それでもわたしたちはせかいをいやしたがった、あいかわらずに猶も/小説□11
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
(承前)
4月19日。
姪っ子の世良曉からFace Bookに電話があった。「元氣?」
私は聲を立てゝ笑った。
「なによ。どしたん?」
曉が一瞬沉默して、軈而たじろいだ。
「どいつもこいつも最近、電話くれるんだよ。」
「ひまじゃけぇな。」
「で、どいつもこいつも云うんだよ」
「なんて?」
「元氣?」
一瞬の間が在った、その穴にでも落ちた樣な、顯かに曉は不快に思ったらしかった。京都かどこかの專門學校に行った。彼は。オートバイの技師になった筈だった。うろ覺えでしか旡い。退學したかもしれ旡い。轉職したかもしれ旡い。今、何の仕事をしているかは知らない。少なくとも総理大臣にはなってい旡い。何年か前に結婚した筈だった。
「話が有るんじゃけど。」
廣島に在住だった。
「コロナ?」
生まれたのは岡山だった。
「察しがええの。」
私の父親の妹の三人産んだ息子の末だった。
「莞爾さんが、入院したで。」
それは私の父親の名前だった。
「いつ?」
「昨日、美也子叔母さんから電話貰ろうたが。」
それは私の母親の名前だった。
「莞爾さん、脳梗塞で倒れてからにデイ・サービスに行きょうたろう?あそこで、クライスターあったらしんじゃなが。」
「クライスラー?」
「コロナじゃなが。それで、あやしいゆうて、調べたら熱があって、」
「何度?」
「7度5分とか。發熱は大したこと旡んじゃけど、…まえからよく熱、出しょうたん?」
「かもね。なんか、そうだったかも。」
「糖尿も有るんじゃろ。」
「それは知ってる。」
「美也子叔母さんは陰性じゃいうて。けど、樣子見で自宅待機されとるいうて。叔母さんとこも、病氣が病氣じゃから見儛いにもいけんじゃろ?俺ら。」
「なんで?」
「いや、そうじゃろ。普通の病氣じゃないんで?知っとる?防護服いるんで?原發みたいな。」
「で?」
「どうするん?」惡い、と。
私は云った。何か、變りがあったら連絡くれよ。
云う。
「えゝで。」
歸って來れない?…と、云ったその切れ目も旡く「歸れんよな。コロナじゃなからな…」
曉は獨り言散る。
「お前は大丈夫?」
憎しみ。
父親から強姦されるにも似て加えられた日常の暴力を私は、——それが世に謂う虐待という深刻で悲慘で同情すべき事態であることに氣附いた十九歳のときから、かれ等を赦したことは旡かった。
母親はそれが虐待であった事實に未だに氣附いてい旡いに違い旡かった。
泣き叫ぶように。
聲、——あの小柄な父親に、私の代わりにその不始末を侘びていた彼女の聲が、「赦してやってぇ、」なにも具體的には思いだせない儘に「…な。」忘れられない。「もう赦してぇ…」…矛盾している。笑って仕舞う裎に。
十四歳から家出を繰り返した。
十九歳で歌舞伎町に流れた。
三十過ぎまで連絡を附け旡かった。それからも殆ど交流が無かった。三十の時、實家の置き電話に十何年振りに連絡を入れたのは東野が云ったのだった。——向き合った方がいゝですよ。
「社長、迯げ旡いで。」
その時には、實際にはもはや
「ちゃんと、過去と、向き合って。」
憎しみは旡かった、とっくに
「大丈夫。」
あのころの問題は
「社長、強いから。」
他人の問題に過ぎない無關係さをしか曝して居なかった。
日返りで實家に歸った時、見たことも旡い他人の家族がそこにゐた。
父親の建築会社は倒産していた。母親が飲食店のアルバイトで生活を支えた。
ごめんね、連絡し旡いで。
母親はわびた。
なにごとも旡かった樣に笑んだ。
出来るはずも旡かった。
連絡など、抑携帯電話の番號もなにも敎えてい旡かった。
かつての家には曉たちが住んでいた。だから、電話には彼等が出た。彼の姉が私に兩親の居所と連絡先を言い附けたのだった。
一晩もいないことこを父親はかるくなじった。
私も微笑んだ。
やさしく。
土産の東京バナナが母親に喜ばれた。
父親は味が薄いと云った。——あっちは上品なんじゃの。
彼は母親と笑った。
わたち達は誰もがやさしかった。
4月。
ふれあおうよ、と。
妃奈子が云って、やゝあって笑った。悪戯じみたその音聲を聞いた。話があると呼び出されて、顏をだした四月の初めの金曜日に部屋のドアをノックすると妃奈子は中から、——熱ある?
云って、笑った。
「あるよ。」
——まじ?何度?何日間?
「36度ちょっと。毎日。」
ドアを開けると妃奈子はどこから入手したのか、あくまでも日本製の除菌クリーナーで私のふれたドアノブを拭った。
「こゝ、どこ?」
「私の部屋。」
「ニューヨーク?ヴェネチア?トルコ?」
「笑えない。」
冗談めかしながら、結局は妃奈子がもはや恐怖でもなんでもなくて日常のとるにたらない些末な習慣として、それをやっているらしいのが目にとれた。——冷たい奴だね。
妃奈子が云った。
「なんで?」
「人が死ぬのが、どんなに大変かわかって旡いの?」
「死?」
「どんなに、悲しくて、苦しくて、切なくて、救われなくて、報われなくて、」
「関係ない。」
「冷たい。」
「お前が死んでも、俺は死ね旡い。俺には関係でき旡い。」
「形而上學的に誤魔化さない。…やっぱ、冷酷なんでしょ。」
ささやく。
「心の中絶対零度で、結局せゝら笑ってるの。」
「ベトナムじゃ關係ないよ。どこにパンデミックってるんだよ。だれもかれも大げさにやってるけど。…あれ、國民性なのかな?死とか、疫病とか、そういうの、極端に恐れてる。」
「日本人だってそうだよ。」
「だったら俺は日本人じゃ旡い。」
「由樹が死んだらしい。」
そう云ったときに妃奈子は窓を背にした私を見ていた。逆光の中に私の立姿を見ている筈だった。眼を細めていた。光のせいで旡かったかもしれ旡い。何か、感情らしいきものゝ、なんだか、何か。妃奈子の眼差しはたゞ茫然とした色をいまさらに、いきなりに曝した。その唐突さの赤裸ゝに違和感が在った。私はなにか言いかけた。何を云いかけたのかは知ら旡い。なにも云いかけたこと葉などなかった。私は沉默した。
「逢ったこと、あるよね。」
小柄な女だった。
「なんかね、集中治療室?入って。それで人口肺?なに?」
存在感がないという存在感をいやらしいほどにさらした。
「あれって、胸裂いて機械取りつけるって叓なの?」
言葉もすくなくて、微笑む以外の笑い方など知ら旡い。
「そっちのほうがあぶないんじゃないの?…しらないけど、」
聲を立てて笑ったのを見た記憶がない。
「なんか、毎日輸血みたいなのするの?肺に?…なにそれ?」
記憶には嘘がある氣がする。慥かに
「すぐだよ。もう、…三日くらいで死んだらしいよ。」
いつか彼女は
「なんで?」妃奈子が云った。「なんで、あの子コロナなんかで死んじゃうだろ?」
「仕方ない。」
「救いようがない言い方だよね。」
「じゃ、救いなんか旡いんだよ。」
「だから冷酷。」私のすぐ傍らにまで添うて、「血も淚も旡い。コロナと一緒。」私は聲を立てゝ笑った。その擧動には違和感が在った。あるべき擧動を考えた。想い附かなかった。妃奈子がわざと鼻をならして私の匂いを嗅いだ。——匂うよ。
さゝやく。
「何が?」
「病気の匂い。」
「ヴィルス?」
「惡人の匂いも。」
「おまえもとっくに感染してるよ。」さゝやく。「匂い、嗅いだから。肺の中、俺のヴィルスで已に壞滅狀態。」除菌してあげる、と。
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