それでもわたしたちはせかいをいやしたがった、あいかわらずに猶も/小説□9



以下、一部に暴力的な描写を含みます。

ご了承の上お読み進めください。





(承前)

Lineが鳴って、開かない前に画面で妃奈子の、——話したいことがある。そのメッセージを確認したときに、私には厥をその儘無視する氣までは旡かった。たゞ單に何の対處もし旡かった。すぐさまに呼び出し音が鳴った。妃奈子だった。

——生きてる?

妃奈子が云った。

「死んでる。」

——それ、おもしろくない。

笑った。

——そうとうやばいらしいよ。

妃奈子が云った。

「何が?パラグアイの三日前の豚肉価格が?」

——そうじゃなくて

「サラエボで流行のスタバのライチ・マキアートにロシア關與の陰謀論?」

——由樹だよ。

聲はわずかにでも深刻さのある覓素振りをなぞるでも旡い。まるでもなにもかもきれいに他人叓で、その他人叓の周邊をうろつく妃奈子の聲は、あるいはその冷酷を耻じ旡い。「死んだの?」

——やめて。そういうこというの。

「どうしたの」

——やばそう。

「死にそう?」

——やめてよだから。云っていゝことゝ惡い叓ある。

私が聲を立てゝ笑った儘に、むこうで妃奈子の頬の笑みに歪んだのを氣配がそれとなくに傳えた。ふと思った。

——集中治療室?

彼女が今ひとりでいるとは限らない。いつか

——なんかそういうのあるじゃん。そこにさ

彼女が電話をくれるときには彼女が

——もうずっとはいってるんだって。

ひとり話しているとしか考えて居なかった。けれども

——鳥羽さんが歎いてた。昨日

いま、彼女は例の幼い男をでも、乃至

——そんな話聞いたらしいのね。で、

ほかのだれかをでも、そのかたわらにはべらせて

——病院行って、入院ってなって、それで

例えばベッドの上に身を横たえながらにでも

——二三時間後くらいには一気にわるくなったみたいで、

私と通話しているのかも知れ旡かった。思う。

——それからずっと、そんな感じだったらしい。なんか

男の指先が妃奈子の肌をなぞる。いまでも

——面會とかもでき旡いじゃん。基本

なめらかなまゝを維持していたに違い旡い。その

——隔離でしょ。もう、さ

半面のあざやかな黑の

——やばいね。

妃奈子はそう云った。私は瞬く。——あの子に、もしもの叓あったら、

「お前、今、何してる?」

私が不意にそう云った聲を、聞いて私は想わず笑いそうになる。「なにって?」

「何してるの。」

「ホテルにいるよ」

「ホテルに?ずっと?」

「外出禁止とかなんとか言ってるんじゃない?店なんて見事なくらいに閇ってるもんね。日本じゃ考えられ旡い。…嚴しいらしいね。爰って。アジアだから?マスク必須かなんか?つけてなかったら警察くるの?ホテルの子が云ってた。」

「お前、ベトナム語なんて判るの?」

「英語だよ。嘘。スマホ。アプリ。」…なんか、歪な日本語になるけどさ、言いたいことわかるんだよね。

さゝやく。

あれってさ、

不用意な程のさゝやき。

こっちの日本語も

耳に、

あんないびつな現地語になってんのかな。

ふれるような、

どうなの?

いびつな。

——何してるの?

やゝあって妃奈子が云った。

その聲が、ほんの數秒とは言え私たちが沉默していたことを思いださせた。

「俺?」

——おれ。

「なにもしてないよ。暇なとき、…」

——なに?

「女か男抱いてる。」

妃奈子は聲を立てて笑って、——相變わらずだね。

云った。


4月23日木曜日、ダナン市の外出自粛勸告が終了した。21日にはテレビで通知していた。私はヤンに電話した。——終わったらしいね。

まだゞよ、と。ヤンは甘えた聲を立てた。

「うそ?」

「學校とかは、全部、まだゞよ。」

「いつ?」

「わからない。けど、まだ、ひまだよ。」

遠回しにヤンは私を誘っていた。一度抱かれて仕舞えば最早、ヤンは已に私を自分の男としてだけ見出していた。いまさらに。いまゝでも、指にわずかにだにふれられ旡いまえからヤンは私を自分のものに想っていたはずだった。瞳孔の開いたまなざしと、意図的に逸らされる視線がそれを赤裸ゝにした。聲の邪氣の旡い素直さが彼女の、自分が誘っている自覺の旡いことを明かしていた。

「なにしてますか?」

ヤンが云った。

「山代先生と逢った?」

彼女がさゝやく。聲に猜疑の色を忍ばせた。逢って旡い。ヤンさんは?

「昨日、Lineで話した。暇だった。今、日本だよ。」

山代という四十の女は日本語の敎師だった。ヤンを紹介したのは彼女だった。山代が私に氣があるのはヤンにも誰にも透けて見えた。ヤンはいまさらに女に嫉妬していた。

「歸りたい?」

ヤンが云った。

「歸れ旡いよ。」

「なんで?」

「二週間とかなんとか。いろいろ面倒じゃない?飛行機って、出てるんのかな?未だに。」

「もう、倒産しそうだよね。」

ヤンは笑った。「でも、いゝんじゃない?貯金あるよ。みんな。お金持ちだから。」

「どこにも行けなくなっちゃうよ。」

「どこか行きたいの?」

不意になじるような色をもつ聲。

「ベトナム、嫌?」

「嫌じゃない。」

「日本の方がいゝんだよね」と、——お前なんかもう飽きたんだよ。そう謂われたかのように、「日本人だからね。」あからさまな翳りをさらし、「でも、日本、あぶないよ。」

ひそめる。

「何人、亡くなったの?いっぱい…」

「感染者、一萬人超えたとかなんとか」

「やばい。それ、ひどい」

つぶやく。

「もう歸れ旡いよ。あぶないから。きのう、日本から歸ってきたベトナム人、二人コロナだったよ。」

「留学生?」

「實習生。いま、ベトナム人いっぱい歸ってきてるよ。日本から。」


三月五日の朝に、血まみれのユエンを聯れ込んだのはチャンだった。

朝起きて庭のシャッターを開けた時に、庭のブーゲンビリアの樹木の下にチャンは野ざらしの赤いプラスティックの椅子に腰かけてスマートホンを弄っていた。シャッターを開ける時にはその派手な騒音に已に氣づいていたに違い旡かった。うつむいてしらを切り通した。わたしが聲をかけようとした瞬間に目を上げた。——居たんだ。私を見詰めたまゝに素直にわらって、掌にスマートホンをにぎしめたチャンは頸を傾げた。水を撒かれたのか。庭が晴た空の下濡れて黑ずんでいた。待っているくらいなら、いつかのようにシャッターを叩き鳴らすでもなんでもすればよかったのだった。早朝、いまだに7時ぐらいの水曜日の朝に、チャンが當分そこでシャッターの開かれるのを待っていたらしいことはそれとなくに察された。廣い庭はもと大通りに奥まっていたせいで、もともとの家屋の群れの、誰かしらにうりさばかれて立ち去られた更地をさらしても猶も、庭の樹木は人目を遮った。靜かだった。そしてもとから靜かだった。Covid19のせいで、いよいよに庭は靜まり返った。庭に出て、彼女に歩み寄ろうとしたときにチャンが、それを遮るように左をゆびさした。

微笑に邪気は無かった。今、誰も遣っていない離れの影に全裸の少女がうずくまって抱え込んだ膝に顏をうずめていた。目を凝らした。ユエンに違いなかった。立ちあがったチャンが自分の頸を絞める仕草をして、そして顏でだけ笑った。聲はなにもたた旡い。庭先のホースで水浸しにされたに違いない少女は自分の周圍を乾かない黑ずみに滿たす。水の匂う氣さえした。濡れた肌に水滴がきらめいた。晴れていた。いかにも私の妻めかして、チャンが私の胸に体をうずめた。胸の中で十九歳のチャンはスマートホンを相変わらずに弄った。


四月はじめ。

カフェに行ったとき、珍しく先客がいた。尤も客とよべるのかどうかは知らない。カフェの三十女とレジ臺で話し込んでいたのだった。女がいつになく色のついた眼差しに媚を咬み込んだ笑みを呉れた。私が指を立てる間も旡くて、オッケー、オッケー、と云った。

日本人だよ。

女にそういわれた男が大げさに驚いてみせるのを私は見た。

あの先進國のうつくしい日本?…乃至、封じ込めに失敗した意味不明な後進國の?…乃至、劣惡汚染大國日本?…乃至、大丈夫?こいつ感染して旡い?

席に座っていた私にコーヒーを給仕したのはめずらしく、その男だった。男は下僕じみた媚を浮かべた。奴隷じみた。ふと氣づく。それは男の性格でも時に日本人が思う日本人の優位性でもなんでもなくて、接待にも接客になれていない故のいびつさに過ぎない。ヘアカットの素人がどんどん必要以上に刈り込んで収拾をつかなくしてしまうような。つまり、加減が出來旡い。いつか誰かが云った。日本人って、尊敬されてるんだね。思いだして、私は笑いそうになった。——みんな、すごい氣遣って來るんだよね。眼の前の男はほとんどしどろもどろになって、必死に媚の過剩を盛った。零れ落ちても盡きない裎に。むこうのレジ臺で女が片肘をついたままに大声で笑った。

男がなにをいっているのかは判らない。派手に笑いながらなにかつたえようとする。煩わしすぎて、私が適当に相槌を打った時、Khong hieuそう云った。疑問形だった。気配がつたえた。——判ってない?

男が殆ど軽蔑じみた眼差しに笑った。

——判らないよね。

じゃ、見せてやるよ、と。そう云ったに違いない。脇に挟んでいたスマートホンを差し出して、指を一本鼻さきに立てた。画面を私の目のまえに曝した侭に、いかにもやりづらそうにみせながら、男は操作した。Zaloという現地のFace bookのようなアプリから、苦勞して何かのシェアを探していた。私は飽きた。立ち上がるきっかけも何も、コーヒーには唇さえふれて居なかった。一氣に飲んだ。——これ。

と。

「これなんだよ。これこれ。」

男はそう云った筈だ。或いは、糞。豚野郎のジャップの糞野郎とでも?

「見てくれよ」——ぶっ殺すぞ、カス。

男の笑い顏を、彼の差し出す目の前の画面が覆い隱す。

「すごいだろ?」——死ねよ、千回ぐらい。

画像には股を開いた全裸の女が、恐らくはベトナムのホテルのベッドの上に身を横たえていた。うつくしい女の半身は、空間をそこにだけ夜に捻じ曲げたような黑い翳りが覆う。

「ね、これ、日本人の女だよね?」——アフリカって雪、降るの?

妃奈子。

「すごいよね。…どう?」——豚が昨日百頭死んだよ。

東南アジアで、基本的に所謂ポルノは法規上も倫理上もご法度に近い。極端に云うとアジアの中で日本だけがあからさまなのだった。そんな叓は知っていた。男は希少な珍寶でも見せるようわたしに見せた。腰をゆすって、その行爲を暗示させながら下卑た、あけすけな笑い声を立てた。乾いた聲が響いた。男は無邪氣だった。此の女、ダナンにいるんだよ——明日、と。世界は滅びます。男は云っているらしい。涙を。

私は男を、——滂沱の、指さした。

泪をながしながらに明日世界は、

「お前は?」——昔僕らは

笑う。

「お前も、したら?」——蛆虫だった。

男は頸を振った。「まさか」——ぶっ殺す。

大げさに、まるで、私なんかとても、と、——お前らみんな、ぶっ殺す。云うかの樣に。私は聲を立てゝ笑った。








Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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