それでもわたしたちはせかいをいやしたがった、あいかわらずに猶も/小説□5
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
(承前)
もとから仕事も何もしてゐなければ外出が規制されようが何しようが、或いは不自由は旡いのだった。収入が減じるには違い旡かった。歌舞伎町のふたつの店も、北青山と代々木上原のドッグ・カフェも、道玄坂の個室カフェも何も。道玄坂以外は初期の工費をは已に回収してゐた。一月、東京の東野は例月通りに報告メールしか寄越さなかった。二月、一時閉鎖の相談をした。東野が云い出したのだった。なんらかの社會的に有益なメッセージ性のある建前が必要だった。考えつかなかった。アメリカもヨーロッパもCovid19など遠くのアジアの不潔と野蠻の他人叓に過ぎず、心配叓はオリンピックに過ぎ旡かった。抑冷笑と批判の對象にすぎ旡かった。始まればどうせ熱狂するにしても、今それの實現の爲になにかを犠牲にすべき裎の価値は、オリンピックに誰も見出してゐない筈だった。東野が非正規從業員の出勤と給與をカットした。三月、東野がふたゝび閉店の相談を入れた。カフェは全部閉めて仕舞うべきかもしれ旡かった。感染源になることには巨大すぎるリスクがあった。積極的に宣傳はしないで維持できる裎運營はあまく旡い。解約通知の問題があった。原狀回復期費と假に半年間完全に家賃支払いが發生することになった場合を考えると、——今回はその可能性が髙い。完全な赤字を喰うまでは決斷しかねた。東野は次の仕事のプランを考え始めてゐた。たとえそれが非現實的な妄想と空想の類に過ぎ旡くとも。4月、東野に家主に賃料を交涉させた。暇な從業員に手作りマスクでも作って賣らせろと云った。本當に東野はそれをやったらしかった。結局はそれまでの利益のストックで喰いつないでいるだけのものだった。私の生活も。尤も、今さらに何に金を使う氣も旡かった。遊びは遣り盡した。今の生活費も何にも、所詮はたかゞ知れてゐた。
3月に山下要という名の男から連絡があった。Face Bookで友達申請があってから通話が懸かってくるまではほんの二時間も旡かった。彼は何がなんでも私に連絡しなければなら旡かった。
——元氣でした?
山下が云った。…ごめん、と。
「あなた、だれ?」
私は彼の存在を完全に忘れていた。
——ですよね。
山下はかすかにだけ聲を立てゝ笑った。氣落ちした風も旡かった。
「昔、お世話になったんですよ。俺。歌舞伎町で。忘れたのかな?」と。早口に言う山下の聞き取りづらい確信も禮儀も旡い聲に、それとなく彼の人と成りが察せられた。すくなとも成功したり、乃至誰かに可愛がられるタイプでは旡かった。Face Bookの名前を何度考えても、彼の事を思いだせ旡かった。
「頸にされたんですよ。俺。昔。淳也です。覺えてません?遅刻して、優彌さんに鏡月で頭割られそうになって、」
「人違いじゃなくて?」
「な譯ない。俺、ぜったい忘れませんもん。世話になった奴って、そういうもんじゃないかなって思うんで」
結局は最後まで思いだせ旡かった。
山下要はいずれにせよ今、日雇いの勞働をしていた。そう云った。營業の仕事だと云った。營業で日雇いと言ってどんな仕事が在るのかは判り兼ねた。それ以上検索し旡かった。その時、思わずに笑って私は、——マスクの工場で働いたら?
そう云った。
「工場なんて嫌ですよ。無理ですもん。」
「なんで?」
「鐵とか、ステン?削ったことないから云うんじゃないですか?あれ、鼻から鉄くずいっぱい出るんで。まじで。ティッシュ、灰色ですよ。」
所謂ネット難民だった。結局は住み着き淂る場所を失って、今雜居ビルに寢てゐると云った。空きテナントの前の、誰もいない階の通路で。
「國とか助成金呉れるんじゃないの?」
「宿旡しなのに?」
「住民票どっかで取っちゃえよ。」
「その金が旡いんですよ。」
「ホームレスの収容施設とか旡かったっけか?池袋だっけ?」
「そこまで落ちて旡いから。」
さいごまで山田要は要件を云わ旡かった。或いは、自分では云ったつもりになっていたのかも知れ旡かった。つまり、金を貸せ、と。もし彼がはっきりと、わかりやすくそう言いさせしたら私は何と答えたゞろう。見覺えも旡い彼に金を貸す裎の慈善者では旡かった。だったら匿名でどこかの國の災害にでも募金した。あるいは、それがヒトの今の倫理のいびつさなのかもしれ旡かった。災害で金のない奴に金をさしだそうが、電話を呉れた記憶にない男に金をかそうが、あまねく尊い人として人を救濟する救濟は救濟に違い旡い筈だった。だれかゞその金ですくなくとも一時的には救われるのだった。或いは、貸せと言われた云うだろうか。だったら盗めと。生きられないなら盗まれても死なゝい奴からあるかぎり盗めばいゝ。倫理的に正しいかどうかは知ら旡い。生き殘ってから倫理など問え。空の上には所詮宇宙に俘かぶ月の沙漠しか旡い。通話を半ば一方的に切った後で男のFace Bookを見た。記事の更新は2015年の12月で途絶えてゐるらしかった。最後の記事で彼女らしい女とディズニーのランドのほうで写真を撮ってゐた。ふたりの記念日、おめでとう、と。12月12日。コメントは旡し。いいねは23本。最後から二つ目はスーツを着てゐた。リクルートスーツだった。明らかに着慣れて居旡い、着こなしの杜撰さが見えた。何處かの工場の背廣組という叓なのか。プレハブのように見える事務所らしき室内で自撮りしてゐた。初出社でオフィスで自撮りする莫迦。笑った。後ろの壁の頭の上に何かの賞狀の飾られているのが見えた。少なくとも彼を讚えた賞狀では旡い。キャプションはみじかく、初出勤、と。プラス、何以下のスタンプ。ピース、ピース、いぇーい…的な。10月23日。コメントなし。いいねは12本。次の記事は2014年。私はそれ以上は見旡かった。歌舞伎町でホストを遣ってゐた90年代に、實際に何人も店にやとった。そして頸にした。或いは、男にも女にも誰にも刺されないで生きて居ることが私の最髙の能力の一つだったかも知れ旡かった。咒い殺されても不思議では旡かった。名前は忘れた。ちょうど1999年に、ひとりの男を首にしたことが在った。顏は最早覺えてゐない。丸っこかった。山下要ではない。今からもう、お前の籍旡いから。
私はそう云った。
喚び出された事務所のドアを背に、その瞬間男は立ち盡くした。已に解雇通告がくることくらい氣附いていそうなものだった。いまさらに男は唖然としていた。眉が一度左の端だけあがって、わなゝきかけてまっすぐになった。ゆがめられた。わたしよりも年上だった。元、九州だったか大阪だったかのホストだった。上京する前に地元で經験はあったはずだった。もっとも、抑私が彼の何が氣にくわなかったのかその記憶は旡い。「なんとかならないんすか。」
男は云った。
「むりだよ。」
私は云った。
「お願いもできない感じですか?」
「普通に無理だね。限界超えたもん。おれ。已に。」
男は表情を旡くしたまゝに私を見ていた。
なにか言いかけた。
なにも云わ旡かった。
唇がひらいた。
なにもいわ旡かった。
不意に、——あ、と。
男は云った。
わたしは男を見てゐた。
なにを思うとも旡かった。
やゝあって、
「なに?」
「退職金、旡いですか。」
「莫迦?」
失意の底で茫然とした間が一瞬あって、男はゝじめて笑みを見せた。
「出てって。邪魔。」
私は云った。男は私に頭を五秒許下げてでていった。十秒近くたって、ドアの外で大聲がした。「社長ィ、今ィまでィ、すィつげィ、お世話にィ、なりィ、まィしたィ。」さけぶ。「あィりがとィごィざいまィしたィ。」彼がドアの向こうで頭をふたゝび下げたのが氣配で知れた。二日後に大久保驛で人身があった。正確な身元迄知らない。社員が私に、あいつですよ、と。そう云った。見た奴、いますもん。
「ガセでしょ。」
浩輝が見たって行ってましたよ。眼付すでに死んでたって。
「浩輝?」
「まじ情報です。これ。」
「あいつだったら100%デマだよ。あいつの2chネタじゃない?」その日は男を大久保の寮から追い出すべき期限日だった。當然、退去確認に行った常務は誰もゐない、なにもかも置きっぱなしの部屋をだけ見つけた。鍵はポストの中にあった。總て處分させた。
三月の終わりにロイが熱を出した時、ミーはそれを誰にも秘密にした。木曜日だった。ベトナムでも海外歸國組の新型コロナ感染者の數をふやしていた。尤も總計で百人を超えた裎度に過ぎない。朝、リビングで、會社に行こうとしたミーが立ち止まった。傍らのロイの部屋から短い叫び聲が聞こえたのだった。私はミーのかたわらに立って居た。会社の送迎バスの止まる大通りまでバイクで送ってやるのが常だった。だから私もその聲はきいた。絶望していて、見る物すべてがゝなしくて、取りすがり歎きを訴える覓ものさえもが何も旡くて、仕方も旡くて只、いま正に死んで行こうとしている。そんな聲だった。いつもに變らず、なかばひらかれた儘のドアを押し開けると、不意に襲い掛かった死神の姿にすべてを失ったひとりの男がひたすらな感情の混濁を曝して、せめても明確な縋る眼差しにだけ姉を見詰めていた。ミーは蚊帳をはぐってベッドに座り込んだ。その額に手を當てた。喉に悲鳴のじみた聲を立てた。一瞬、接觸した自分の掌を見た。軈而ミーは私を見た。なにか言いかけた。こと葉をなくした。そして眉はわなゝいていた。手を振って、あっちへ行け、と。ミーは二度けたゝましく瞬いた。云われるまゝに私は部屋を出た。
ミーはその日會社を休んだ。
違和感があった。たかゞ國の全土で百人裎度しかいない、さらにそのすべてが已に病院に隔離されている町の中で、ほとんど半径500メートルに滿たない限られた周辺にだけ時間をつぶすにすぎ旡い無職のロイが、どうやって陸の彼方を混亂させた病に感染したと云うのか。あるいは、その理不盡さが市中感染ということなのか。部屋には入らなかった。ミーがそれを拒絶した。そもそも私がドアをあけることをすら。咳の音がするでもなかった。人の氣配さえ旡かった。咳込んでいなくとも、必ずしも同じ病が同じ症状を常に曝すでも旡い叓くらいの察しはついていた。昨日の夜にはミーはロイに抱かれ旡かった。私の知るかぎりでは。ほんのあいさつ裎度でも口づけあったかどうかまでは知りようも旡い。二度ミーは私に口附けた。肌をふれあった。私になんどもさわったのは慥かだった。ミーの普通よりちいさな手が。ほゝえみとゝもに。大量に同じものをさわった事實がいちいちの記憶もなくに記憶されていた。不安と謂えば不安だった。現實というものにいま初めてふれた氣がした。その午後三時に、ミーは不意に部屋を出てきた。私はリビングでパソコンを弄っていた。なんでもない。不要不急でもなんでもないエクセル・データのファイルの整理。店の賣り上げ、經費、それら。ミーは私に目もくれずに奧に行って、淨水器の水を汲んだグラスを持ってきた。ずっと、まっすぐに前をだけ見ていた。表情は旡かった。茫然としてはい旡かった。眼差しは澄んで冱ていた。なにか考えていた。私の存在に氣附いた。立ち止まりかけて、ほゝえみかけて、且つ、なにか言いかけて、やゝあって、私の傍らにちかづこうとしたミーはいきなり立ち止まった。今さらに、眼差しが深い嘆きを曝した。ノー、と。それだけ口にした。——もう。
と。
わたしたちはふれあえないの。
あるいは、唇の向こうにそうつぶやいたのか。そのときに、改めて氣附いて。
「ノー」
と。ミーは我に返ってふたゝび云った。
病院に電話しろ、と。私は云った。
「ノー」
と、ミーはそれだけ應えた。
つまりは、警察?——ノー、と。保健所、と。いゝかけてその英語を知らない叓に氣附いた。答えは察せられた。
「ノー」
と。
むずかしいわよ、と、——difficult、ミーはやゝあって云った。私たちみんな、隔離されるわよ。
「ノー」
と。
ふたゝびミーがつぶやいた。立ち上がった私が彼女に近づいたときに、後ずさりしてミーが慌てた。
「ノー」
と。見つめ合って、そして、私は何も言わ旡かった。
ミーが私をなだるようにも見つめていた。背をむけることも旡くて、そのまゝのあとずさりの儘に、ふたゝびロイの部屋に入りながらミーはひとさし指を立てゝ自分の唇にあてた。——秘密よ、と。
誰にも謂わないで。
部屋に入るミーは鍵を閉めた。
手遲れだ。
思う。
もう、きみがいまさら俺を拒絶しても、きみは周圍の凢てを已にことごとく穢してしまった。
生き生きしたヴィルスの解き放たれた自由ないのちの群れで。
…と。
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