平成末年のフット・ボール…ワールド・カップとサッカーを考える。②日本的リズムと弱者のサッカー








平成末年のフット・ボール

…ワールド・カップとサッカーを考える。

②日本的リズムと弱者のサッカー









今、ベトナムに住んでいるのだが、今日は、みんなにびっくりされた。

昨日、日本、勝ったね!

だれも、かれも、まさか日本がコロンビアに勝つとは想っていなかったのだ。

そんな、僕も、実際、勝つとは想いもしなかった。


サッカーは、他のスポーツに比べて不確定要素が多い、といわれる。


それは、あのコートの広さと、走りながら足でボールを蹴るという不安定さと、そもそもボールを持っている相手やボールを取りにきた相手に体をぶつけても原則OKであるという、考えてみればかなり適当な要素のおかげだ。

そして、実際そのとおりなのだが、何のかんの言って、それでも必然性と言うのはある。


今回のワールドカップは、ジャイアント・キリングが多い。

いわゆる番狂わせ、である。

が、よく見れば、やっぱり、それなりの必然の元に、それらは起こっている。


アルゼンチン/アイスランドのイーブンは、結局はアルゼンチンが、そしてそれはメッシ時代になってからずっとそうなのだが、《戦術はメッシ》状態でありながら、明確なメッシ・システムを構築できていないことが露呈されていたから、である。


実際の、アルゼンチンの一点は、メッシ以外のアグエロが、ほぼ個人技で撃ったシュートによる一点である。メッシ・システムのおかげではない。


そこは、スペインと引き分けたポルトガルとの明確な差異である。


結果的にはクリスチャーノ・ロナウドのハットトリックで、たしかに、数字上はクリスチャーノのワンマン・チームのように見えてしまうが、実際には、フォワード同士の連携含めて、チームとして今まで見たこともないほど機能していた。

その結果のハットトリックであって、あれは《宇宙から来たウィング》の個人技の結果、では、ない。


あの試合を見て、今回はひょっとするかも?と、想ってしまった。


いずれにしても、アルゼンチンに対して、アイスランドには十分付け入る隙があったし、たぶん、彼らも、そんな、戦術不在の相手の現状をよく知っていた。


ドイツのメキシコへの敗戦は、そもそもドイツ自体がもう老朽化しているといわなければならない。

実際、バイエルン・ミュンヘンだって、もはや最強のチームとは誰も呼ばなくなっている。

誰も彼もが、彼らのやり方など十分知り尽くしている。


昨日の、セネガル/ポーランドに関しても、ポーランド自体に、明らかに組織的なアイデアに枯渇し始めている。そんな風に見える。セネガルの、守備から攻撃への転身の自在なスピードに、ついていけてはいなかった。


話は変わるが、セネガルは、ハリルホッジが夢見た姿は、こういうものなんだろうな、と、想わないでもない、いいチームだった。


さて、日本代表。


彼らがやったのは、徹底的な弱者のサッカーだった、と想う。

そして、まったりした日本的リズム。

これは、けなしているのではない(笑)。









ポゼッション&パス・サッカーというのは、基本的にはフィジカル弱者の方法論、である。


ぶつかったら負けるからぶつかる前に逃がす、のだ。走っても負けるから、ボールを走らせる、のだ。

スペイン代表だって、バルサだって、フィジカルに恵まれた集団ではない。


グァルディオラ・バルサのような研ぎ澄まされた攻撃的展開と言うのももちろんあるが、ボールを逃がして逃がして隙を撃つ、という、ほとんど逃げ腰のポゼッション・サッカーという展開も、十分あり獲る。


実際、日本人が、ポゼッションと言ったときに、一番想起しているのは、そんなイメージなのではないか。


基本システム4・2・3・1とは言っても、極端にコンパクトだった。

とにかく前線から守備。取られたらすぐに取りに行く。誰がフォワードなんだかよくわからない状態。前線からすぐに弾を奪いにかかるので、その分攻撃にも移りやすい。縦に早い、と言うよりは、単純にずっと前のほうにいるサッカーである。


相手を押し込んでいる、とも言えるが、相手の展開とリズムを、必死になって潰しているので、いくら、敵陣でばかりゲームをしていても、結局は守備をしているようなもの、でもある。


前線でボールさえ取れてしまえば、攻撃にすぐさま移れてしまうので、結果的には《早い》攻撃が出来る。

最初の香川のシュートからハンド、退場にPKという流れは、そんな《速い》攻撃の中で生まれたものだった。

相手がハンドしてくれてラッキーだったのではなくて、あれは、相手からハンドを引き出したプレイだった、と想う。手が出なかったら、決まっていた。…たぶん。いずれにしても、DFとしては手でも出すより他にすべがなかったのだ。


そこには、明確な必然があった。


DFラインの、いつまでたっても展開できない、いつものゆったりとしたパス回し(笑)も、結果的には、コロンビアがリズムに乗り、躍動するのを防ぐ要因になっていた。

あれはあれでいいんじゃない?と、僕は、想ってしまった。


もっとも、攻撃のアイデアと言うのには、かなり不足しているといわざるを得ない。

前線のパスがあまりにも通らなすぎる。技術的な問題ではない。ようするに、連携・突破のイメージが、まだうまく共有できていないのではないか。パス・ミス、と言うよりは、そういった連携ミスからの、無意味な死んだボールが散見された。

それは、十人のコロンビアさえ見せないほころびだった。


やっぱり、準備不足のチームであることは、間違いのない事実でもあるのだ。

実際、ゴールの経緯は、PKとセット・プレーである。


相手FKからの失点は、川島のミスだろうという以前に、審判のかなりコロンビアよりの判定の結果なので、それを除くと、実質、無失点だった、と、言えないこともないでもない。

守りきれなかったわけではない。

ならば、負けにくいチームであることは、事実だ。

最後は、セットプレーの精度がどこまであがるか、にかかっているのではないか。


次のセネガルは、想った以上にいい《早い》チームだったので、極力相手にボールを渡さずに、あの、日本的なゆっくりゆっくりした(笑)テンポに引き込む事が勝機を作るのではないか。

《早い》相手は、じれて仕方がないはずだ。

自滅するのを待とう(笑)。


何大会連続だったか忘れたが、ワールド・カップに出場することに、ある意味で、僕たちはなれてしまった。


とはいえ、地球規模での妥当な実力によってではなくて、地域によって確保されているに過ぎない、アジア枠という地域枠のマジックが、実力では出れないはずのワールド・カップに出てこさせてしまっている、というのが、アジアチームの現状だ。


今回出場できなかった、たとえばイタリアに、日本や韓国は勝てるだろうか?


日本でも韓国でもどこでもいいが、普通に考えて、欧州予選も南米予選も、生き残れはしない。

だから、これは、FIFAランキング60位以下の、その他大勢のなかの弱小1チームの、当たる相手が全部ジャイアント、という、ジャイアント・キリングを起こし続けるしかない冒険、なのである。


むしろ、引き分けてもジャイアント・キリングだという、そういうレヴェルの戦いなのだから、応援するほうは、負けて当たり前的な感じで、余裕を持って、応援してあげたい。




2018.06.20

Seno-Le Ma





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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