それでもわたしたちはせかいをいやしたがった、あいかわらずに猶も/小説□10



以下、一部に暴力的な描写を含みます。

ご了承の上お読み進めください。





(承前)

丸裸のユエンを家に入れてやった。チャンはミーの家で、もはや自分の家のようにふるまった。ミーを送迎バスまで送って歸るとミーのサイズの合わない服を着たユエンが朝食づくりを手傳わされていた。ユエンにできることは傍らでチャンの支度を眺め、そして突っ立っている裎度に過ぎ旡い。フライパンが音を立てた。云われて、流水で解凍している烏賊をビニール袋ごとにユエンが持ってきた。水滴がしたゝった。チャンが派手な聲をあげて罵った。ミーはすくなくともその時には、明らかに無能だった。庭に出て、離れの前に抛り棄てられたまゝのユエンの服を見た。血塗れだった。ユエンには傷一つ附いて居なかった。他人の血だった。觸れるのをためらった。想えば血に、いくらの穢れ、と。私たちがそういう生き物の群れが今何種類繁殖しているのか知れ旡かった。血は乾きかけて、更に水に濡れ、あげくなにもかもが台無しの蒸れた汚濁に過ぎ旡かった。新鮮な血は旨い。例えば屠殺直後の鷄の。私は目を逸らした。庭のブーゲンビリアが變らずに紫の色を盛らせて日を浴びた。


自粛勸告、——乃至戒嚴令の前、かの女の非番の木曜日に何度か逢ったヤンは、その度にいつも茫然とした眼差しをさらした。わざと私を直視せずに外れた視線の翳りに私を見つめ、私の視線に耻と恍惚に溺れる。家畜じみて、無抵抗で、被害者じみて、いためつけられる被虐者じみた、それ。

なんども見た。女たちのそれ。もう、と。

傷つけないでください。わたし、このまま死んで仕舞いますよ。

戀という感情。

肥滿に近い小柄に汗くさい肉を息づかせた。

旧正月の前に逢ったとき、川沿いの大通りのカフェで、——いそがしい?

「今年は、そんなにいそがしくないよ。」

答えるヤンは一度私を見つめて、悟られないように斜めに目を逸らした。其の儘に

「なんでかな?」

私の傍らの背後のなにをも見ずに

「みんな日本に行きたいけど。」

私の氣配を見つめ続けて

「在留資格、難しいからね。」

開いた瞳孔に好き放題に

「でも、貰った子、いま」

ものゝ形の感謝した白濁を

「いっぱいゝる。来年」

きらめかせて

「いくよ。」

潤う。

肉の厚い唇を真紅の口紅が塗りたくった。潤いの反射のこまやかな白濁。

店には外國人が多かった。相變らずの韓國人も。ダナンに、韓國人は異樣に多い。

「なんで韓國にし旡かったの?」

云ったわたしを我に返ったヤンは見た。一瞬あわて、「留學?」

聞き直し、

「中國とか」

「遠いよ。」

私は笑った。唯の話の間でも、最早ヤンは私に抱かれているのも同じだった。少なくともヤンの中で私たちはかさなりあって、濃厚以上にふれあっていた。見の前で女に自慰されている氣さえする。その眼差しがいつも茫然とする。

ヤンは私を見詰めた。見つめた自覺は旡い儘に、やがて同じように逸らされた。かすかに開かれた唇が息遣った。午後の四時半。

背中で男聲と女聲の韓国語が聴こえた。罵り合うような聲だった、何を話しているのかは知らない。


東野夕夏と連絡を取ったことは一度もなかった。夕夏から初めての通話がLineで入った。

しっかした聲だった。

彼女が云った。

「社長には、秘密にはしておけない事が在って。」

事件を知った、二日後の午前。7時過ぎ。彼女にとっては9時過ぎ。そんな頃合いか、と。ふと思う。晴れ。かの女がどうかはしら旡い。形通りの弔いの言葉をかけようとしたときに、彼女はそう云った。

「秘密があったんです。…ね。克己に。」

「秘密?」

「代々木上原のお店、ありますよね。」

「ありますね。」

「あそこに、…お名前、忘れちゃって、タカシさん、かな。そういう元從業員の方がいて。」

「實務、全部東野君にまかせていましたんで、すみません。ちょっと私も把握し切れてないんですが、…」

「そのかた、ちょっと前、亡くなったんですね。」

「そうなんですか。」

「流行りの、あれで。」

私は言葉を失った。

「それで、彼、入院する前に一回店に來てたみたいなんです。久しぶりに顏だして。古參のバイトだったみたいで。今の社員さんたち、だれもご存じなかったみたいなんですけど。店長の、」

「桧山?」

「…さん、かな?わたし、ちょっと、委しくは。…でも、その方から連絡受けたみたいで。そのこと。もと、同期だったみたいで。タカシさんと。影山さん。」

「桧山?」

「店長さん。でもいそがしくて話なんかできなかったよって。それからすぐ、その元バイトの方、入院して。一週間くらい?二週間くらい?亡くなったの聞いたらしくて。」

「いつの話?」

「いらっしゃったのは、たぶん二月のいつか。月末かな。亡くなったのを東野が知ったのは、たぶん三月の半ば。でも、病氣が病氣でしょ。一回、店長さんには極秘にさせたみたいなんですね。云うなって。だれにも。」

「保健所入りますからね。」

「急に重症化しちゃって、それから入院したのかな。もうほんとに、意識もうつろな感じだったらしいですよ。もちろん、また聞きなんですけど。なにもかも。」

「保健所にも嘘ついた?」

「來なかったんじゃないですか?意識もまともじゃなかったらしいから。移動場所とかは本人からは何も。たぶん。でも、三月の末からじゃないですか。日本で擴がったの。」

「Covid?」

「たぶん、いろんなこと思ったと思いますよ。克己も。」

「でも、秘密にした。」

「店長さんと一緒に。云ってたんです。もうしかたないじゃんって。死んじゃった人、感染した人はそうれはそれだよ。俺、今、まもれるやつら、まもるから。健康だけでいきてんじゃないんだよ、金も喰って生きてんだよ、俺たち、とか。——間違ってますよね?」

「そうとだけとも云いきれないんじゃないですか?必ずしも。」

「卑怯でしょ。」

「そうとだけともいえない。」

「僞善。」

「それだけともいえない。」

「自己欺瞞?…自己満足。自己正当化。結局誤魔化し」

「いや、かならずしも」

「政治家みたい。社長さん、まるで、」

東野の妻が鼻に笑った息を立てたので、私は想わずに我に返った氣がした。

「日本の。つかえない政治家。」

「民主主義者なんですよ。私。ニューヨーク・シティ並にダイバーシティ優先で、人ゝの意見の調停役なんです。強權は發揮せず斷定はし旡い。」

「まちがいなんです。もう、ぜんぶ。夫のやったこと。」

不意に、此の女こそが東野を追い詰めたのだという氣がした。

「死んで…なに?せめても懺悔?…したのかなって。」

此の女が東野を殺した。

「なんか、」

と。

一度口ごもって、ふたゝび女が何か云いかけた。

言い淀んだ。

いきなりにその息が震えた。

「…せつなくて。」

ようやくそれだけ言った。

淚聲だった。

私は目を閉じた。

「お悔やみを申し上げます。俺、なんにもでき旡かった。」

スマートホンの向こうで女が泣き崩れた。

「きれいな裎何も。」

私は女が電話を切るのを祈るようにも待った。


4月26日、ハオ、——Hauの夢を見た。彼を後ろ手に縛り附けているのはわたしだった。文字通り滂沱の淚をながしながら全裸の彼を膝間附かせて後ろから、へし折れそうにもその華奢な長い両腕を縛る。突き出された尻が拷問の跡を赤裸ゝに、赤らんでそこにさらしていた。それが邪魔だった。邪氣も旡く笑いながらハオは私に救いを乞うていた。

——明日は雨だよ。

何も答えずに私は彼を屠殺しようとするのだが

——カンボジアとスカンジナビアで。

腕を軋みそうな裎しばりつゞけて有る叓の痛ましさに

——明日は霰だよ。

現在進行の屠殺の赤裸々な痛みが

——バグダッドで雷が鳴ったよ。

かれの背骨を逆向きにのけぞらせて

——北京に今年の雪はない。

吐かれる彼の喉の息の音を

——プノンペンが雹を降らせたのに。

私は聞く。耳をすませて

——霞むピョンヤンは晴れだ。

ハオが聲を立てゝ笑った。明らかに骨折した頸がわたしを振り向きていた。その目をみてはいけない氣がした。素直な笑みに、黑目の反射の白濁の斑が散った。眼を覚ました時、躰の上でミーがほゝ笑んだ。夢を見ていた私を見ていた。覆いかぶさったその髪が匂った。

首と胸の皮膚の表面をくすぐる。

惡意など旡い。

明け方。

空はいまだくらい。

ミーの肌が汗ばんでいた。









Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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