佛典・法句經(ダマパンダ)・荻原雲來譯/譯者序、第一雙敍の部
法句經
荻原雲來譯註
法句經(ダンマパダ)〔巴〕Dhammapadaは所謂佛敎初期の經典にして詩文集。乃至頌文集乃至偈文集というべきなのだろうか。
全26章。ウィキペディアに於ける章立て譯題は以下の如し、云、第1章 - 双(Yamaka-vaggo)/第2章 - 不放逸(Appamāda-vaggo)/第3章 - 心(Citta-vaggo)/第4章 - 花(Puppha-vaggo)/第5章 - 愚者(Bāla-vaggo)/第6章 - 賢者(Paṇḍita-vaggo)/第7章 - 尊者(Arahanta-vaggo)/第8章 - 千(Sahassa-vaggo)/第9章 - 悪(Pāpa-vaggo)/第10章 - 罰(Daṇḍa-vaggo)/第11章 - 老い(Jarā-vaggo)/第12章 - 自己(Atta-vaggo)/第13章 - 世界(Loka-vaggo)/第14章 - ブッダ(Buddha-vaggo)/第15章 - 楽(Sukha-vaggo)/第16章 - 愛(Piya-vaggo)/第17章 - 怒り(Kodha-vaggo)/第18章 - 汚れ(Mala-vaggo)/第19章 - 法行者(Dhammaṭṭha-vaggo)/第20章 - 道(Magga-vaggo)/第21章 - 雑多(Pakiṇṇaka-vaggo)/第22章 - 地獄(Niraya-vaggo)/第23章 - 象(Nāga-vaggo)/第24章 - 渇愛(Taṇhā-vaggo)/第25章 - 比丘(Bhikkhu-vaggo)/第26章 - バラモン(Brāhmaṇa-vaggo)
又漢譯に『法句經』、大正大藏本緣部に収綠。
日本語譯多種あり。国会図書館Web法句經で検索すれば相當數検索される。
荻原雲來はそのうちでよく知られたもののひとつ。いちいちこんなことを云えば先哲に失禮という以外のものではない事は知るけれども思うに今讀んで名譯とは言い難いには違いない。但しこれ自體ひとつの歷史的文體として又すでに滅びたもののひとつとしてある奇妙な魅力を放つことは慥かにも想える。
[]内は註。原註は原註、私註は註と表記。
序
法句の語は大別して二種の義に解釋せらる、一は法は敎の義にして法句とは釋尊の敎の文句なり、又他の一は法は本體を詮し、一切萬象の終極の體卽ち涅槃の義、而して句の原語は元來足跡の義にして、轉じて道或は句の義となりしものなれば、その原の意味にて道の義と解すれば法句は‘涅槃への道とも譯せらる、涅槃への道は換言せば覺らす敎の意味なり、今は何れにても可なれども、古來漢譯されて人口に膾炙せるまゝ法句と稱へたり。
[註、 涅槃、〔梵〕Nirvāṇa。又作泥洹(ないおん)、泥曰(ないおつ)。字義は解脫、或は死ぬ、逝く
[註、 原典の名は〔巴〕Dhammapada、一云、dhamma(眞理、法)‐pada〔言葉〕の意味也云々、
内容一般
法句の内容は各章の題號にても察せらるゝが如く、佛敎の立脚地より日常道德の規準を敎へたるもの、社會は生活苦、病苦、老苦、相愛別離の苦、仇敵會合の苦、乃至は死苦に惱まされ、さいなまる、如何にして是等の苦惱を永久に脫し得べきか、如何にして絕待安穩なる涅槃に達し得べきか、換言せば、世人は事物の眞相に通ぜず、妄念、謬見、貪愛、‘憍慢等の心の病の爲に苦しめられ、不明にして執著し、違背し、日夜擾惱を增す、智慧の眼を開いて妄念に打克てば身心ともに安靜なることを得、終に涅槃の状態に達す、此の意味を敎ゆるが佛敎の目的なり、法句經の所詮なり、修養の‘龜鑑とし、道業の警策として、座右に備へ朝夕披讀し、‘拳々服膺せば、精神の向上發展、動作の方正勤勉、處世の要術、何れの方面にも良藥たらざる無し。
[註、 憍慢、驕慢。
[註、 龜鑑、訓きかん。語義手本・模範
[註、 拳々服膺、訓けんけんふくよう。語義常に心中に銘じて置く
製作者と年代
法句經は全部‘頌文より成る、古代佛敎の聖典たる律や經の中に散在せる金玉の名句を集めたるもの所謂る敎訓句集(didactic stanzas)とか、華句集(anthology)とかと稱すべきものにて、‘作者は勿論釋尊とす、其書の性質上、時代を經るに隨つて本文に增減を來すを免れず、西紀二二四に竺律燄と呉支‘謙とが共譯せる法句は五百偈本に更に足して七百五十三偈ありとす、而して支‘謙の記する所に由れば當時已に五百偈、七百偈、九百偈の三本ありとす、今譯出する所の‘波梨本は二十六章四百二十三頌あり、重複せる一頌を除けば四百二十二頌なり、この頌數の少き點より見て波梨所傳の方が一層‘故きを知るべし。
集錄者は不明なれども、北方所傳の法句經卽ち波梨所傳に增加したる集錄は‘法救(Dharmatrāta)撰と傳へらる、而して法救の年代は詳ならざれども佛滅後約四百年、西紀前一世紀頃ならんと推定せらる、然らば波梨所傳の法句は前述の理に因り是より以前ならざる可らず、又集錄せし時はたとひ佛滅後若干百年を經しとするも、集められたる頌文の大部分は佛陀の自說たるや疑なし、又後年佛弟子の追加揷入の頌文を含むにしても。
[註、 頌文、じゅもん。
デジタル大辞泉云、経や論の文章の終わりの部分にある仏の功徳をほめたたえる韻文。
偈(げ)の文。
[註、 作者は勿論釋尊とす云々、實證不可。
[註、 謙字原作異字體、傔字亻偏を言偏に替える
[註、 波梨、巴利、パーリ。
[註、 法救Dharmatrāta。訓ほっく、又作達磨多羅、曇磨多羅、達磨怛邏多云ゝ、
[註、 故き、古き
佛敎中に於ける位置
佛の說法は質問者ありて、此に對して酬答する時と、問者無きに佛が進んで敎訓する時とあり、前者は對告衆(有傍訓あひて)の性質、情想等を顧慮して‘隨宜の說を爲し、所謂る‘應病與なれば、目的を達する爲には時と處とに應じて適宜の處致を採らるゝは勿論なり、然るに後者の場合は何時も是の如くならず、直に佛の眞意を發露し敎訓せらるゝこと寧ろ多に居るべし、法句は或は‘鄔陀南(Udānam)とも云はる、無問自說と翻ぜらる、心の琴線に觸れて詠出せる詩なり、此の點より見ても、法句經は單刀直入的に釋迦敎の本意を探るに最もふさはしきものなり。單に文句が原始的成立なるに由るのみに非ず。
本書波梨(有傍訓ぱーり)語の原本は今より八十一年前‘安政二年に丁抹の‘學者ファスボェル此を公刊し、且つ‘羅甸語の譯を添へたり、爾來英・獨・佛・伊等各國の語に翻譯せられ、歐人間荐に珍讀せらる、我邦にては‘明治三十九年に常盤大定君は英漢譯に和譯を加へ出版せられたるも、君の文は英譯に基づきしものにて未だ原本ありのまゝを紹介したるに非ず、僕不肖を顧みず出來得るかぎり原意を傳へんとし、兼て學生の波梨原本を讀むものに便ぜんがため文を潤飾せず、句調を整へず、拙譯を試み、新譯法句經と題し、雜誌宗敎界に載せたり、爾來二十有三年後の今日岩波書店主の‘慫慂に因り、前稿を修正し、注解を益し、一書として再び公表しぬ。
[註、 隨宜の說を爲し、相手に隨って說く。據法華經方便品隨宜所說、宜きに随て說く所云々、
[註、 應病與、病に應じて與ふ。據唯摩經
[註、 鄔陀南Udānam、Udāna歟。又作烏陀南、嗢托南、優陀那、鬱陀那
[註、 安政二年、凡そ西曆1855。德川13代家定、121代孝明御時
[註、 學者ファスボェル、Michael Viggo Fausbøll、デンマーク籍
[註、 羅甸語、ラテン語
[註、 明治三十九年に常盤大定君は云々、法句經南北對照英漢和譯。博文館1906
[註、 慫慂、訓しょうよう。語義誘い
昭和十年四月 荻原雲來
目次あり。云、
第一 雙敍の部
第二 不放逸の部
第三 心の部
第四 華の部
第五 愚闇の部
第六 賢哲の部
第七 阿羅漢の部
第八 千の部
第九 惡行の部
第十 刀杖の部
第十一 老耄の部
第十二 己身の部
第十三 世俗の部
第十四 佛陀の部
第十五 安樂の部
第十六 愛好の部
第十七 忿怒の部
第十八 塵垢の部
第十九 住法の部
第二十 道の部
第二十一 雜の部
第二十二 地獄の部
第二十三 象の部
第二十四 愛欲の部
第二十五 比丘の部
第二十六 婆羅門の部
第一 ‘雙敍の部
[原註、二首づつ對比して述べてあるを以て雙敍と名づく。
一、諸事意を以て先とし、意を主とし、意より成る、人若し穢れたる意を以て語り、又は働く時は其がために苦の彼に隨ふこと猶ほ車輪の此を牽くものに隨ふが如し。
二、諸事意を以て先とし、意を主とし、意より成る、人若し淨き意を以て語り、又は働く時は其がために樂の彼に隨ふこと影(形を)離れざるが如し。
三、彼れ我を罵り、我を打ち、我を破り、我を掠めたりと堅く執する人の怒は息むことなし。
四、彼れ我を罵り、我を打ち、我を破り、我を掠めたりと堅く執せざる人の怒は‘止息に歸す。
[註、 止息、しそく。休息す
五、世の中に怨は怨にて息むべきやう無し。無怨にて息む、此の法易はることなし。
六、然るに他の人々は、「我々は世の中に於て自制を要す」と悟らず、人若し斯く悟れば其がために爭は息む。
七、生活に安逸を求め、‘感官を護らず、飮食度なく、懈怠怯弱なれば、魔は彼を伏す、猶ほ風の弱き樹に於けるが如し。
[原註、感官を護らず——視、聽、嗅、味、觸の五欲を恣にすること。
八、生活に安逸を求めず、感官を護り、飮食度あり、信心あり、勇猛なれば、魔は彼を伏せず、猶ほ風の巍然たる山に於けるが如し。
九、自ら‘濁穢を離れずして‘濁穢の衣を著んとするも、自制と眞實とを缺くときは彼は濁穢の衣に應ぜず。
[原訓、濁穢、ぢよくゑ
[原註、濁穢の衣——袈裟の飜名なり、又は不正色とも言ふ。
十、自ら濁穢を吐き、專ら善く諸の戒を念じ、自制と眞實とを具ふるときは彼は濁穢の衣に應ず。
一一、不實を實と‘謂ひ又實を不實と見る人は、實を了解せずして邪思惟に住す。
[原訓、謂ひ、おもひ
一二、實を實と知り不實を不實と知る人は、實を了解して正思惟に住す。
一三、屋を葺くに粗なれば雨漏るが如く、心に修養なくんば、貪欲之を穿つ。
一四、屋を葺くに密なれば雨漏らざるが如く、心善く修養すれば、貪欲之を穿たず。
一五、現世に憂へ、死して後憂へ、罪を造れる人は兩處に憂ふ、彼れ憂へ、彼れ痛む、己の‘雜染の業を見て。
[註、 雜染、訓ぞうぜん。語義くさぐさ(雜)の穢れ(染)。一書云、梵語sajkleśa
一六、現世に喜こび、死して後喜こび、福を造れる人は兩處に喜ぶ、彼れ歡こび、彼れ喜こぶ、己の淸淨の業を見て。
一七、現世に惱み、死して後惱み、罪を造れる人は兩處に惱む、「我れ惡を造れり」と惟うて惱み、惡趣に墮ちて更に惱む。
[註、 惟う、思う
十八、現世に慶こび、死して後慶こび、福を造れる人は兩處に慶こぶ、「我れ福を造れり」と惟うて慶こび、善趣に生じて更に慶こぶ。
一九、經文を誦むこと多しと雖も、此を行はざる放逸の人は、他人の牛を數ふる牧者の如く、宗敎家の列に入らず。
二〇、經文を誦むこと少なしと雖も、法を遵行し、貪瞋癡を棄て、知識正當に、心全く解脫し、此世他世ともに執著することなき、彼は宗敎家の列に入る。
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