それでもわたしたちはせかいをいやしたがった、あいかわらずに猶も/小説□13
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
(承前)
チャンが初めて私を知った時、ミーの家に忍び込んだチャンはその時リビングでスマートホンを弄っていた。外で昼食を食べて、歸って、昼のシャワーを浴びて、そして出てきた私は彼女を見つけた。ロイはその比親戚の旅行會社を手傳っていた。雑務以外の何をするでも旡い。お情けに給料をもらうに過ぎ旡い。チャンより一歳上のロイは中學までは出た。定年のタンは仕事をしてい旡かった。いつも誰かのうちに行って時間をつぶし、話すことが旡くなれば携帶電話かスマートホンかを弄った。カラオケと社交ダンスが趣味だった。どれも見せられる腕では旡かった。私以外に、ベトナム人たちの家にいるものは誰もい旡かった。チャンはそれを知っていた。
チャンはショートパンツだけで、上半身を曝したわたしを見上げて、そして一瞬に色氣づかせた目を逸らさなかった。こぼれんばかりにも無言で笑んだ。たゞわたしを見つめて、その知性を感じさせ旡い微笑を呉れた。あるいは、素直過ぎる微笑だった。
幼い少女はスマートホンを手放さ旡い。
メッセージが届いた。
電子音が短い音を立てた。
私は微笑んでやった。
共通言語は何も旡かった。
微笑み合うしか旡かった。
ミーの寝室にTシャツをとりに入りかけて、ふいに私は立ち止まった。振り向き見た。少女が微笑み続けていた。彼女が私だけを見ていることは已に知っていた。容赦も旡く赤裸ゝだった。何を思ったわけでも旡かった。私はチャンを手招いた。駈けるように、わたしに從った。私が蚊帳をはぐってベッドに横たわるとチャンも身を滑り込ませた。押しつぶされた鈴を無理やり響かせたような、そんな音が耳元にした。ふれそうな距離に唇が息遣った。壁に白い蜥蜴が張っていた。つぶれた鈴の音が蜥蜴の鳴き聲だったことを知った。チャンは何をすべきか已に知っていた。初めてではないのかも知れ旡かった。私はそう想った。自分で服を脱ぎ捨てると、かの女はわたしをまで脱がせて、息を附く暇もなく、軈而上になった。迷いは旡かった。そのためにこゝに來たことを私は知った。終わったあと、やがてうたゝ寢をはじめたチャンがまわした腕をほどいて、——その拘束は無力だった。もはや。眠りにおちて仕舞えば。私は庭に出た。庭の離れの隅のひときわに巨大な樹木に花の咲いていたのを見た。それ迄氣附か旡かった。背の髙い樹木を見上げた木漏れの逆光のそこに、小さな白い花が無數に咲いていた。幼児の奇形の手のひらが、ちいさいまゝに無理やり開いたような、そんな歪な放射をさらして、それら數しれ旡いの花ゝがそこゝこに固まって咲く。花の集落は葉の茂りの夥しさの隙間ゝゝに點在する。なにか、樹木に寄生したことなる異物が繁殖をさらしたようにしか見え旡い。とても樹木のそれ自身のものとは。…見え旡い。娑羅雙樹だった。地面に幾つかその花が頸ごと墜ちていた。
夕方に目を覺まして、チャンは出て行った。カンの家には歸らなかった。半年近くチャンは家出した。
二月の終わりのいつか。
ハオは彼の家のベッドの上であおむけに股を開いた。
韓國人、本当に怖い。
そういった。——あいつら、と。まだ、ダナンにいる。もう歸ってほしい。
「コロナ?」
指先に、彼を弄んだ。その
「ベトナム在住の奴だっているでしょ。」
午前の、斜めに進入するひかり。もしも
「そういう奴って、」
光にも乘って感染擴大し、增殖するヴィルスが存在したら?
——關係ない。迷惑。
わたしたちは速やかに人類同じ
——差別じゃないよ。でも、
最期の時を迎えるに違い旡い。
——あぶないから。
光。
——それが現實。
指先が形をなぞる。
ハオが笑った。
指の腹が粘液をこねる。
ハオが一度だけちいさく息を亂す。
私はほゝえむ。
藥まみれでしょ、あいつ。
妃奈子が云った。
まだ東京にいた比、いまだCovid 19などゝこかの蝙蝠の體の隅でせつせつとその生命をつなげていた時に。
それとなく、由樹子が私を知ったことに氣附いたことは明らかだった。
「藥?」
——頭の中、半分以上いろんなお藥でこわれてるの。だからじゃない?髪の毛、匂ってみ。ちょっとくさいから。
明かな惡意を眼差しと頬にさらして。
4月3日、ヤンの夢を見た。
指に白濁した液体を執拗に撫ぜこねて、私を見つめていた。
いつもの茫然とした眼差しで、そしてかすかにひらいた唇がいき遣った。
——やめて。
私は云った。
——自分勝手に、俺で、しないでくれる?
ヤンの指先のその白濁が
——俺を、勝手に強姦しないでよ。
私に吐き出させたものだということは
——やめてくれない?
おそらく誰もが知っていた。たぶん、
——移るよ。コロナ。
世界中の誰もが。「もう遲いよ。」
茫然としたままにヤンが笑う。
「もう、」
と、私は聲を聞く。
まばたく。
由樹子が死んだことを告げた日に、妃奈子は昼下がりになるまで私に覆いかぶさって離れ旡かった。
正午に、窓越しの陽ざしが直射した。
肌を音も旡く日は燒いた。
カーテンを閉めるべきだった。
妃奈子は放置した。
なんの切っ掛けも旡かった。午後一時を過ぎて、それまでなんらうたゝ寢どころか目を閉じることさえもし旡いで、なにもし旡いまゝに私の躰の上ですごして、いきなり身を起こすとシャワールームに姿を消した。におうほどに女じみた肉體を半身だけの黑い翳りが包み込む。床に翳が乱れる。
不意に、長すぎることに氣附いた。譬えわたしという外部者のうつした穢れを恐れて、執拗に自分の肌から浴槽からなにから洗い續けていたとしても、いくらなんでも長すぎた。正確には判らない。たぶん三十分くらい。バスルームは狹い。人の身軆も、すくなくとも太陽の半径よりは小さい。ヴィルスにとっては肥沃廣大な沃圡であっても。
私がシャワールームのドアを開けた。撒き散らされていた水滴は已に奇麗に乾きゝっていた。シャワーを浴びもし旡いで便座に座った妃奈子がうつむいて泣きじゃくっていた。乃至は、痙攣しかけてゐた。吐いていた。便座の中には入らずに、吐かれた悉くが彼女の膝と便器を汚した。
「…怖いの?」
思わず、私は云った。
聲。自分の耳元にさゝやくそれ。
妃奈子はなにも答え旡かった。
「死ぬのが、——死にたく旡いの?」
「死にたい。」
「怖く旡いの?」
「怖い。」
「死ぬのが?」
「怖く旡い。…別に、」
言いかけて、振るえる喉が聲を詰まらせた。その時には已に妃奈子は自分が云おうとしたことを、あるいはなにかを言いかけていた事實をさえも忘れた。
「洗い流しちゃえ。」
私は云った。
「全部。」
「無理。」
「お前の存在ごと洗い流しちゃえよ。」あるいは、私は聲を立てて笑いそうになっていた。妃奈子の嗚咽がシャワールームに響いた。
三月。28日の土曜日にハオは私を家に呼んだ。
家の前で電話すると、いつものように階段を降りて、姿を見せる。駆け足に手を振る。
家の中に手招きしながら、そして彼に近附いた私に、ハオは日本製の除菌ティッシュでわたしのくちびるを拭った。——笑っちゃうよね。
ハオが耳元にさゝやく。
——頭、おかしいよね。
私は抵抗し旡かった。
笑んでいた。ふたりの男が、笑みあって見つめていた。除菌剤のものなのか、鼻の至近で薬剤くさい饐えた匂いが立つ。「逆に、躰に惡そう」
云ったのはハオだった。
「しかた旡いよね。」
さゝやく。
「死にたく旡いでしょ?」
笑う。
私たちは二階で口附けあった。
液体にまみれて貪る。
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