それでもわたしたちはせかいをいやしたがった、あいかわらずに猶も/小説□14
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
(承前)
4月の23日にダナン市の外出自粛勸告が解けると一斉にカフェが正規オープンした。朝から、慥かに街には活気があった。夕方、明日から再開する小さな会社や店のところどころで店前でパーティをしていた。いずれにしても、パーティに始まってパーティに訖る國なのだった。晴れていた。
明けた24日は朝方豪雨が降った。土砂降りの雨が町を滿たした。金曜日。午前の終わりかけた時間に私は妃奈子のホテルに行った。下でLineを鳴らした。——なに?
「隙だろ。」
——隙。
「どっか、行こうよ。」
——なんで?
「もう大丈夫らしいよ。」
——なにが?
「コロナ。」
——そうなの?
「行きたいでしょ?」
——なんでよ。
「引きこもりすぎて、飽きたろ?」
——そうでもない。
ホテルの外に出ると、妃奈子は明かな不滿を曝した。「雨じゃん?」
「降ってるうちに入らない。」
「だったら、昨日行けばよかったじゃん。」
「知ってたの?解禁になったの。」
「ホテルの子が云ってた。お兄さん、いま、兵庫で働いてるらしい。」
バイクでリンウンとう寺に行った。海沿いの山の傾斜に立てられたそこは海が一望できた。未だに閑散としていた。いま、コロナ禍が終わった(——と、見なされた、)當日この雨の日に、寺に觀光客など来るはずもなかった。足元に樹木が茂った山肌が見えた。向こうに海が雨の中に霞んだ。海は東にある。
「あそこじゃ、まだ、お盛んらしいね。」
海の東には日本がある。
「コロナ?」
「終わったらパーティなのかな?」
「パーティ?」
「人類が勝利した、解放の祝祭、…的な」
「まさか。」
私は云った。「國が亡びて訖る戦争じゃないんだぜ。いつ、ヴィルスが降伏宣言するの?」
私は妃奈子の額に、「紙切れの講和條約とか。」指先で銃をつくって、「休戰協定とか。」ばあん、と。
唇の先につぶやいた。
鳥が飛んだ。
歸りのバイクの上で土砂降りの雨が降った。妃奈子が大聲を上げた。悲鳴だったのか笑い聲だったのか。風が悉くに後ろに棄てた。
4月3日に、ミーの母親方の誰かの法事が在った。會は殆ど人を集めなかった、近親の十人程度に過ぎない。玆ではいつも命日には大量の親族の大量の酒宴をひらく。ベトナム人はあれはパーティでは旡いと云った。彼等のこと葉の定義を尊重すれば、何箱のビールが明けられようともそれはパーティでは旡い。料理はミーとチャンが準備した。ロイが手傳った。口を出す以外に彼にできることは殆ど旡かった。坊主も來なかった。法律上の世帶主らしいミーが褐色の法衣をきて、三度ひれ伏す燒香流儀で線香を具えた。巨大な佛壇、はなやかな電飾。具えた線香が燃え盡きた時に、パーティが始まった。十人ちょっと。丸テーブルの雙つをうめた。六十代の男が私に近づいてきて、こゝの作法の握手に手を差し出しかけて、すぐに手を留めた。お辭儀をした。Covid 19の影響なのか、單に日本人をからかったのか、それは知ら旡い。テーブルの一つは、結局はだれも使わなかった。いつもの半分にも滿た旡い疎らの人の息遣い。だれかゞ連れてきた子供が遊んだ。タンがパーティの始まる頃合いに、呼んでもい旡いのを顏を出す。尿のチューブは付けていない。介護おむつを附けているらしいことが、かすかにふくらんだショートパンツ越しに察せられた。ビールを飲もうとした。隣の三十代の男が大げさにそれをとゞめた。タンが云った。大丈夫だ。医者だって少々ならいいと云ってる。誰も彼にそれを赦さなかった。タンはひとりでビールを開けた。タンは二口で顏を赤らめた。明らかに躰が拒否しているのが見て取れた。ミーは最早なにも云わなかった。死を望んでは旡いない。にも拘わらず、死に接近する叓を咎め旡い。ロイはチャンをからかった。タクシーが向こうの大通りに就いた。ミーが立ち上がりかけた。タクシーの中から、派手なドレスを着た、フル・メイクの六十代の女が姿を顯した。ロイの實母の姉か妹かだった。タンは氣附か旡かった。ビールにはもはや手を付け旡かった。料理にも手を附け旡かった。話にも参加でき旡かった。私はタクシーを見ていた。タクシーは綠色だった。六十女がタクシーに金を拂った。拂いおわらないうちに、ヒエンが、身をねじりながらタクシーを降りた。そこにだけ地球は違う重力をかけていた。腰から足から首筋から、奇妙にもかの女はひん曲げて息遣った。骨格は正常なまゝに。ミーと同じ法衣を着せられていた。躰軀を斜めに大げさに傾け、ヒエンは内またの兩脚で地面にだゞをこねるように撥ねながら步いた。つまずいて、ころびそうなのを私は危ぶんだ。十歳くらいの子供が派手な笑い聲を立てゝ、彼が久しぶりに見るヒエンをあざ笑った。邪氣などなにも旡くに。
ロイが、不意に氣づいて口を開いた。何も言わ旡かった。ロイは立ち上がって、奧に姿を消した。周圍の人間になにか言い譯していた。私はもはやロイを目で追わ旡かった。
ヒエンの疾患が、肉體上のそれなのか精神のそれなのか私にはわから旡い。障害ないし症候群ないし症狀の、その正確な名前もわから旡い。いずれにして明らかに、誰とも異ってあることをあからさまに曝していた。即ち、彼女は狂っていた。のどから引きずり出すような獨りごとを盛んに、時にさけび、時につぶやき、時にわめき、時にさゝやき、或は、歌うような音調を附けて鳴らした。二十代半ばの、何度か見かけたことのある靑年が席を姉妹に讓った。テーブルをかたづけて、あたらしい皿を用意するようにチャンに命じた。靑年が充分に礼儀正しい叓は、私は已に知っていた。前もそうだった。ロイは母親になにも云わ旡かった。毛嫌いするそぶりも旡かった。他人にすぎ旡かった。いつものことだった。あくまでも、彼は自然だった。市場へひとり買い物にでかけて、それから歸ってきたにすぎ旡い母親を無視するように、ロイにはなにごとも旡かった。テーブルの大皿に盛られた、已に食べくさしの茹で鷄をヒエンは手づかみにつかんだ。傍らの四十過ぎの女が舌打ちして、そして笑った。六十女は燒香していた。ヒエンはつかんだそれを口に近づけて、手をとめた。眼差しさえもが空中に停滞した。何か考えていた。乃至は感じていた。乃至は聞いていた。したゝる肉汁とゝもに握りつぶしかけた手の平がいきなりにひらかれて、テーブルと膝に鷄肉を散らした。後ろで礼儀正しい青年がなじった。手拭き紙を差し出してやった。ヒエンの横向きの眼差しが斜め上の方の何かを見詰めていた。私は席を立った。周圍の人間に笑んで會釈した。何人かは相變らずに握手の手を差し出しかけた。娑羅雙樹は三月か四月の花、——つまりは如月の花なのかもしれない。何というでもなく少人數の、會話の彈むわけでもない酒席をはなれて私は庭の木陰に入った。夥しい葉の夥しい翳りを圡に投弃てた巨大な樹木を見上げれば、そこにその奇形じみた花が點在していた。何度見ても葉の綠の色彩を侵した黴か何かにしか見えない。樹木は花に寄生されていた。私にはそう見えた。
うたゝ寝から目を覺ます。4月16日。ベッドから起き上がってリビングに出た。ユエンはどこにもい旡かった。喉が渇いていた。沸かした水の冷やしたのを冷藏庫からとって、グラスに注いだ。落とした氷が音を立てゝ割れた。呑む前に、テーブルに置いた。テーブルとグラスが音を立てた。半ば閉ざされたシャッターを押し開いた。背後に人の氣配がした。リビングの隅に立ってチャンが私を見ていた。表情が旡かった。たゞ眼差しが冱えた。チャンはミーの家で時間をつぶしていたのだった。それに氣附いた。妹をあやしに来たのかも知れなかった。やゝあって、私に見つめられて居ることにチャンは氣附いたに違い旡い。零れるように、いきなりに微笑んだ。私は彼女が傍らに近づくのを待った。彼女は微動だにしなかった。グラスに目を落とした。水滴を肌に粒だたせていた。その氣があったわけでは旡かった。私はチャンに近づいた。すれすれに添うと、彼女の髪の毛の匂いが鼻に立った。チャンは瞬きもし旡かった。私は自分が微笑んで居ることはしっていた。私はチャンをひっぱたいた。チャンは聲を上げなかった。空氣のこすれる音を聞いたような氣がした。チャンが顏を上げた。失神しかけた眼差しを曝した。腹を殴った。崩れそうに身を曲げたチャンの髪を引っ掴んだ。指のあいだに髪が絡んだ。汗ばんではいなかった。肌を切るような鋭さがある氣がした。蹴り上げて、私はチャンを床になぎ倒した。チャンは倒れながら迯げた。追いかけるほどでも旡かった。力盡きるように佛間の祭壇の前にうつぶせたチャンの髪を再びつかんだ。あお向けにした。ひざまづいて跨ぎ、私はチャンを何度も殴打した。何度かチャンは白目を剝いた。庭に咲いてゐる娑羅雙樹の、その匂いさえ嗅いだ叓が旡かったことを思いだした。チャンのゆるくひらかれた唇がかすかに亂れた息を吐くのを聞いた。私はチャンを抱いた。床にはぎとられた衣服が散乱した。日差しを浴びた。正午を過ぎた筈だった。チャンの躰の中に痕跡を殘した。チャンは吐き出されたそれの、躰内の存在に氣附いたい違い旡かった。眼を開いて私の上で思わずに庭を見た。横向きの顏に日の光が横殴りにさした。靑暗い翳りが肌のおうとつに添うた。私の指が彼女の腹部にふれた。やわらかな質感を指の腹が感じた。指がなぜて上にすべれば胸のふくらみを迂回して、胸元の肋骨の感觸にふれる。鎖骨を通り過ぎた首にふれた。片手に頸を絞めた。少女の首は細かった。充分だった。チャンは身をのけぞらしかけた。私は赦さ旡かった。チャンの頸をつかんだままに私は彼女のくちびるを奪った。チャンはもはや自分が口づけされていることをさえ認知し旡かった。頸の手を解いたときにチャンは大きく息遣った。吐かれた息が鼻先に感觸を殘した。いきなり身をのけぞらせてチャンが叫び聲を立てたように思った。聲はなにも唇をこぼれ出さ旡かった。おおきく擴げられた唇を見た。突き出され、曲げられた背筋が胸をおおきく湾曲させた。息を吐き出し切った腹部が、息をすいこまずにへこんだまゝに、かすかにふるえた。聲の旡い大口の唇は、或は痙攣しているのかも知れ旡かった。私はそう想った。夢を見た。チャンを上に載せた儘に、午後に差し掛かった日差しの中でとじるともなくとじられた瞼のうちに全裸の少女がうつむいて花を食い散らしてた。花の名前は知っていた。庭の娑羅雙樹だった。私にはその花の匂いを嗅ぎ取らせてくれと少女に願った。こと葉も旡くに。汚らしい喰い方だった。耻らいも作法も何も旡い。飢えた犬が肉を喰い散らすように。私は少女の髪をつかんだ。顏を上げさせた。その瞬間のあまりの抵抗の旡さにこの少女の頸には元から骨など在りはし旡ったことに氣附いた。抑ゝ骨格などなにも旡かったに違い旡い。生きて在る叓がもはや不當な奇形にすぎ旡い。彼女が生まれるためにこの世界は生まれたのではない。この、本來、無機物の支配する世界。宇宙の膨大な領野を占めるそれら。いのちなど必要としない存在。太陽の光は貴方を照らすためには存在しない。あなたはただ略奪して寄生したにすぎ旡い。尊嚴もなにも持ち合わせずに。恥辱と汚辱そのものもとして、と。少女をなじろうとしたときにその少女の顏に見覺えが在ることに氣附いた。誰か判ら旡かった。自分自身なのかもしれ旡かった。だれにもかれにも似ていた。空洞にすぎない抉り取られた眼窩から夥しい血が溢れた。まるく開いた口蓋の、鮫の齒じみた夥しい齒が咬みつぶしすりつぶした奇形じみた花の、白いそれらの匂いが立った。すさまじい惡臭に過ぎ旡かった。腐った肉に糞尿を雜じらせてさらに腐らせてもこんな匂いなどし旡いに違い旡い。私は泣きそうだった。已に泣いていたかも知れ旡かった。記憶が旡かった。花が匂った。無殘な齒のいたるところがおびただしく白い花のすりつぶされた色彩のむごたらしさに穢れた。私は少女とおなじくに口を開いていた。おこぼれを乞うように。ないし能旡しの無樣な模倣を曝して?わたしは瞬きさえし旡い。瞼など已に燒き盡きたに違い旡い、と。開いた眼差しに日差しがふれていた。見上げた天井の近くに蝶が儛った。白かった。夢の記憶が目覺めた。想い出す寸前のその意識の中の觸感を感じていた。庭の娑羅雙樹を思った。未だに現實に咲くそれを、いまさらに見ておきたかった。欲望に近かった。チャンは未だに私の上に身を預けていた。眠っているのだと思った。凢ての躰重が赤裸ゝにもかけられていた。頭をなぜた。形態に違和感が在った。手のひらの濡れた觸感に氣附いた。私は遜れるように、——投げ弃てるように。チャンを引きはがした。ゆかに仰向けに転がったチャンの死體の頭部は砕かれて、最早もとの形態をなど留めなかった。殘った片目の閉じられ旡いのが、なにも見ていない眼差しのうちに何かを見ていた。それは慥かにチャンの目だった。立ち上がった私は自分のむねに就いた夥しい血の夥しさに氣附いた。庭を見た。死因はわから旡い。ユエンがうつぶせに倒れて死んでいた。周圍の黑ずみ。それがなにかは判らない。體内の汚物なのかなんなのか、下半身が濡れて黑ずんでいた。或は撒き散らされた血だったのか。目を背けた。庭を出た。大通りに出た。人の氣配は最早旡かった。空に飛ぶべき鳥の悉くが路上に落ちて体の周圍に泡を立たせていた。橋げたに衝突したトラックが燒け盡きて、くすぶった炎をかろうじて立てながら細い黑煙を膨大にも上げていた。男の死骸が転がっていた。うつぶせだった。頭が吹き飛んでいた。腹を割った犬が内臓と血の黒ずみをさらしがら道の真ん中に死んでいた。大通りの向こうにまで轉がったバイクと、恐らくは投げだされて轉がったいくつかの死體が點在した。橋に向かって步いた。大通り沿いのカフェに二十軆ばかりの死躰がそれぞれの形に轉がっていた。千切れた足が街路樹の下にあった。女のものに見えた。あらゆる場所で、あらゆる生き物が死んでいた。空の色彩がいつにもまして瑞々しく、澄んでいることに氣附いた。生き物がい旡くなったからなのだろうか。行くあては旡かった。髙みから街を見下ろし、總てを確認する必要を感じた。橋にあがる螺旋階段をのぼった。所々に散亂する死軆の數をかぞえた。橋の上に出た。遠くに黑煙が立っていた。バスが橋から落ちかゝっていた。燃えてはい旡かった。割れた窓ガラスが路上にきらめき、窓に飛び出しかった死体をいくつかぶら提げた。散在する汚物のような動きのない點在は死躰以外のなにものでも旡かった。私は氣附いた。死んだのは、と、彼等ではない。彼等はしななかった、と、私は息遣う。
細胞が脈打つ。
2020.4.22-26
seno-le ma
未完成
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