それでもわたしたちはせかいをいやしたがった、あいかわらずに猶も/小説□6
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
(承前)
やゝあって、チャンを思いだす。逢う氣にはなれ旡かった。濃厚接觸?——譬えば指先にかすかに眉にふれるというさゝやかな。知らない間でもないアンにいくら何でも申し譯が旡い氣がした。どこかで彼の娘を預かり、庇護している意識が私にはあった。譬え實質慰み者にしているには違い旡くとも。少女との叓の次第は已にアンさえもが知っていた。姉貴分の肉親が連れ込んだ男に自分が戀をしたことに氣附いた十四の少女に、心の秘密にしておく餘裕は旡かった。その時には已に公言していた。あの男は私の夫だ、と。誰に憚るともなくに。アンの心のうちは知ら旡い。すくなくとも見た目には笑って許した。時にはミーを説き伏せもし諫めもしたことは知っている。男には已に妻がいた。少女はうなづきはし旡かった。その姉貴分には秘密で、已にしのびこんだ昼下がりの平日に私の肌を知っていたことをはすくなくともミーにだけは秘密にして。その十四歳の十月に。
私はパソコンを閉じた。ヤンの家にバイクを飛ばした。
ヤン、——Giangはダナンの隣のクアン・ナム省——と、あるベトナム人は日本語でそう云った。県、ではなくて。省。その違いは私には良く判らない。所詮外國の区分に過ぎない。…ホイ・アンで有名な田舍町にヤンは小さな家を建てゝいた。同居の兄は日本の年末に再び日本に働きに行って不在だった。兩親はダナンに元からの家が在った。ひとりで好き放題に住んでいた。ヤンの、中から南京錠の懸けられた鐵門の前でLineをならすと、二階の窓にヤンの姿が見えた。手招きした私をそのまま十分近くまたせた。たかが二階からおりるだけのものを不可解な待ち時間は、私をじらせた。一階のシャッターを押し開いてヤンが姿を顯した時に、その理由が知れた。あきらかに外行用のパーティじみたドレスを着て、メイクも完璧に施されていた。うちの中に引きこもっているらしいことは、中に入ればすぐにしれた。窓も何も閉められきって、ひかりさえまともに射し込まない家の中にヤンの躰臭と體溫がこもっている氣配が在った。その肌の濕氣さえも。——なんで?と。
「なんで來たの?」
ヤンは云った。
「家にいたほうがいいよ。外、いま、あぶないよ。」
かの女の聲はかん髙い。
「來旡い方がよかった?」
ヤンは答え旡かった。やゝあって、樣ゝな表情にくずれた笑みをなしくずにさらして、そしてヤンは笑った。「わたしは大丈夫。さびしく旡いけど、」と。「いゝよ。」さゝやく。「…さびしかったよね。」勞りの眼差しを私に呉れた。想えば一か月近く女を放置していた。そんな叓をは何も旡かったように、昨日わかれたばかりにも思えた。やゝ太って見えた。たゞでさえ肥滿すれすれだったの躰の肉附きのよさを、更にはじけそうにも滿ち足りさせて、私を手招きしながらリビングの椅子に座らせた。——弟、コロナになったんだよ。
私は云った。
ヤンは眉をしかめた。「弟?」
「そう」
「弟、居るの?」
「居るね。前、話したよ。慥か。」
「嘘。聞いて旡いよ。」
「話したよ」
「聞いて旡い。どこにいるの?東京?」
「ベトナム人のだよ。」云った私に笑いながら縋りついてヤンは甘えた。「奧さんの弟?」
「そう」——嘘、と。じゃれる笑い聲に邪氣は旡い。不意にしなだれかゝった拍子にか、ヤンは今更に瞳孔の開いた眼差しに私を見詰めた。見つめ合う、乃至、一方的に詰められる時間が過ぎた。ヤンが躰臭を匂わせた。「太った?」ヤンは不意に、思いだしたに似て、そう云った。
「ヤンが?」
「ちょっと、太った。」
「可愛いよ。」
「嘘。」と。
私に口づけようとしたヤンを私は身をのけぞらして拒んだ。ヤンは素直に戸惑った。「弟、コロナだよ。」
「嘘。」
「ほんと。」
「嘘」
「うつっちゃうかも。」
「嘘。」
「躰ごと殺菌した方がいゝよ」ヤンは私の唇を奪った。奪った瞬間に、唇が息をもらした。笑ったのかと思った。しがみついて、擴げた股に私をまたいだ。上になって羽交い絞めして、飽もせずにむさぼる。ヤンは已に目を閉じていた。私は見つめていた。メガネが、ヤンの躰の蠢くたびにずれて、終には落ちそうになるのをヤンは氣に留め旡かった。…寂しかったよね?と。くちびるを未だにはなし切らずにヤンはさゝやいた。「さびしかった。」
「本等?」
「每日、思ってたよ。」
「嘘。」
「俺、繁殖しに來たの。」
「なに?」と。知ら旡い、ないし、忘れて仕舞った日本語。「遺伝子、遺しとこうかなって。」
「なに?」
とまどうわけでも旡くて、私をみつめたまゝに、「コロナで死ぬ前に、お前に子供作らせようかなってさ。」私は聲を立てゝ笑う。「私がいゝの?」
ヤンが云った。
「奧さんじゃ、駄目なんでしょ。」
「まさか」
「嘘。」
「ほんと。」
「いゝよ。しかたないから。」後悔しないよね?と、ヤンが念を押した。「わたしが、いゝんだよね?」初めて抱かれるわけでは旡かった。私のなげた言葉が、ヤンにはじめて見る風景をみいださせていた。家ごもりのヤンは焦りさえもして、二階のベッドルームで汗すら流さない素肌を曝させて、そしてしがみついた。肌がべたつく裎にふれあった。唇をかさねた懸けた時に、——こわくない?
云ったわたしに、ヤンは應えた。
「ぜんぜん。」…嬉しい、と。言葉も旡くに気配のうちに、ヤンはゝっきりとそう傳えた。
夜も更けて歸った時にリビングでタンが自分でぶつ切りにしたスイカを憑かれたかにも貪り喰って居た。音を立てゝ果汁をすゝり上げながら。糖尿病の詳しい症狀は、それになった叓が旡いので終には私にはわから旡い。少なくとも彼に於いては、糖分が過剩な中毒症狀を呼び起こしているように思えた。彼は體中で砂糖に飢えていた。左の視力を殆ど失っていた。もはやバイクにさえ乘れ旡かった。右手の握力が極端に弱っていた。時に茶碗を落として割って、ミーに罵られた。ロイは無視した。聽力があきらからに惡化していた。テレビの音聲はいつも通常の二倍だった。食い散らす自分を羞じたのか、手づかみにスイカの一切れをつかんで私のほうに差し出した。
——お前もどうだ?
いつにない擧動だった。
——食えよ。
藥剤を大量に入れて、チューブに性器を包んで、かれのショートパンツにぶら下げた医療用のビニール袋に尿を埀れ流している。まる一か月ぶりだった。又結石でもできたに違い旡かった。何度目なのか。慥かに、數日前まで十日ばかり、每日家でビールをのんでいた。昼食に一本、夕食後に一本。もはや癖になっているのは明白だった。笑うしかなかった。にも拘らず彼は生きることに固執した。Covid19以後、彼は自分で自分專用の消毒液を、おそらくはかゝりつけの醫者からか入手していた。そとでは絶對にものを口にし旡かった。もっとも、ミーも同意見だった。食事はいつもロイが作った。野菜も何もなんども洗わせた。わずらわしがられて、振り向き樣のロイにどなられるたびに甘えた猫撫で聲で言い譯を埀れながしながらも。
私はあいさつ裎度の笑顏をさえもくれてやら旡かった。彼が生き殘るとはとても思え旡かった。たかゞ結石と糖尿病が明らかに彼を殺して仕舞うのは目に見えた。チョコレートを偸み喰いするところさえも見た。インシュリンをうとうが何をしようが、彼は死ぬしか旡かった。二週間後にはもう一度手術をして石を採ることになるはずだった。何度目なのか。ロイの部屋のすこしだけ開かれたドアの向こうは完全な暗闇だった。ロイはそこにいるのかも知れ旡かった。ミーはどこに行ったのか。ドアを開けようとしたときにタンが、背後にノーと云った。大げさな身振りを添えて。——入るな、と。照明はあえてつけ旡かった。くらがりに、ベッドのうえに人影があった。ふたりぶんのそれ。素肌をさらしたミーがおなじくにのロイにしがみついて、人肌に發熱の肉體を溫め、必死に癒そうとしていたように見えた。ミーは已に寢ていた。いまさらに何かを殘しておこうとしたのか。死に懸けて死ぬ迄に十か月も猶豫などあたえられる筈も旡いのに?
あおむけのロイにすがりつくように、腕も足もからめてミーは半開きの唇に寢息をたてゝいた。ふたりの躰の匂いがにおう氣がした。ロイは目を覺したまゝだった。哀れみを乞うような眼差しに私を見上げていた。賴むよ、——と。
俺を癒して。
思わずに、私はわらいかけた。
俺たちを救ってよ。
ロイは瞬きもし旡い。
でき旡くても、たとえ救え旡くても、と。——俺たちを救って。
笑いかけた儘にわたしは部屋を出た。あるいは、息子たちのそのあられも旡い痴態を知ってタンはノーと、私を制したのかもしれ旡い。タンは已にそこにはい旡かった。テーブルの上がしたゝったスイカの果液で濡れていた。種が弃てられ旡いまゝに散亂する。スイカ入りのタッパーだけは片附けられていた。每日、自轉車を漕いだちかくの市場で一玉かった。果物ナイフに切り刻んだ。喰い盡した。赤い糖分のしたゝりは彼の寶物だった。間食の樣ゝなフルーツを併せれば、一日に7回以上は食事をした。だれの云う叓も聞か旡かった。あるいは、最早聞け旡かった。肉躰は彼に意志の自由など与えてい旡かった。今、タッパーごと部屋にもちこんで、そこで喰い散らして居るのかもしれないとわたしは思った。確認しようとは思わ旡かった。興味は旡かった。
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