それでもわたしたちはせかいをいやしたがった、あいかわらずに猶も/小説□3



以下、一部に暴力的な描写を含みます。

ご了承の上お読み進めください。





(承前)

ニー、——Nhi、彼女の豐滿な、肥滿しかけた死軆の頭を割られた血まみれがドランゴン・ブリッジという橋をすぎた交差点の大通りの眞ん中になげすてられていたのは四月の初め、舊曆の彌生、イタリアとスペインで事態が凄慘さを描き始めてもう何日も過ぎたころだった。何萬もの死者。數で見れば數に過ぎない。そのひとりのひとりひとりのかけがえも旡い命に何かを思えと言われようが、見ず知らずのひとりの何萬人の中のひとりに何をか思い淂る可能性など何も無い。きれいな迄になにも。他人の死。あきらかな。あからさまな。慥か四月の五日。

ニーの死體を見つけた早朝に、その、恐らく六時前。明けの比。發見者の名前も知らないトラックの運轉手は寫眞を撮ってSNSにアップした。多分。ベトナムのSNS、おそらくはZaloに?後にミーとチャンがそれぞれに私に見せた。その画像。俯瞰でとられたピンク色のパーティドレスのピンクを寧ろ黑く染めた血の色は紅。未だ薄暗い明けぼのゝにカメラのライトが照らし出した何か隱し撮りじみた氣配の陰濕。ミーが嘲ることを予測した。出勤前の朝。むしろミーは繊細な歎きを見せた。だれであっても死は死だった。悲しい。こんなときにも、と。Covid19に何のかゝわりも旡くて死んで仕舞えば、何かそれだけで場違いにさえ見えて、或いは私は眉をひそめながらに笑いかけたのを隱す。無關係な死というのならば一月のはじめのアン、——Anhの癌による死さえもがそうだったには違い旡い。あの頃には已に武漢がヴィルスに汚染され始めていた筈だった。人工ヴィルスだと誰かゞ云っていた。インターネットお得意の。陰謀。陰謀説をひけらかして陰謀する。陰謀の果てに人が死ぬ。時には。私は何処かで何かを陰謀する日常を過ごす。陰謀説を陰謀した陰謀のおそらく50%以上は陰謀されてさえい旡かった。なぜなら、陰謀した彼かかの女にとっては紛れもない事實の隱されて在った叓の發見に違い旡かったから筈だから。ユーレカ、と。明日トイレットぺーパーは消滅し、中國人はたくらみ、ぬるま湯には殺菌力があり、アメリカ政府は宇宙人と結託して、北朝鮮の首領は死んで、いまだに日本人は大陸と半島の占領をもくろんでいる。アンは癌で死んだ。それは事實だった。ニーの死體の發見された日、至近距離に寄り添うたチャンの髮の毛が匂って居たことにふたゝび氣附く。その時、褐色の肌の腕の胸元に差し出されたていた画面から顏を上げると、うつむくチャンの氣配に違和感が在った。それが何かわからなかった。やゝあってかの女が顏を上げた時、チャンの目に涙があふれているのを見た。アンの後妻のニーを、誰よりも憎み軽蔑していたのはチャンだった筈だった。其の時、その昼下がり、何の都合か私が買って遣ったバイクには乗らずに自轉車でヒエンの家に迄きた水曜日の午前に、私以外に誰も起きて居なかった。庭にブーゲンビリアが相變らずの濃い紫の花を、——乃至、花にまがう紅葉の色を、そこに曝し続けて居た筈だった。慰めるともなくて、チャンの頭をなぜた。唇をまぶたに添わせた。撒かれた水に水びたしの庭の黑ずんだ濕りが日の下に色を失って在る。


東野克己という名の、東京の店の責任者が私にメッセージを寄こした三月の初めに、——売上半減以下。私は、——やばいです。海邊にミーを誘った。「給料、カットしてもいゝですか?」その三月の半ばの日曜日には「やばいの?」ダナン市には外出自粛勧告とでも謂うのか。「やばいですよ。已に。實際、ほら」會社も店も何もかもが閉められていた。ミーの「今、かき入れ時じゃないですか。本來。」會社は閉められない。つまりは「關係ないじゃん。カフェでしょ」物流の會社だからということなのか。考えれば「パーティ、あるんですよ。結構、」今や物流はライフラインに他ならない。あるいは「任せるよ。」水よりも電氣よりも重要な「もうかなり」生存の根元、「存續の危機なんですよね。…なんか」ミーは外出を嫌がった。「ほんと、今年どうなるんですかね。」外に出て、僅かでもある可能性に觸れる叓への「長引くんじゃない?」拒否。私には「春に成ったら減るでしょ。」臆病にさえ思えたベトナムの「もう春でしょ。」彼等彼女らの神經質な「まだ肌寒い…」當然のものかも知れない。あるいは「でもインドネシアとか、さ」低パーセンテージは卽ちゼロではない叓をだけ「熱帯系もやられて居るじゃん。」意味する。そうならば「そうなんですか?」すねた顏をした。ミーは「知らない?だったらさ」…ね?「なんか、言ってたな。そっち、」どうして、わたしを連れ出したがるの?危険な場所に。うちにいて「夏でも關係ないでしょ」ゆっくりすればいゝじゃない、だって「大丈夫ですか?暴動とか。」已に半年前に仕事を首になっていたロイは「何の?」早朝に「差別とか外国人排斥とか」

「まさか。」

「いや、わからないですよ。中國人がまき散らしたとかなんとか。アジア人差別?みたいな?結局、親兄弟死んじゃった人とかいるのは事實でしょ。遺恨、あるんじゃないですか。見えない敵だし。」

「こっちは死者でゝないね。まだ。」

「マジで?暑いから?」

「医療が優れてるからとか?敏腕ぞろい。裝置最先端。」

「まさか。所詮アジアの極貧國でしょ。」

「アジアの貧國人にリンチ喰らうよ。」

「事實じゃないですか。でも、生活環境穢から耐性あるんじゃないですか。」

「じゃ、日本も汚物塗れにしろよ。」

「衞生の爲に?それ、やばい。」…店、閉めちゃうことも視野に入れてくださいよ、と。東野は云った。「閉める?」實際、可能性あると思う。…と、「頃合い見て、店閉めて。幸い元は取っちゃってるんで、出店の時の。全店トータルでは。傷でないうちにやめるか売るかして、次、あれ、5Gのなんかやりません?新しい時代、思いっきり來ますよ。怒涛のいきおいで。コロナ以後に。コロナがこじ開けた人類の未來一氣に到來的な。」聲を立てゝ東野は笑った。

海に人氣は無かった。韓國人も中國人もなにもかにも入國規制がゝかって、さらには國内の移動自粛の勸告さえおりれば、——勸告とはこの國では實質強制を意味する。觀光街はあらためてその鄙びた素顏をさらす。そこはもとの小さな田舎町にすぎない。居住人口などたかが知れている。開發途中の更地が至る所にありふれた現狀は、結局はその程度の人口しかないということだ。午前の終わり近くに、背後の湾岸道路にバイクの騒音も車の、バスのガソリンの匂いも立たなければ、海は今更に波の音だけを耳にふれさせて、変わらずの潮の匂いを充滿させた。

鳥が飛ぶ。


ハオ、——Hauの口にもてあそぶに任せながら頭をなぜて、「どうなると思う?」

私は云った。

「なに?」

くわえた儘にその男がさゝやく。

「これから。世界って。」

ハオは眼差しでだけ笑う。

…三月。


アンが死んだときに、チャンは淚を見せなかった。肺から轉移したに違いない癌はもはや手の施しようも旡かった。病院がそう云ったのか、この國の流儀なのか。チャンかアンが賴み込んだのか。それは知らない。最後の一週間ばかりを自宅の一階の、彼の父親の寢室に運びこまれた醫療ベッドの上で過ごした。父親のカン、——Canhは九十歳を超えていた。家族のだれもゝはやその實年齢を知ら旡かった。三人の息子のもうひとり、タンは入院していた。糖尿病と尿結石のせいだった。結石は已に癖に成っていた。三度目だった。每日ビールを飲んだ。量をのめるわけでは旡かった。缶をふたつ、濕らす程度をこれ見よがしにも大げさに身振り、喉をならし、呑んだ後に息を立て、さわぎなら飮むのが常だった。チキンはまるで酒豪にみえた。もはやミーの同情さえも淂られ旡かった。アンの肺癌というのは私の推測に過ぎ旡い。彼はチェーンスモーカーだった。いずれにせよ知った叓では旡い。娘のチャンが看病に当たった。おそらく小學校以上を出てゐ旡い。理由は知ら旡い。暗い、鋭い眼差しを曝した。褐色の肌が日差しの下にも鮮やかだった。白い肌が尊ばれるこの國で少女はそれを氣に懸ける風も旡かった。ミーと背丈は變ら旡い。瘦せて、からだの曲線をだけもはや原始的に見えるほどに放逸にも描かせた。女らしいというよりはヒト種の雌。或いは美しかった。深い翳りを見せつけながら眼差しはその實なんの苦しみを咬むでも旡い。あるいはかの女にも苦しみは在ったかもしれ旡い。實母は幼いころにアンと離婚した。サイゴンに行ったとミーが云った。今どこにいるかは知ら旡い。イスラエルか日本で働いている可能性さえあった。すくなくともパプアニューギニア在住の野鳥研究家が森でCovid19に感染する程度の可能性においては。離別はおそらく六歳くらいの時か。母親違いの妹は、アンと同居しない賃貸のあばらやに母親と暮らして、おそらく十二歳程度には見えた。二日に一回母親のニーに伴われて顏を出した。かの女も離婚していたのか。それとも抑ゝ入籍していたのか否か。私は知らない。興味も旡かった。殺される前のニーは日に日にやせ衰えて行くアンに、大げさな歎きの聲を上げた。演戯じみた。私には何かのアピールにしか見え旡かった。或いは自分自身にアピールしたのか。いま正に歎きのあること。そしてその深さを。自分の擧動が暗にチャンを非難するをしか意味しないことにニーは氣付か旡かった。あなたの後見する病人は何故かくも悲慘の現狀を咬んでゐるのか。いつかミーにつれられてカンの家に見舞いに行ったときに、ロイは家の前でビールを飲んでいた。カンの末っ子のホアンと一緒に。皿から零れた料理で亂れた赤いプラスティックのテーブルが慘なまでに濡れて匂った。ビールの、茶色いソースの、ニョクマムの、それらの。ホアンが聲を立てゝ笑う。私に手を振った。お前も呑んで行けよ。そういったに違ない。慌てゝミーがホアンを諫めた。かたわらにロイはゝにかんだように笑った。なにも、と。想う。こんな美しい靑年が十歳近くも年上の、しかも血の半分繫がった女に何故固執するのか。あるいは心の闇とでもいうのか。乃至、そんな暗いものでさえも旡くて、間違いでもなんでもつながりあったからにはそうなってしまった、と、それだけの話なのか。一階のリビングのつけっぱなしのテレビの前でチャンはきれいな猫背に丸まって、スマートホンにひたすらメッセージを打ち込んでいた。字を書くより早く打ち込んでしまうに違い旡い。その、最近の持ち場を離れためずらしさに奧にニーが来ていることが知れた。私の來たことに氣付きながらにもチャンは顏を上げさえし旡かった。甲髙いニーの喚き聲が聞こえた。ミーがチャンに何か云った。チャンがなにか答えた。ミーは沉黙した。表情さえ變え旡かった。奧のドアをひらいてユエンが出てきた。うつむき、悲しげにさえ見えた。笑ってゐても悲し氣な顏の儘笑った。そういう骨格としか思え旡かった。かならずしも顏が似ているわけでも旡いのに。チャンもそうだった。陽氣なアンの骨格は女の骨格に移るとそうなってしまうのか。やさしい手つきだった。ドアを開けるユエンの手つきは。それと氣づかない程の、舞い降りた羽毛のふれるにも似た、そんな。なんでもかんでも大げさに音を立てて羞じない爰の人間たちには珍しく思えた。目が合った瞬間に微笑みかけてふたゝび、すぐさまに目を翳らせた。その心の動きは讀め旡かった。いずれにしても、本人にさえ理解できていない繊細がそこにあるに違い旡かった。私は目を逸らした。思い直したようにチャンが立ち上がって奥に行きかけた。いきなり立ち止まったチャンが、いまさらに私に振り向いて目配せをした。——好き、と。

あるいは。

——死ねよかす。

あるいは。

——じゃあね。

あるいは。

——頭の中がかゆいんだよね。

或いは。

——あした、死んでもいゝですか?

あるいは。

——カゝオ味の夏ミカン、食べたい。

あるいは。

——あしたね、と。その次の日に、慥かにこ一時間抜け出してチャンは、私しかいないミーの家で私を貪った。チャンの座ってゐた向かいの椅子にユエンは座り込んで、うなだれた。そのまゝにチャンのスマートホンを取るとゲームをし始める。悲しみ、絶望し、歎き、ふかいふかい悲嘆にだけこと葉をさえもうしなった、そんなうなだれた猫背のまゝに、少女はゲームの音を立てる。憚もなくに。熱狂のうちに。少女は画面の中の風景に没頭していたに違いない。

死んだとき、アンは柩の中で白い花にうずもれた。

柩のそとをさえ白い花にうずもれさせた。

花は、なにがなんでも白かった。

なぜ、そうなのだろう。私は想った。なぜ、死には華やいだ色彩が相応しくないのだろう。








Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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