小説 op.5-(intermezzo)《brown suger》④…君に、無限の幸福を。
brown suger
#2
腕を洗う。
あの日本人は、消毒液を浸したガーゼで、拭いてやっていた。
いま、そんなものはなく
マリアの、あの、褐色の腕、へし折れそうな腕を。
あったためしもない
腕を水道水が滴り落ちる。
…音
そのまま顔を洗って、
その
髪まで濡らした。
Cảnh のアパートメントの前、道路との境界に突き出したそれが、アパートメントの設備なのか、公共設備なのか、誰にも判断がつかなかった。
アスファルトを水流は勝手に濡らし、黒く染め、日差しが照る。
部屋に入って、タオルで拭く。
マリアはロフトの上で寝ている。Cảnh が1階のタイル張りの床の上に寝ているのは、単純に、暑いからだ。
熱をこもらせた、6畳程度の室内の大気が、すぐに Thanh を汗ばませた。
やがて、Thanh は、床に胡坐をかいて、壁にもたれ、注射器を、腕に差す。
覚醒剤は、まだ血管の中に溶けこんではいない。
Thanh はその時が来るのを待つ。
音響が本当にリアルに、その音の実像を曝し始め、逆に視界は白濁していく、その時を。
やがて、音響はざわめき立つ。
それらの音がそれらそのものとして、
聴こえるよ
制御されない空間の、野放図な
君の
拡がりを感じた。
世界は、
声
今、それそのものだった。
それらが、
息吹
白濁した明確な輪郭の中に、見詰め得ない形姿を
存在
曝した。
君の
美しい?
…そうじゃない。
Thanhは目を閉じることなく
悲しい?
…そうじゃない。
想起した。昨日降った
僕は聴く。
鼓動の音を。
雨の中にマリアは振り向いて
いとおしい?
…そうじゃない。
何も言わなかった
せつない?
…そうじゃない。
なぜ?
ほら、マリア、と、Thanh が、触れてごらん。そう言ったのに、いま、雨さえもが、マリアが気付かないのは、静止する。
…空中に。
それが、頭の中だけでつぶやかれた音声だったからに他ならない。
…見て。
愛しのマリア、と。Marie my love そう言うに違いない英語の単語を Ma… 羅列する。Lỳ… 正確な Mai… 発音さえ、là…bục 誰にも教わらないままに。マ、その リー 瞬間 マイ 振り向いたマリアを、ラ、ブッ …どうして?君は。
なんで、僕の声が聞こえたの?想った。なにも言ってさえいないのに。こまかな雨が降っていた。それでも、
わかる?あれは
十分、冷たかった。風は
北斗七星
なかった。夜の十時。Cảnh たちはパーティだった。雨に中を、マリアが先導して、遅いご飯を食べに行く。夜の更けるのが早いダナンでは、夜の時間はすでに死にかけている。雨の中のマリアは見つめたまま、表情さえ変えずに、Thanh は彼女が何か言い始めるのを待った。
何を言っても、理解などできはしない。
瞳が、夜の空間の
そんなことなど、マリアだって
その中ででも
知っているはずだった。
輝きを持つことを
ややあって、マリアは微笑み、
知った
再び歩き始めたマリアのあとを、Thanh は追った。
食べろ、と言って促した Bún ブン を、マリアは殆ど口にしない。どんぶりの上に、半分以上Bún の麵が沈殿し、箸の先でいじられたにすぎない細切れの牛肉と、もやしがそれを覆い隠していた。
なんで?
Tai sao ?
言ったThanhに、
なぜ?
ベトナム語などわかりもしないマリアが、めんどくさそうな顔をして、…話しかけないで。白いTシャツの上から腹を撫ぜたのは、そう、言っているに違いなかった。…なに?
どういう意味だったのだろう?腹痛を言ったのか、満腹を言ったのか。
どこも見ては居ない眼差しがふるえ、Thanh は眼を逸らす。
歯をうずかせるような悲しみがある。それらが波紋を広げて、なにも拡散しはせずに、寧ろ、小さく縮まって、執拗な存在感だけを放ち続けるのはなぜなのだろう?
家に帰る頃になって、雨は激しくなる。雨の中を走る。マリアが、そしてゆがんだアスファルトが、無数に作った水溜りを派手に撥ねて、声を立てて、マリアは笑った。雨は、もはや土砂降りに過ぎない。肌を撥ね、髪と衣服を重くする。Thanh は息をかすかに切らせ、荒れたマリアの息遣いを聴く。
その体に近づくと、雨のなかでも火照った皮膚の体温がある。マリアの、その。
ほら、明確な証明。君が
乱れた髪の毛が水を撥ねた。
生きてあることの
笑いに顔をくしゃくしゃにして。
ここに
乱れた、それらの音声。足音。飛び散る水溜り。耳を澄ます。Thanh は、自分も笑っていることには気付いている。むしろ、マリアより大袈裟に。
部屋の中で、Thanh の服を脱がしたのはマリアだった。母親がするように、早口な音声で切れ目なくはやしたてながら、素肌を曝そうとも、Thanh は恥ずかしいとも思わなかった。濡れて張り付いたTシャツが透かせた、マリアの肌の色彩と、乳首の存在感を、むしろ恥じた。
濡た衣服のままマリアはバスルームに連れて行く。ドアもなにもない、一応の仕切りがあるだけの、トイレと共同の空間に過ぎない。…最初の日、マリアは泣きそうな顔でこの空間を拒否したものだった。
蛇口をひねって、水を出す。
温水は出ない。ぬるい水が頭からマリアと Thanh を濡らし、マリアはふたたび、声を立てて笑った。
水に濡れぼそりながら服を脱ぎ、放り投げ、そして Thanh の体を洗い始めたマリアに、Thanh は任せた。すべてを。
好きにして
マリアがロッテ・マートで開墾できたゴーツ・ソープが
何もかも
派手な泡を立てた。匂いが立つ。それでもかすかに、Thanh は
想うがままに
彼女の髪の毛の匂いを
すべてを
かぎ当てた。
Thanh はマリアを抱きはしなかった。マリアも、Thanh を抱かなかった。求められない限り、自分からはしない女だった。半乾きの、たぶん Duy が使った後のタオルで Thanh のからだを拭いてやりながら、Thanh が**させたそれを、ふいに、右手のひらで、やさしく包んで、上目使いの微笑をくれたにしても。
…褐色の肌。
そのてざわりは知っている。
自分と同じ物質が作った、同じような細胞が、それを同じように形成しているに過ぎないことが、どうしても信じられない。その、滑らかな質感。肌の上の、きらめくような流れ去るような、その触感。
マリアの肌が人間の肌であるというならば、自分の肌は薄汚れた豚の皮にすぎない。
その、肌。
褐色の色彩をあざらかに曝した、その。体臭。匂い、気配。体温。指先の。腹部の。首筋の。髪の毛の質感。それらのすべて。
壊れそうで壊れないそれらの、留保無き実在感が、まどろみながらも Thanh の脳裏、あるいは、からだ全体を離れようとはしなかった。
いつもよりも、早く寝て仕舞った。マリアを、遅く帰ってきた Cảnh たちが、その酔いつぶれたささやき声で起こしたのには、Thanh も気付いていた。眠っているといえば、眠っていた。起きているといえばおきていた。
Thanh は、いつものように、横たわった彼のすぐ背後で、Cảnh たちがマリアを抱くのをまどろみの中で何度か確認し、そのたびに、彼は想起せざるを得ない。
マリア、たとえばその皮膚のてざわりが残しているような、それらの記憶の総体として、頭のなかに千路に乱れて再生させれる、その、いくつもの存在の無数の断片を。
彼女を愛していること、そんな事は、とっくの昔に気付いていた。手の施しようがないほどに、と、僕は、愛している。Thanh は消えそうな意識の片隅に、はっきりとつぶやく。
朝。誰よりも早く寝た Thanh は、誰よりも早く起きる。一瞬、十分ほどは、マットの上に横たわったままで短パンだけで寝た自分の、裸の上半身の皮膚が付着させた寝汗の触感を、忌んでみる。寝返りさえ打たないままに、そして、口の中にたまった古臭い息を吐き出しながら身を起こす。雑魚寝の Duy と、Cảnh と、Âu を踏みつけたりしないように、やがてロフトを降りた Thanh は、ようやく背伸びをした。穏かな光が、壁の上方から差し込んで、それはやわらかい。
霞むような、光の実在。それを見る。
なにも、考えられることはない。
なにも
なにも。
なにも、
まだ
シャワーで汗を流しながら、Thanh はふと、マリアがどこにも居なかったことに気づいた。
部屋を出てマリアを探す。
午前6時半。
町はすでに十分目覚めている。それはいつものことだ。
カフェは客をいっぱいにはらみこんで、
はらみこんで
彼らが同じようにつまらなそうな顔を曝すのを、
いっぱいに
Thanh は確認する。
はらみこんで
アオヤイを着た学生が、電動バイクを転がす、無音でエンジンを回転させるそれに、Thanh は二、三度轢かれそうになったことがある。
いつものことだ。
Bánh Mì 売りの露店が、バイクに乗った通りすがりの男のために、パンを切り裂く。
いつものことだ。
角を曲がれば、別の街路樹にでくわす。
マリアは居ない。
その先のかどで、Nước Mia ヌック・ミア を売る露店に、若い女たちが群がっていた。
いつものことだ。
別のカフェに、新聞が配られ、氷屋が自転車を媚び始める。
まりが居ない。
探す。
眼差しの先に、マリアを。
歩き回る。
街中に、雨上がりの朝の、渇いた湿気があった。
濡れた樹木が、風にわなないた瞬間に水滴を散らす。
Thanh は濡れる。
川沿いを歩く。
大通り、右側を無数のバイクが通り過ぎ、その音響は、聴かなくても耳に侵入する。
ハン川の臭気がある。
嗅ぐ
…上流が、乾いているに違いなかった。
大気
いつも、見事なまでに泥色の濁流を曝すハン川は、
大気の匂いを僕は
つつましく、緑色に近い水を、
嗅いで
しずかなさざ波と共に流していた。
もう、空が川の向うの方だけを自分の色に染め、視線の先で、真っ青なハン川は揺らめいていた。
その水面を、止め処もなく、
きらめく
光の反射が、
見ただろうか?
散乱し、きらめき、水の音。
君も
その臭気。
濡れた路面は乾きかけ、街路樹の土はまだ濡れている。
マリアはドラゴン・ブリッジの下にいた。
すぐにわかった。水際に突っ立って、その下を眺めるわけでもなく、向う、見えるわけもない海のほうを眺めているその少女が、マリアだと言うことは。
どうしたの?
Lam gi ?
Thanh が後からかけた声に、
なにを、…
茫然とした表情のままマリアは振り向いて、
何をしてたの?
泣きそうな、と、Thanh は、泣きそうな顔だ、むしろ、微笑んで見せた。…どうしたの? マリアに。
不意に、マリアは Thanh に口付けた。奪うように、唇を押し付け、唇を吸い、舌を差しこむ。
舌と舌が触れた。
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