それでもわたしたちはせかいをいやしたがった、あいかわらずに猶も/小説□8
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
(承前)
4月。履歴で、26日。二番店の、通称専務がLineにメッセージを入れた。——報告があります。今、お時間ありますか?
その片山郁夫はホスト上がりでは旡かった。もと、2010年になってから始めたドッグカフェの三人目の店長だった。上げた売上自体は大したものでは無かった。人望が売りだった。人望という言葉には常にいかゞわしいごまかしが匂う。いずれにせよ單純に人氣があった。客にもスタッフにも。云い方がやさしいのだった。理解者の振りをする能力があった。わたしは必ずしも信賴してい旡かった。——いゝよ。
——ならします。
聲がくらかった。
すぐに私は察した。
「なにかあったの?勘弁してよ、もう。俺も頭痛いんだよ。」
「云いにくいんです。俺も。實際、めちゃくちゃ言いにくいし、言いたくないし、なんか、信じられないんですけど。…いまだに。」
「どうしたの?」
「社長が死にました。」
はっきりと片山はそう云った。
わたしは沈黙した。
「なに?」いいかけて、やめた。
「ほんとに?」いいかけて、やめた。
私はひそかに額に汗をかいていた。
「いま、だいじょうぶですか?」
片山がそうささやいた。半分以上聞き取れなかった。聲があまりにも小さすぎた。
「昨日、東野社長、マンションから飛び降りたんです。」
「幡谷の?」
「奧さん、——夕夏さんって、いましたよね。あの方、前日かな?實家に歸らせて。コロナ疎開だよって。」
「彼女、實家、四國だったよね。」
「廣島ですよ。嚴島神社の宮家のなんかで」
「奧さん、」大丈夫?言いかけて私はことばにつまった。
片山は察した。
「大丈夫でした。電話では。心の中は知りませんよ。實際の。そうですかって。すみません、ご迷惑おかけして、みたいな。」
「それは、…」痛ましいね。むしろ。すさまじく。言いかけて、ことばにつまった。
「いや、嘘ですよたぶん。もしものことは、まさか、旡いと思います。」
「こども?」
「ご實家が、謂って、安定してるから、生活はなんとか…でも、」
気持ちがね、いいかけて、ことばにつまった。
「明け方かな。彼、…遺書、あって。」
「なんて?」
「從業員に、すまない、と。お前ら裏切って、惡いと。みんなもう、茫然としてますよ。店、一應、いつも通り開けましたけど。」
「なんで?」
「むしろ、失禮でしょ。社長に。閉めちゃだめじゃんって。何があっても。店は俺らが守るって。あいつら。今まで以上に団結してますよ。」
かわいいじゃん。…言いかけて、ことばにつまった。
「社長にも。遺言に、書いてました。一番最後に。」
「なに?」
私は目を閉じた。
「讀みますよ。書いてある儘…最後、社長、最後まで恩返しできませんでした。」
なにか、私は云いかけた。
なにを云いかけたのか判らなかった。
唇はひらきかけて、唯、ことばをうしなった自分に我を忘れていた。
「最後、迷惑かけます。」
聞いていた。
「今、社長との思い出しかありません。胸、いっぱいです。あいつのこと、よかったら、見てやってくれませんか?」
…奥さんですよ。たぶん、と。
片山が補足した聲を聞いた。
「すみません。本等に、申し譯ないです。ありがとうございました。ただただ、ただただ、全部が感謝です。」
聞いていた。
聞いてい旡いに等しかった。以上です、と片山が云った時、私の目から淚が止めどもなくにあふれたのに氣づいた。そして、それ以前のいつからか、已に淚などとめどもなくに流れていたことに氣付いた。
手がふるえていた。
私の喉が嗚咽にわなゝいていた。
泣いていた。
もはや悲しみさえも感じては居なかった。
三月終り比。
緩い外出禁止令の中でカフェも何もテイク・アウト以外は受け附け旡い。海邊の廢墟じみた家屋の一階に居住者が開いているカフェはお忍びで客を入れた。シャッターはおろしたまゝに、何の惡意も反抗も旡い惰性の叛亂が繼續する。稀に訪ねる親しい顧客を入ゝれる。一度に多くて二組、或は多くの時には私以外には客はいない。入れ替わりにいつかだれかゞ入るに違い旡い。半分だけあけられたシャッターを潛ると三十過ぎの太った女がいつもの媚を浮かべた。何か云った。赤裸ゝな現地の言語は判らない。何を云っているのかは判る。——今日も仕事はやすみなんだろ?
私が一本指を立てたのを女の目は見た。
——わかってるよ。コーヒーだろ?
女は後ろ向きに尻を振りながら支度した。
——全く。
鼻歌をうたい始める。
——誰も彼もいっしょだよ。
コーヒーを淹れる。
——にっちもさっちもいかないよ。
日差し。シャッターの殆どを絞められゝば外の光は編まれたアルミの隙間から漏れ入る以外の光源をなさない。朧な、と。そういうしかない光が侵入して儛う塵をきらめかせた。先客が何組かはゐたに違いなかった。タイル敷きの床に煙草の吸殻がまばらに散亂していた。Lineを見た。ひますぎて、なんかくるしい。
そのメッセージは樋口芹馨が昨日送っていたものだった。アマチュアのミュージシャンだった。シンガーソングライターを謳って、自分で曲を作って、歌って、CDを燒いて、或いはストリーミングデータをアップして、とはいえ地下アイドル崩れのグッズ販売で収入源の殆どを賄ってゐれば、ライブが出來旡ければ干上がった魚に等しい。
なに、してますか?
アイスコーヒーが光る。
げんきだったら、いいな。
グラスが水滴を埀れさす。
妃奈子が男を連れ込むのを見た。なにともなくて顏を上げた時に、海邊の大通りの向こうの端、海を背にして黑いマスクをした女が立ってゐた。黑地の端に餝りの白い印字が見えた。見間違いようもない。キャミソールの彼女は白い、文字通りぬけるような肌の透明感に見事な女の造形を誇示して、そして曝した肌の見せつける不意の濃い黑濁の半身を、アインシュタインもニュートンも、アルキメデスさえも否定した違和感のうちに、そこにだけ深い深夜の翳りの氣配を侵入させて明るい日差しの直射の下に曝した。おもわずに、私は聲をかけようと思った。笑いかけてさえいた。聲がとゞくはずは旡かった。抑私の喉は大聲を張り上げるようにはできていない。耳の至近にさゝやく爲だけにしか。人の聲の大きいのを私は嫌った。大音響ならば、豪雨のそれか雷鳴のそれか土砂崩れの轟音の、無慈悲なそれをだけ愛した。ひとりの人のこれみよがしな聲の大きさは常に醜い。聯なり合った集団屠殺の悲鳴のこだます轟音ならそれでもうつくしいとおもうのだろうか。聞いた叓が旡いので判ら旡い。
周圍に目線を繞らす妃奈子は明らかに誰かを探していた。姿は隱しようもなく人目を引いた。惹かれるべき人目など、バイクの疾走さえまばらであれば、實質殆どありはしなくともいずれせよも。現實的に、孤獨。やゝあって、カワサキの白いバイクが止まった。十代後半なのか。いたいけなくも見え旡いでも旡い幼げな男が乘っていた。正確な年齢など判らない。爰の人間は私には幼く見えるか老けて見えるかの兩極端でしか旡い。男は明らかに妃奈子に馴れかけた男のやさしい氣遣いのある媚の繊細を曝す。あからさまで、人目にはたゞいやらしくだけ見えた。妃奈子がなにか云った。ふたりの姿以外にはその一瞬、だれも居なかった。餘にも空虛な大通りに、その溢れかえる日差しのみずみずしさの中のふたつの生き物の姿は無殘なまでに孤立していた。妃奈子がなにか戯言に弄んだに違い旡かった。男が聲を立てゝ笑ったように見えた。大げさな身振りを曝した。日の下に生きて在る叓。直射日光に秘かに燒き焦がされながら。妃奈子のくちびるが動いた筈は旡かった。蔑むに近い冷んだ眼差しに男を見ていたのだから。妃奈子は沉默のまゝに立っていた。長身の男の、バイクに乘りっぱなしで話しかけるのをやゝ上目に見上げて、隱す氣も旡い輕蔑と煽情に謎めかされたなまめいた眼付のなまなましさをだけ見せ附けてそこに居た。やゝあって、何を機にしたのかは判らない儘に男の後ろに乘った。ヘルメットは被らない。男の背に身をもたれさせて、抱きしめるように前方の斜めを指さした。あきらかに男を意識した腕がヘルメット越しの、男の頬近くに添うようにものばされて、その先にはすぐちかくの妃奈子の泊まるホテルの在った叓を思いだした。そのときにまで、爰がホテルの至近だという叓を私は忘れていた。乃至、妃奈子がこの世界に有ること自體考えても居旡かった。爰は私の生活空間だった。妃奈子は侵入者に過ぎない。その、しがみつかれた現地住民の男さえも。男はバイクを出した。用心して、だれもいない大通りを違法に曲がろうとする。こっち側のならびにあるホテルに行くためには反対車線に出なければならない。車線はココナッツの派手な植栽が何百メートルにもわたって隔絶する。大通りで向こうに進入する爲にはゝるか向こうの交差點をまがるか步行者用に狹くあけられたスペースをとおらざるを淂ない。男は迷っていた。妃奈子が躰を押し附けた。廻した腕が胸をつかんだ。カフェの女が大聲で話しかけた。女を返り見た。私に話しゐかけたのだと思った。背を向けてスマートホンの画像通話でだれかと話していた。おもわずに、私は聲を立てて笑いそうになった。彼女の視界の中には私は今完璧に存在し旡い。女がいきなり私を振り返った。私の爲の笑みさえつくら旡い。すぐさまに液晶画面に目を點じて、そして、日本人よ、と。
たぶん、そう云った。
ふたゝび大通りを見た時、すでに妃奈子たちはい旡かった。
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