、それしか歌える歌などなかっただけかもしれない。
空の下で
Duy がてこずってるに違いなかった。息遣いと物音がやんだとき、煙草を咥えながら出てきた Duy が、唇の血を拭い、そして、ときに鼻をさすっていたのだから。
水をやる
マリアは部屋を出て、30代で老いさらばえたママの、穢くしみを作った肌を見る。
鉢植えの花にも
手すりに身を投げて、Duy が一階に唾を吐く。
血がにじんでいるに違いない。あるいは、血、そのもの。
晴れた日には
**剤が、彼女の背骨を溶かして、ママの身体は揺らぐ。左右に。
まるで、空間には彼女を妨げるものなど何もないのだと、それを誰かに誇示しようとするように。
空を見やる
見つめる自分の眼差しが、あてどない不安のようなさざ波に、震えていることは知っている。マリアは瞬き、Duy は目線さえくれなかった。
横目でそっと
自由に。
しなやかに。
でたらめに。
Thanh のように。
空を見やる
Duy が、もう一度、奥に入っていく。
晴れた日には
マリアがしてやった、一度だけの*****のときに、下から動かしたあの暴れる腰のように。
でたらめに。
水をやる
もう、終ったに違いなかった。誰も、…
干からびた土が
ママと目線が合う。眼差しはかみ合わない。
濡れぼそっても
誰もが?…とにかく、生きてはいない。もう。
晴れた日には
マリアを通り過ぎて、何かを見た、その微笑を、ただ、見詰めるしかなかった。
誰もが
誰も。
義務のように、微笑みかけた瞬間に、振り返ったママがベランダに向かう。開け放たれたサッシュが、まだ生暖かい9月1日の風を吹き入れて、テーブルの上のボックス・ティッシュがさらしたティッシュを、さらさらと揺らす。
誰かの血が、一滴分だけ、穢したそれ。
盛大に尻を振ってみせる。
むしろ、青空を誘惑する。
ほら、男になって見なさい。見せてみなさい。あなたの男を。そんなところに、青く、たたずみ、輝いてばかりいないで。
ママに不意に、笑いかけようとした瞬間に、身を乗り出したママがベランダから堕ちて行った。背中から。
マリアのほうを振り向き見て、あいかわらずかさならない眼差しを曝した瞬間に。音もなく。
それが、必然であるかのように、綺麗に、何事もなく。
咥え煙草の Thanh が、
わたしは好きだった、その
一度降りてきて、マリアに
Thanh の子どもじみた唇が曝す
煙草をくわえさせて、火をつけてやる。
咥え煙草が
一瞬だけ、頭を撫でてくれながら。
Thanh と、Duy が、奥を物色していた。
マリアはただ、木製の豪奢な椅子に座り込んで、煙草をすった。
背後に、人の気配があることには気付いていた。むしろ、車が止まって、門の白い鉄扉を引き開けて、なにか独り語を言いながら家に入ってきたことを、マリアの背中ははっきりと意識していたのだから。
息を飲む気配があった。
そして、時間の完全な静止と。
何をしよう?、あるいは、どうしよう?、…と。
そんな逡巡など、何もなかった。背後に男が立っている、その現実だけを、マリアは明晰に意識していた。
何かが、壊れた。そのてざわりがあった。
ひとことさえも聴きなれないベトナム語の音声をわめき散らしながら目の前の妊婦に駆けよろうとして、そして、やっと、幼児の死体を、その眼差しは認識し得たに違いない。
男の足取りは明らかに乱れ、迷い、停滞し、結局のところ、どこへもたどり着かないまま、振り向いた男は、マリアを見つめた。
殺意。
明確な殺意が、そこにあった。
…違う。想う。
マリアは眼を背けた。その
破壊欲。…たんなる、手当たり次第の
男の眼差しから。明らかな
破壊欲。
穢らしい発熱を、マリアはそれに感じた。
その発情。
男は、髪を綺麗に刈った、30前後の男だった。めずらしく、スーツを、ジャケットまで着ていた。
左眉に沿って、傷痕がある。眉毛を這わせたその、遠い、遠い昔の?
バイク事故の?
…わからない。
こぶしがマリアの頬を殴打し、一瞬、意識が飛んだ。
…白。と、
白い
想う。まばたく。
その
光。
きらめき
くの字に、自分のからだが曲がって、その場にくず折れそうになったのを知っている。
男のつかんだ腕がマリアの首を締め上げ、宙吊りになった、もはや完全に脱力しているマリアの首をへし折ろうとした瞬間に、Thanh が後から男に体当たりをくれた。
Thanh は男の敵ではなかった。Duy はなにか、武器になるべき物を探した。ナイフはバイクのシートの下にしまったままだった。馬乗りになった男の殴打するこぶしが、
光が
Thanh の意識を遠ませるどころか、むしろ、
わたしを
その苦痛を
包んだ
鮮明にした。
鮮明に
男は Thanh を床ごとでたらめに殴りながら階上の Duy から目を離さない。
Duy の眼差しが、ただ、男のその凝視に気を取られて、5秒たった。
男が喉の奥で叫んだ声を、マリアは聞いた。
喉の奥だけで鳴った
男の背中、首の近くに、
その
包丁を突き刺したときに。白熱した
空気音
何かが、
聴いた
頭の中に停滞していた。でたらめに
マリアは。それら、騒音
駆け込んだキッチンの中から、抜き取った一本の
無数に
それを、引き抜いては
頭の中に
差す。男の体が、
木魂す
斧をたたきつけられたかのように、そのか細い
騒音
刃物によって、
その群れ
波打たせられる。
もはや無際限な
マリアは息遣う。男の肉体がわななく。
やがて、ようやく目を開いた Thanh の眼差しが、にもかかわらずためらいがちだったのは、目を開いたときに見えるかもしれない、血走った眼差しの、いわば発狂したマリアなど見たくないからだった。自分のからだの上で、男はマリアに刺し殺されていく。マリアのこぶしごと振り下ろすナイフが、男の体を揺らし、それが背中、床に接した骨に痛みを与えた。
Thanh は、三人分の体重を感じていた。
目を開いたときに、Thanh はむしろ、微笑んだ。冷静な、いつもとは変わらない澄んだまなざしのマリアが、男の背中を静かに見つめ、男の完全な死を確認していたから。
両手に持ったナイフは彼女の胸元に固定され、その手は、かすかにさえ震えてもいなかった。
オッケー、と、Thanh は、何も言わずに唇を動かした。
もういいよ。
悲しい
確かに、Thanh の眼差しの先に、
僕は悲しい
吹き上げた血に、
見える?
顔まで汚した血だらけの
僕の悲しみ
マリアがいた。
いいよ
オッケー、いいんだよ。
オッケーだから…
それで、
いいよ
いいんだよ。もう。
オッケー
…ね?
わかる?
オッケーだから。
唇の、その無言の動きが、マリアを正気づかせたのかも知れなかった。正気づいたマリアの眼差しの先の、やつれて見える血まみれの Thanh に、自分のしでかしたかも知れないすべての事実を把握した。
Thanh を、男ごと刺し殺して仕舞ったかも知れなかった。
細く、鼻にかかった、聴こえないほどの叫び声をたてながら、男の体を押しのけ、Thanh の体中をまさぐった。
一切の血に塗れていないそれ。
血だらけの顔と、
そして
鮮やかな対比を作った、Tシャツを着乱れさせた、
わたしはいま
それ。
無表情のままで
ナイフを右手に握り締めたまま、
焦燥した
じぶんを抱きしめるマリアの頭を、Thanh は撫ぜた。
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