マーク・ロスコ( Mark Rothko )、絵筆を取らない画家
マーク・ロスコ(Mark Rothko)、絵筆を取らない画家
Mark Rothko
1903.09.25-1970.02.25
マーク・ロスコという画家がいます。
大学院生のとき、レポートを書く間の息抜きに、なんとなく取った画集が、ロスコの画集でした。
そのとき、わたしは、文字通り《目からうろこが落ちる》ような衝撃を受けたのでした。
わたしが最も愛する画家、そして、衝撃を受け、戦慄した画家です。
こんなことを書くと、美術に詳しい方には、ずいぶん保守的な人だったんだね、と言われるかも知れません。
こんな絵を描きます。
人によっては、瞑想的である、とか、抽象的である、とか、または、癒し系とか、スピ系とか、そういうのを想起するでしょうし、
あるいはブライアン・イーノや初期のスティーブ・ライヒのような人たちを想起するかも知れず、
はたまた、シェルシとかトリスタン・ミュライユとか…。
そのときに、はじめてロスコを知ったわけではありませんでした。
それまでにも、名前くらいは知っていたんです。
クラシックの、いわゆる現代音楽なんかも聞く高校生でしたから、モートン・フェルドマンとの関係なんかで。
ただ、その頃は、頭で哲学的に考えて、わたしは無意味な画家だと断罪しちゃってたんですね。
色彩のグラデーションに逃避した現代美術の反動主義者にすぎない、と。
けど、なんとなく、そういう小難しいことを考えずに暇つぶしにポンッと見たとき、あ、そうなのか!と想いました。
例えばマティスやジャスパー・ジョーンズが描くことを問題化した画家だとしたら、この人は見ること自体を問題化したんだな、と。
目の前に、色彩がある。
その色彩は、微妙な、ごく繊細なグラデーションを、かぼそく描いているに過ぎない。なにも語りかけてこないし、それに対して、なにも語りかけることも、言い表すことも出来ない。
目の前のそれを、見る。
それしか出来ない。
もはや、言葉さえ追いつかない。
《見る》ことの、そういう本質。
昔から、絵を描いたりもしていたのですが、自分がいかに《見る》ことをサボっていたのか、教えられたのです。
たとえば、当たり前なのですが、《形態》をわたしたちは見る事ができません。
わたしたちが《形態》として認識しているものは、あくまでも視覚が捉えた色彩を、頭脳の中で再認識することによって捉えなおした、いわば《フィクション》ですよね?
何言ってるの?と言われたら、要するに、目で物を触りますか?
視覚は、物を触って、その形態を知覚しているんですか?
そうじゃないですよね?
視覚は物に触れない、という当たり前の事実の、どうしようもない不可能性。
視覚は、形態を知らない。
目の前に物があふれかえっていると言うのに、光があふれかえり、色彩が乱れているというのに、それらに、視覚はついに《触れる》ことができない。
ものすごい、孤独感を感じたのです。
小説でも絵画でも、《書く/描く》ことは、論理的に問題化しえる。
けれども、《見る》事自体の問題化は、ただただ体験する/させるしかない。
あるいは、その《体験》に誘うか。
ロスコの絵は、ただ、その体験に誘っているだけの絵に過ぎない。
もはや、《作品》とさえいえないのかもしれない。
絵筆が絵を描くための道具であるとするなら、ロスコは絵筆で絵を描いた、とはいえない。
《見る》ことに、誘うための案内状を、誰にと言うわけでもなく出しただけなのだ、という気がします。
実際、ロスコの絵を《体験》して以降、わたしは、わたしが見た世界の視覚の意味が、違ってきたのを感じました。
そこにあるものを見ている、のではなくて、
そこに見えているものによって、そこに、それがあることを、実感する(?)というか。
絵を見る見方も変わりました。
これは、モートン・フェルドマンの音楽を聴いたときにも、感じたものでした。
わたしが戦慄したのは、ロスコやフェルドマンのそうした世界観でした。
実は、いまさらロスコの画集や、フェルドマンのCDやらを引っ張り出してきて、見たり聞いたりと言うのはあまりありません。
しかし、見たり、聞いたりする、眼差しと聴覚は、完全に彼らに影響されて、彼らの絵や音楽を見・聞くように、わたしは目と耳に《触れる》ものすべてに、接してしまいます。
いずれにしても、おびただしい物に触れ、触れられながら、何にも触れることができずに、わたしたちは生きている、のかも知れません。
Seno-Le Ma
2018.05.30
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