消失する光。…ポール・セザンヌ(Paul Cézanne)が教えられたもの
消失する光。…ポール・セザンヌ(Paul Cézanne)が教えられたもの
Paul Cézanne
1839.01.19-1906.10.23
セザンヌ、…ポール・セザンヌ。ぽぉーる、せざんぬ。
美しい響きだと想う。
フランス語など出来なくとも、フランス語で正確な発音をされたときの感じが、なぜか、なんとなく予想できてしまう。
だから、その雰囲気が、妙に耳元に木魂してしまう。
ぽぉ-るぅせずぁんぬ。
…ポール・セザンヌ。
セザンヌが苦手だった。
絵を見ることも、描くことも好きだったので、子どもの頃からいろいろな絵を見た。
小学生でも、なんのかんの言って、いいかどうかくらいはわかる。
エル・グレコでも、ジャン・フォートリエでもアルベルト・ジャコメッティでもなんでも、だ。
けれども。
セザンヌだけは好きになれない。
まともな画家の絵は、本物と画集だと、実際にかなりの違いがある。
例えば、ゴッホなど、特にそうだ。
本物のゴッホの、静謐としたたたずまいを見て、僕は画集のゴッホなど見なくなってしまったのだった。
あんなものはゴッホではないから。
いかにも《狂気の天才》然としたどこかの、なにかを勘違いした馬鹿な画家が描いた駄作に過ぎない。
セザンヌの本物の絵の前に立ったとき、衝撃を受けた。
…画集ではどこが名画なのかさっぱりわからなかったエル・グレコも、本物を見れば、大地のひずみも空間のゆがみも何もかも、そうではなければならない正確さを持ってそこにある、当たり前で当然の風景に過ぎないことがわかるのに。
…アンディ・ウォーホールが徹底的にファイン・アートに他ならないことも、へんな言い方だが、《本物》を見れば、忌々しいほどに気付かされるのに。
セザンヌの絵だけは、画集で見たそのままだった。
なにも、変わらない。あのまんま。
こんなに、画集と違わなくていいものか?
少しくらい違ってもいいんじゃないか。
もちろん、全部が同じだとはいえない。
第一、大きさが違う。
とはいえ、そんな事は当たり前のことだ。
セザンヌに疑問を持ったのは、それから。
そもそも、この人には、これ、という一作がない。
レオナルドのモナリザ、ミケランジェロの最後の審判ではないけれども、そういう一作だ。
どうも、この人は、やがて書かれるべき、ある作品のための習作ばかり書いている気がする。
無数のりんごも、無数の松も、無数のサント・ヴィクトワール山も、もちろん水浴図も。
なぜ、この人は、《本作》を書かずに、《習作》ばかりを描くのだろう。
それにこそ意味があるかのように。
なんとなく、思わせぶりで、卑怯くさい気がしたのだった。
あの、変わり者でまともに完成させることさえないレオナルドでさえ、曲がりなりにも《最後の晩餐》を描いているのに。
胡散臭い。そう想って、省みもしなくなったのだった。
それが、小学生のとき。両親に連れられていった、岡山の《大原美術館》に行った、2、3回目のときだった。
ようするに、まともな知識もない子どもの頃に、見捨ててしまった、と言うことになる。
*
* *
今、ベトナムに住んでいる。国の半分が、熱帯の国だ。大陸の、南の果て。
さすが大陸だけあって、山は、でかい。勇壮、というよりは、山脈、というものの大きさがどういうものか教えてくれる。
ずどおーん。
…と、地球が盛り上がっていて、雲を突き破っている。
そういうことか、と、意味のない納得でもするしかない。
そんな山脈の上に、…つまり、低層圏にある雲の上、上層圏にある雲の下、という、雲と雲の間のてっぺんに、《ダラット》という町がある。
高山の町。
むかし、フランス人の避暑地として使われていたようだ。だから、建築はヨーロッパ風かつ、中華風。
なにか、この地上にあることの必然性がよくわからない、不思議で、静謐とした雰囲気を持っている町だ。
霧のような小雨ばかりが降る。
日本人が一人だけ定住していて、農業をやっている。
土地は、当たり前だが、赤土だ。
その《ダラット》に、去年行った。
バスで、山脈をぐるぐる回りながら登って行くのだが、雲に近づいていけば行くほど、岩肌が、雪舟になる。
雪舟、…カンデンスキーさえ想起させる抽象画みたいな岩肌を描いた伝説的な画家だが、あのまんま。
むしろ、他の山水画のほうが様式化されすぎているだけ、と言う気がする。
高山の岩肌とは、カンデンスキーのように、そこに地肌を曝しているものなのだ。
そして、雲を通り抜けながら、霧のような小雨に窓が濡れて、そして、それを通り過ぎたあたりで、風景に異変が起こる。
光の色彩が、地上とは明らかに違う。
雲の上の、松や、草花や、山肌や、肌や、なにや、かにや。
見るものすべて、光に差されているものすべて、そして、影の色彩さえもが違う。
そして、その気配は、セザンヌの絵にそっくりだった。
色彩は違う。まったく。
所詮、似ても似つかない。
しかし。
そこでは、なにか、色彩はすべて、奪われてしまっているのだった。
失なわれているのだった。
致命的に、取り返しようもないほどに。
そして、厳かな光の中で、色彩は鮮やかにあふれかえっているのだった。
静寂の中に、音さえなく。
…うまく言えない。
台風が来る直前の、急に曇った空の下の雨が降る前の一瞬の光の加減が、それに近い。
あれは、絵の具ではかけない。
そういうことなのか、と想ったのは、その時だった。セザンヌが描こうとしたもの。
あの、キュビズムっぽいカクカクした線の引き方も、空間のゆがんだようなゆがまないような微妙な感じも、鮮やかではないが、色彩豊かな絵の感じも、なにも、あれは見たままを描いているのではないか。
じっさい、目の前に拡がっているのはセザンヌの絵なのだから。
目の前に見えてあるものを、何とかカンバスに表現しようとしたら、ああなる以外にはない。
鮮やかに、消失する光の群れ。
もちろん、セザンヌが本当に見たものが何なのか、わたしにはわからない。とはいえ、彼が《習作》ばかりを書き続けて、《本作》を描く事がなかった理由は、なんとなくわかる気がする。
《本作》なら、目の前にあるのだ。
どうやっても、書き取られることのない。眼の前の、おごそかな色彩と光の戯れ。
鮮やかな、消滅した色彩の光。
天国のすぐ下の、静謐とした、音のない風景…。
高山の光。
2018.05.31
Seno-Le Ma
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