ブルーノ・マデルナ(Bruno Maderna)…そして、至純の和音が破壊する。もっとも痛ましく、もっとも懐かしい作曲家について
ブルーノ・マデルナ(Bruno Maderna)
…そして、至純の和音が破壊する。
もっとも痛ましく、もっとも懐かしい作曲家について
Bruno Maderna
1920 -1973
ここに、とても美しいピアノ協奏曲がある。
当時22歳の青年音楽家によって作曲された。その名はブルーノ・マデルナ。
1942年、第二次世界大戦中に作曲されたものだ。1940年代と言えば、まだ、クラシックの《前衛主義》の勢力下であって、どんな《前衛的な》音楽だろうと想うが、もちろん、ときに不穏な不協和音が鳴ることもあり、かならずしも伝統的なオペラ様式の協奏曲流儀を死守し続けるわけでもないが、非常に美しい音楽が、約十分間にわたって流れる。
Bruno Maderna
1920 -1973
Concerto per pianoforte e orchestra (1942)
なんとなく、現代音楽というよりは、むしろセルゲイ・ラフマニノフのそれを想わせるような音楽である。
たぶん、聴いて嫌いになる人はいないのではないか。
そして、好きになる人も、ひょっとしたら、いない。
もちろん、マデルナは後年、このような様式からはすぐさま撤退し、むしろ、徹底的に《前衛主義》へと突進していく。
この曲は、あくまでも若書きの、故に孤立した作風、と言うことになる。
嫌いになる人はいないが、好きになる人はいない、と書いたが、嫌いになる人はいないというのは、この曲の前半部分の音響である。
一応、単一主題によるソナタ形式…というのがあり獲るかどうかは知らないが(笑)静かで長い提示部と、そして急速調の展開部、短く、つぶやくような再現部で終る、とも言え、破綻した三部形式だとも言える。
じつは、何と言っていいのかわからない。僕は音楽理論の専門家ではない。
その提示部にあたる部分の叙情的な美しさは、それでいいとして、問題は、5分越えるあたりからの展開部である。
なんとも盛り上がらない、のである。
聴く人が聞いたら、学生がてにをはもあわせずに書いた習作と断じて一笑に付す、と、そんな感じの音楽が流れる。
なぜ盛り上がらないのかと言うと、矢継ぎ早に各楽器が重ね合わせる縦の声部も、横の時間的な展開も、なにもかも、お互いの要素をお互いに打ち消しあい続けてしまっているからだ。
弦楽が熱狂とリズムを強めようとすればピアノがうつろなパッセージで熱狂を胡散させ、ピアノが打弦を刻み始めればホーンが霞んでいく意識の呟きを、ただ、漏らし始める。
音楽はいつまでたっても集中せず、集約されず、感情はかたちをなさない。
無感情なクールな音楽が鳴っているのではない。
それぞれがちゃんとした温度を持った感情そのものとして鳴っているにもかかわらず、一つに結集していかないから、結局何を言っているのかわからないのである。
何を言っているのかわからないつぶやきは、単に、何も言っていないに等しく、例えそれが一瞬であっても美しかろうが、単なるノイズに過ぎない。
そう言う意味で、20世紀でも例を見ないほどにノイジーな、絹のてざわりのすべらかな音楽が、ただ、流れ、最終的には、オーボエによるテーマのつぶやきとともに、音楽はいかにも途中やめで消え去っていく。
つまりは、人から嫌悪もされなければ、否定もされない、単なる出来損ないの曲、のように聞こえてしまう。
が、僕は、これらは意図的な展開であり、これは、マデルナが見ている風景そのものの克明な描写なのだ、と想う。
ここには、傷みがある。
例えば、マーラー。あの音楽がときに暗示する世界に、実は、近い。例えば、交響曲第六番の第一楽章の展開部に現れる、不意の、音楽の《失心》…
次第に熱を帯び始めるマーチが、上昇曲線のさなかに、何かを突破しようと瞬間に、時間さえ止まった静寂の空間に放り出されるそれ、カウベルが穏かに鳴り響く、《一時止揚》と呼ばれる、音楽の進行のいきなりの中断。あれに近い事が、マーラーのような不意に到達された異世界への転落としてではなく、何をしようとしても絡み付いてくる普段の環境そのものとして、マデルナのこの曲には、現れている。
すべてがすでに《失心》されていた実像を曝してしまうのだ、と言っていい。
ところで、マーラー。
おそらくは、20世紀の音楽に、否定するにしても肯定するにしても、むしろそれらの行為によって潜在的にもっとも強烈な影響を与えたのかも知れない、奇妙で有名なマイナー作曲家の、その最後の完成された交響曲、第九番の演奏として、僕がもっとも留保なく好きなのは、指揮者マデルナによる演奏である。
Mahler Symphony No.9
BBC Symphony Orchestra
Recorded live on March 31st 1971
もっと他に、バーンスタインとかカラヤンとかあるいはクレンペラーやホーレンシュタイン含めて、有名で評価の高い演奏はいっぱいあるが、僕はこれが一番、美しいと想う。
例えば、ゴダールの奥さんの映画《こんにちは、マリア》で使われた、第四楽章。
いまや、完全に現世に落ち着いてさようならを言う叙情的で感傷的な音楽として、思う存分すすり泣きながら浸ってください、と、そんな感じに演奏されるのが普通になっている音楽に潜む、分裂した感情と葛藤を、えげつないほどに描き出して、とてもハンカチなどの世話になっている暇はない。
マデルナの演奏において、これは、ある人物の、最後の、凄惨な、ある闘争とその崩壊の過程、なのである。
間違っても泣こうと想ってはならない。
実際問題として、この曲、泣きの入った演奏で聴くと、実演を耳で聴くことも指揮することもなく、いつもの、最後の修正を入れる事が出来なかった、いかにも未完成の音響が、この作曲家の作品としてはめずらしく、ときに耳にノイジーに触れる。
が、マデルナの演奏で聴くと、それらがそれらとしてちゃんと意味を持ってそこに存在していることに気付く。
この曲と言えば、第一楽章が名曲で、第四楽章は泣けて、第二、第三楽章は休憩時間、というのが一般的な聞かれかけたなのだが、僕がもっとも重要だと想っているのは、実は、第二、第三楽章である。
コンサートでは、あのすばらしい第一楽章が終った後って、第二章が始まった瞬間に、あの、どこか静かに高揚していた会場の雰囲気が、一気に集中力を切らして総休憩モードに入るのだが、僕は、やっと長い説明的な序曲が終わって、曲の魂に触れる瞬間が訪れたのだと、一人、気合が入る。
とくに第三楽章である。
これほど無意味で、美しさのかけらもない、暴力的であるとさえ言えない、ばかばかしく、無様で、無根拠な、いびつで、卑猥なだけで、何の役にも立たない、愚かで、愚劣な、そして崇高なまでに美しい音楽を、僕は他に知らない。
無意味な生成と崩壊、それらが極端に高い集中力を持った音楽によって、目の前にただ、広がるのである。
…もっとも、オーケストラの方は自分たちの合奏能力見せびらかしタイムと化しているので、基本的には音楽屋のプロの集中力はあっても、音楽的な集中力を味わうことは、基本的にはない。
大体、第四楽章のテーマはこの楽章が導くのである。そんな楽章が、曲の白眉でないはずがないのである。
もっとも、その原型自体は、すでにそのまま交響曲第三番に、現れている。そこで、これは、存在それ自体がその本質にすでに孕みこんでいる何か、として、唐突に見いだされて音楽の有機的な進行を解体してしまうフレーズ、なのである。
有名な第一楽章再現部の、《死がこの上ない力で襲いかかってくる》テーマ再現も、これ以上に克明で凄惨な描写を、僕は知らない。
そして、この録音を聴くたびに、たぶん、実際の演奏=実演にあった感情や、抽象性や、音響それ自体の、たぶん20%くらいしか聴こえていないのだろうな、ということも、実感できる。
こんなものではなかったに違いない。
多かれ少なかれ録音されたものと実演だと、空気の震え方からなにから全く別物なので、そんな事は当たり前なのだが、これは、それが特にはなはだしい演奏であるということは、よくわかる。
いずれにせよ、その本質に寄り添う形で、この曲がもっとも美しく再現された…あるいは、音として実現された例を、僕は他には知らない。
しかも、録音年代を考えると、まだバーンスタインがTVショー的なわかりにくいことがわかりやすい、子どもにも楽しみやすいマーラーを平気で鳴らしていた時代(中学生の僕はバーンスタイン信者だった)に、こんな究極の解釈を、マデルナは披露していたのである。
作曲家としてのマデルナは、評価が高いとはいえない。結局は、その、音楽的な集中力のなさに起因するのかも知れない。かと思えば、いきなり、要するに爆音がマッシブに鳴り響いたりするのである。
例えば十二音音楽だのセリー主義だの多様式主義だのと言った、わかりやすい音楽的な語法を持っているわけでもない。様式的にはもっと自由である。どっちつかず、とも言える。
そして、その音楽は、どこかで何をも構築せずに、構築するさなかに崩壊していく残骸だけを、ひたすら記述していく。
Bruno Maderna
1920 -1973
Quadrivium, per quattro gruppi orchestrali (1969)
…これ、たぶん最初の始まりだけで聴くのをやめる人が殆どなんだろうけどね(笑)。
理解してみると、世界を見つめる眼差しが変わりますよ。本当に(笑)。後期ゴダールの映画とかも。
少なくとも、ベトナムの雑踏の中で鳴り響くバイクの音の連なりに、瞬間、音楽を感じたりします(笑)。
お互いに対して自由を主張しあう音の群れが、お互いに反発したり故意にすれ違ったりしながら、むりやり音響空間を構築していく、どこか途切れ途切れ・スカスカの音楽が鳴っていく。
これを聞いている分には、なんという崩壊しきった音楽だろう、とは想う。
いわば、どこまでも広がる焦土の中、すべての動物たちが死滅した屍を曝す世界で、草木が自分勝手に生成していく、そんな音楽、なのだが、実は、これらが実に生き生きとして有機的な音響空間だったことに気付く。
このリンクでいう、21分40秒あたり、いきなり散乱した音響空間を和音の光が包み込んで、すべてを発狂させてしまうまでは。
それまでの音楽的な営みのすべてを、この、不意に鳴り始めた救済の光…澄み切って響き渡る純白の光が、あらゆる色彩を滅ぼし、焼き尽くしてしまうのである。
なんという風景だろう?
最晩年のいくつかの作品は、同じように、この唐突な救済=完全破壊が現れる。
僕は初めてこれらの音響を聞いたとき、言葉を失った。
結局のところ、マデルナが見ていた風景は、こういうものだったのだ。それはマーラーの演奏においても、初期のピアノ協奏曲においても変わらない。
彼の眼差しは、この《最後の光》に照らされ続けていたのである。
これは、宗教的な体験でも、哲学的な、あるいはスピリチュアルな、または詩的な体験でもなんでもない。
存在そのものに触れる、あるいは、音そのものに触れてしまった、もはや沈黙するしかない瞬間なのである。
…《語りえぬものについては、人は沈黙せざるを得ない》そう、哲学者ヴィトゲンシュタインは言った。
*
* *
...ブルーノ・マデルナ。
美しい名前だ。そして、どこか、少なくとも日本人にとっては、ちょっと繊細すぎて、悲しい響きを持つ。
そんな名前。
までるな。ま、で、る、な、…ブルーノ、マデルナ。
なにも、現代人が今、一番耳にしなければならない音楽だ、などと言うつもりはさらさらない。
僕には、マデルナはそんな大袈裟なものではない。
この記事も音楽史を書き換えてやろうなどともくろんでいるわけではない。
ただ、もっと、聴かれていいと想う。
少なくとも、僕にとっては、ピエール・ブーレーズなどよりははるかに重要な作曲家である。
僕にとっては、例えば、それは、自分の魂の《ふるさと》のような作曲家なのだ。
彼が見せてくれる風景は、痛ましく、そして、どうしようもなく懐かしいのである。
2018.06.23 Seno-Le Ma
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