修羅ら沙羅さら。——小説。5


以下、一部に暴力的な描写を含みます。

ご了承の上、お読みすすめください。


修羅ら沙羅さら

一篇以二部前半蘭陵王三章後半夷族一章附外雜部

蘭陵王第一



寢台にユエンを、壬生はなかば抱きかかえるようにさえして導いたあとで、なにも云わずに自分の服をのみ脱ぎ捨てたユエンを放置した。先に蚊帳をくぐって自分でだけ身を横たえ、壬生は目を閉じた。ユエンは美しいとは言えなかった。壬生はそう思った。誰もが美しいと云った。ベトナム人も、日本人も。時にはまるで陰湿な冗談のように。或いは素直な羨望として。或いは明らかなふたりそのものに向けた嫉妬を兆させ。或はかゝわりあうべからざる他人と知って軽蔑したように。或は憎しみをのみ隱し隠し切ろうともせずに。あわせて壬生の老いさらばえていまだに榮えた美しさをも讃えながら、時にはまるで陰湿な冗談のように。或いは素直な羨望として。或いは明らかなふたりそのものに向けた嫉妬を兆させ。或はかゝわりあうべからざる他人と知って軽蔑したように。或は憎しみをのみ隱し隠し切ろうともせずに。閉じた眼差しのうちにユエンが壬生のTシャツのみ脱がすのを知った。壬生は抗わなかった。又隨いもしなかった。だからユエンはひとりで彼を脱がせた。そしてひとりで彼に添い、身をあずけ、そして母親のそれにするように、ユエンは彼の乳首を吸った。壬生は瞼を閉じた儘まばたく。かくて偈を以て頌して曰く

   蝶を見ていた

    ふらふらと、ふらっと

   その時に

    ふらふらっと、ふらふらと

   翳りの腸の垂れてのたうつその上に

    音さえも無く

   紛れ込んだ蝶のその色彩は

    音の

   たぶん右の四番目の

    気配さえ無く

   通風孔から入り込んだ

    そして沈黙も

   蝶が舞った

    沈黙さえも

   たぶん出られはしないだろう

    その気配さえ無く

   迷い込んだ空間からは

    ふらふらと

   なぜ飛ぶのだろう?

    ふらふらっと

   本質的な

    ふららっと

   その習性の陥穽に

    色彩が舞い

   はまる危険をまき散らしながら

    色は憩う

かくに聞きゝ壬生はかクて遠く壁伊久津迦隔てたる向かふにユエンの汗を流ス音をかスかにのみ聞きゝ夜ふけはジめて九時そノ夜壬生ユエンをユエンの爲にのみ抱きゝ指先にノみかタちヲなゾり殘ストころもなくなゾり隈なクなゾりユエン盈ち足ルことなしユエン觀じてたゞ不可解なりき何故にそノ日本人ノ子供をつくらんとせザるカ不可解なりきいツでも途中にやメて餓えるトもなく又きいたのだ棄つることもなきをユエン或いはきいたのだすでに知りきそのきいたのだ男臆病なる夜羅无ユエンはすでにきいたのだった、そのこゑ

だれの?

知りき或いは男ユエンが躬に滿チ足りざル夜羅无とかくてきいたのだユエンあお向けたる儘壬生が爲にノみ股ひラきゝひらき殊更にひらきさらし殊更にさらして彼のきいたのだ戯れやすきにかくてきいたのだ躰半分のみ覆ひかぶさりタる壬生ノくちびるを見てきいたのだった、そのいぶき

わたしの?

間近く右ノ中指に撫ぜタり人差し指と藥指あやふく触れナんトす距離にかスめ迦久て迦ス迦にふるえ今度は生き殘れるのだろうか?ユエン想ひき三月四月のコロナ騒ぎには無傷だった。ユエン思ひ想ひき。ベトナムは優秀な成績を収めた。…誰の目にも。ユエン思ひき。…誰の、たとえ日本の差別主義者の目の中にさえも?ユエン思ひ想ひき。…だれも死にはしなかった。たゞ偉大なるG7の先進国の方が無様で自分勝手な壊滅をさらした。ユエン想ひき。…翻訳のインターネットに見た日本人が成功を誇っているらしいのは、それは文化的な思考様式の違いにすぎない。ユエン思ひ想ひき。せめてそう憶測しなければない。無惨な無數の死穢の膨大をさらすかの国に、かの國にまさに固有の、かの国にだけまさに固有の。ユエン思ヒ想ひて指先に飽キて壬生やヤありて汗をながシに行きゝわずかのきいたのだ汗の流れたることも無きかくてきいたのだバイクを三臺止めたる夜間なる居間のきいたのだバイクの翳りに音ありき是レいきものゝきいたのだった、そのさけびさえ

かれらの?

口のすゝり上げタる音なリきコイがコイのフルーツを貪りきく喰ひ食ひ貪りてゐるに違いなくてきく又事実かくなりコイきくすでに家族のだれにも見放されきコイきく誰にも媚びて卑屈にしてきく臆病にして尊大なりて僻みてきく貪婪なりて能力なくてきく

聞き

きく。——聞いた、財産もなく親族の讒言謗言惡口僻口頻りにしてきく頻繁にしてすでに息子娘らにも及べりコイを憐れみ家族をきく諫めるやさしき外緣のきく翁もみづからでコイを内に引き入れんとはせざりきスマートホンにきく

いつでも他人の——聞く

たにんのこゑを聞き録音したる自分のカラオケの歌ひざ元にのみひとり響かせきく盛んなりきコイはきくみづからが歌声に戀せりみづからきく聞くをきき

声を、まるで、じぶんのさえ他人のそれのようき

聞き愛しき音程さだまらず聲質麤き糖尿病わずらひたるコイすでにシテ視力ノ半分及び聴力ノ半分及ビ左手の筋力ノ半分近く失ひ及び時に理性を失ひ時に殊更に唐突にも怒り騒ぐを得き又尿結石患い藥剤に尿を埀れながしさいごのこゑさえ?襁褓はなさず體に善きと誰ものさいごのこゑさえ?云ひけるフルーツの糖分に過剩にもさいごのこゑさえ?飢え貪りき毎朝毎昼毎夕方毎深夜と果物喰ひはさいごのこゑさえ?

わたしの、さいごのこゑさえ

聞きコイの日課なりき是レ殊更に愛シてスイカとバナナを偏食セり壬生はヒとり汗ヲ流シきかクて頌シて

   あなたに話そう

    知ってる?…もうすぐ

   まさにあなたの爲に話そう

    あなたは死ぬんだよ、知ってる?

   コイの住む家はユエンの家だった

    あなたはもうすぐ

   ユエンの住む家はコイの家ではなかった

    知ってた?たぶん誰も

   それはイェンの家だった

    一時の感傷以上には

   イェンが貨物トラックに飛び出して死んでからそれはユエンの物になった

    流す涙さえもたなかった形通りの葬祭の

   むかしイェンは妹のチャンと一緒に住んでいた

    どこかしらなげやりな気配の内に

   ハン河の近くのその広大な庭の家に

    知ってる?

   チャンの娘のティエンとリンとニーは結婚してもう家にはいなかった

    あなたはひとりで死ぬんだよ

   チャンの長女のタオは相変わらず家にいた

    その

   ティエンとリンとニーはユエンと土地の所有権で争いはじめた

    貪るスイカの尽きないうちに

   イェンとチャンの権利は本来等分のはずだと

    地上にいまだ

   コイは譲らなかった

    貪り盡せない

   仕事を無能なコイはタンにはさせなかった

    スイカの果肉と果汁を

   マイにもユエンにも

    したたりのこした儘でひとりで

   自分がひとりですると云って聞かなかった

    あなたは死んで仕舞ったんだよ

   その交渉だけで三か月費やした

    知ってた?

   だれも彼がまともに事をなしとげるとは思わなかった

    もうすぐ死ぬあなたは

   最初にタンが匙を投げた

    知ってた?

   マイは最初からかかわらなかった

    生きながらすでに死んでいたようなもの

   タンが匙をなげたときにユエンも結局は莫迦馬鹿しくなった

    あなたが生きた価値はなかった

   コイは膨大な書類を準備した

    知ってる?

   その書類の整理が彼の趣味だった

    何も無かった

   毎日書類を整理して目を通した

    あなたが生きた意味はなかった

   毎日細かな部分を修正した

    なにも無かった

   週に三度は友達のところに書類を持参し、コーヒーかビール片手に騒いで回った

    變りはなかった

   一か月に一度くらいは役所に行った

    生まれなくても

   弁護士の知り合い相などもとからいなかった

    知ってる?

   友達が紹介した法律家は頸にした

    死んだら?

   彼はコイにあなたには何の権限も無いと云った

    すれちがいざまに

   娘の代理人として立たなければならない

    コイはあげた、顏を、——不意に我に返って

   土地はコイにとってはコイのものだった

    ひとりでその歪にふくれた顏を

   週に一度は電気工事のバイトに出かけた

    どうしてそんなにふくらんだの?

   知り合いが聲を懸けるのだった

    どうしてそんなにはじけそうなの?

   彼の手数料は安かったから

    なにも云わなかった

   もとは電気の技師だった

    すれ違いざまに

   毎日ビールをただ2本だけ飲んだ

    果肉をすする唇を止めた

   ほんのわずかの口を湿らせるほどの分量を盛大な息と満足で飲み干した

    寶物のスイカの果肉は

   女ならだれでも愛想を振った

    タッパーに綺麗に切って並べた

   だれにも厭わられながら、彼が靡かない女は十六歳以下と年上の女だけだった

    自分が買ったタッパーで在る筈がない

   毎日ダンスに行った

    ユエンが…わたしが?

   壁際に立った女に手を差し出しては拒絶されて舌打ちした

    いつか買って忘れていたもの

   時に顏をあわせたティエンとその家族に、リンとその家族に、ニーとその家族に女たちのいきり立った箒で追われた

    かすめるように生きて来た

   誰もがイェンが死に、チャンの夫が死んだ十五年前にコイがチャンと関係したことは知っていた

    いつでも

   一か月で別れた後でチャンがコイの無能を詰って回ったから

    だれかの忘れただれかのものを

   コイが土地問題に着手して三年が立った

    かすめるように生きて來た

   誰もが死ぬまでその儘だと知っていた

    自分で手にしたものはない

   彼が負けて仕舞わない限りは

    かすめるように生きて来た

   たぶんこれから彼は毎日家に籠ってるだろうとわたしは思った

    むかしの戦場でも?

   前の時もそうだった

    かすめるように生き残った

   先の三月と四月に、空港の検査で発見されて終わっていた比にも彼はほぼ一歩も出なかった

    かすめるように匍匐したから

   だれも死んではいない儘に、全国で百人以下の状態の時に、この国は国をロック・ダウンした

    かすめるように人を殺した

   7月のコロナは市内感染なのだと云った

    かすめるように息遣い

   ユエンが

    引き金を忘れて逃げ惑う

   そしてゴックも

    かすめるようにいつか死ぬ

   経路もなにもわからない儘だと

    かすめるようにすでに死ぬ

   或はようやく始まるのかも知れなかった

    かすめるように、あなたはすでに、——と

   様々なデマが様々に様々な経緯で飛び始めるころだった

    死んでいるに変わらない、——と

   善意の、そして正義感ある常識外れの専門外意見をも添えて

    その耳元でその耳に

   人のすることのバリエーションなどたかが知れている

    さゝやいてやろうと思った

   どの国でも

    いつでも盛んに殊更に音をたてて喰う

   コイはフルーツを買いに行く以外には一歩も内から出ないに違いない

    その唇のかたわらの耳

   毎日に四度太るだけ太った巨体に巨大な毛無しのパグのような顏を載せて

    ふくらまない耳に

   スイカとみかんとバナナと健康の爲の漢方茶を買いに行く以外には

    わたしの笑みを

   彼は誰よりも自分自身を熱狂的に愛した

    コイは見ていた

壬生はその体にシャワーの冷水のながれるのを見た。散る飛沫を見、その音、自分の周囲にだけ響く水のざわめいた音を聞きかくて偈を以て頌して曰く

   あなたは美しいと誰も云った

    水滴が撥ねた

   いまゝさに今も猶もあなたは美しいと

    鏡に映った素肌の

   ひそかに隱れて匂いを嗅いだ

    その滅びかけの老残の

   たぶん

    飛沫が散った

   だれもがだれかに

    肌もかたちも骨さえも

   体の匂いについて噂したから

    血さえもはびこる遺伝子さえも

   聲をさえひそめもしないで

    すでに滅びかけて老いた

   羞じらうことなく素直に

    手遅れの醜さをだけさらし

   あまりに素直な目をさらして

    水滴が撥ねた

   赤裸ゝな、例外的に素直な目を

    わたしは見つめたその見苦しい

   だれもがわたしに焦がれるものだと思った

    肉の塊の滅びの姿に過ぎないものを

   あるいは暗い嫌悪をもやして

    飛沫が散った

   だれよりもくらい目をした少年を知っていた

    わたしは見ていた

   だれよりもくらい目をした少年を愛した

    絶望も無く

   だれよりもくらい目をした少年は私を抱いた

    玉散った







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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