それでもわたしたちはせかいをいやしたがった、あいかわらずに猶も/小説□1
以下、これから掲載するのは、要するに今回の covid 19 新型コロナを背景にした短めの小説です。あくまで予定外だったのですが。
4月の終わりに、三日くらいで書いたものです。
さまざまな物語が大きな流れを作って、みたいな。そういうものではなくて、どちらかといえば思い付きで書いた日記のような、そんな断片の集積になっています。
実は、本当はデッサン書きというか、枝葉を書き足したシノプシスというか、要するに書き込まえの未完成品なのですが、いや、これはこれでいいのかな、と。
そもそもデッサンというのはあくまでデッサンであって、未完成作品そのものとは又違うという事実もありますが。
今回、いろいろなことが見えてきたり見えなくなってきたりしていますが、言いたいことはなにもありません。問題が大きすぎるとか、見たことも無い風景の中にいるから、ではなくて、相変わらず同じことを繰り返しているどうしようもない既視感のほうが強すぎて。
もっとも、それとは別の事として。
亡くなった方を心から傷み、又、そのご冥福を心からお祈りします。そして闘病している方の克服を。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
それでもわたしたちはせかいをいやしたがった、あいかわらずに猶も
雫が玉散る。そのあやうさだけが張る。存在していたのはそれ。壞れ、散る。わずかにでも身動きをしたならば。隟旡く滋る樹木の葉のおびたゝしいみどりのうえの濡れたその色のきらめきの透明にかこまれて。取り圍んだ葉の露の群れはもはや四肢に微動だにも赦さ旡い。壞れる。或はなにかもが赦されていた。つゆのはかなのかゞやきの雫になって樣ゝにも一樣に玉散るのをさえ受け入れるのならば。あなたを叩き殺してあげよう。あなたがもしそうするというのならば。誰が壞しそして悅に入り淂るというのか。水滴の葉うえのふるえのあまりにもな繊細を。まよわずに私が叩き殺してあげよう。あなたを血に塗れさせ、生まれ、かつても猶も生きて在ったことそれ自躰を後悔するほどの制裁のうちに、と。
そう唇がさゝやいた。私のくちびるが。已にあなたを八つ裂いた殺戮の擧動の儛い亂れさせた雫は宙に玉散っていた。その時に。今まさに。血。知る、その手づからにはぎとった生首のあまりにも見馴れた顏、知った。——じかにはついに一度たりとも見たことさえもないくせに。知っていた。とはいえ冴えた月の夜の池のおもにでもあなたは私を見つめていた。あくまでも私に見つめられながらにもとさえも思うだにも旡くも目をひらく。
覺める。
夢、と。その、見られていた間には慥かに恠しいまでにもあざやかだった夢をなにかに思い合わせでもするべきだったのか。無理やりにでも象徴と兆しをさがして。遠い、かつは最早住み馴れた異國の朝に、わたしは眼を覺ましたには違い旡い。妻の代わりに抱いて寢た少女は傍らに素肌を曝して、靜かに。寢息をさえ立て旡い。明けを知りかけたゞけにすぎない曉の空のまどごしの光は朧にすぎて、空間は單に已に滅びたくらがりをとゞめるうす闇にすぎ旡い。ことごとくのものゝしずんだ色あいのうちにチャン、——Trangはいよいよあざやかにかの女の肌の色の褐色を曝していた。その種族。嘗てはアメリカ製の戰爭映画の中で、誰にも名も記憶され旡い中國人が演じてゐた。いまや私の故國では溢れかえりすぎて家畜以下の卑賤奴あつかいされているには違いない人間種の、そのひとつのかたち。ベトナムのダナン市から一歩だに出たことの旡い少女は背を向けたまゝに、あるいは私は彼女の生きて有る痕跡をさぐった。身をよじって背中に耳を附け、女の軆溫が在った。軆内にいきものゝ音響がひゞいた。耳をすますとも旡くきいておとにきく女の胸に鳴るいのち
その褐色の
肌のみしる夢
髮の匂いと髮の沁ませた汗が匂った。おもう。そめたのは雪か櫻か白かすむ
さかりの春に
ほろびの形見に
その日故國の咲き初めの櫻は花辨にふれた新種のヴィルスといつもの彌生に稀な雪を知ったと知った。
4月26日、時に土砂降りの雨が降った。ベトナム。ダナン市の街路樹が雨に搖れた。濡れた大氣は白濁した。ひくゝ霞がこもる。
濕氣。
肌にふれる。
或いは、女の。
ふれた肌の。
汗。
例えばチャンの。
ハオはもう私にはふれない。
ヤンはかの女の夢の中発情の中で何度もふれる。
沙羅の樹の花は白い。あの巨木。花。小さく、かつはおびたゞしい。
みどりの色の瑞ゝしさのすきまに竊に繁殖した惡しき黴にだにも似て。
——生きてた?
女が殊更に耳に唇を近づけて云った時、髮の毛の匂いがいまさらに鼻に入った。三月。「死んだ方がよかった?」さゝやく。
——流行りのコロナで?
笑った女の息が頬に、私は女の借りていたホテルの窓の陽ざしの斜めの「…それ、」侵入を見た。「ちょっと期待してたかも。」名前は妃奈子、姓は弓削。美しいには違いない。何の疾患かは知らない。顏を含めた半身のほとんどが内出血したように黑ずんでいた。「今年、あんまり暑くならないね。」ダナンの三月は已に夏である覓だった。もはや觀光客もい旡い海邊の町に日本の六月ほどの気溫しか旡いのは或いは歪にさえ思えた。「連絡くれない間に、なにしてたの?」
地球は滅びるのだろうか。少なくとも今の生物は。
「…ね、」
さゝやく女は明らかに私の腕に甘えたがっていた。距離にわずかで執拗な隔たりがあった。軈而すれすれの距離に躰を匂わせた。「濃厚接觸した?」
云った。
「どっかの女と。」
「お前以外の?」
女は笑わ旡かった。あえてすがるにもにた眼差しをくれるでも旡くわたしを纔かに見上げた。瞳孔はひらいた。眼差しが私の顏を見ていた。何を見ていないかのようにも、意図も旡くに擬態して。したいの?
そう思いだしたように私が云った時に、やゝあって女はさゝやいた。
「なにが?」
「濃厚接触」
「傍にいたいだけ」
「嘘」笑う私に遲れて、そして女の笑うのを見ている私の胸元にその指先を、音も旡くに至近距離に迄ちかづけて、そのまゝなにゝもふれない空中に停滞する指先は自分の目に見つめられた。
妃奈子二十代前半の筈だった。私に比べれば半分近くしか生きて居旡い。それによる幼さは感じ旡い。かつて風俗で荒稼ぎした。よく稼げたものだと思った。その、云って仕舞えばあまりにも個性的な容姿が、或いは男たちの欲望を歪に狂わせて、むしろその軆に群がらせたのかも知れ旡かった。慥かに、妃奈子の造形は匂う裎にも美しかった。妖艷ということ葉をあくまでも丁寧になぞった姿は、その半身をだけさながらに、凢て臺旡しにして穢れさせたかの黑濁のなまなましさが彌ゝにきわ立たせた。これ等のこと葉が差別的な叓をは知っている。厥がなんだというのか。妃奈子はなにもかもを普通ではない氣分にさせた。なにか、特別なことをいま、ふたりでしでかせとこと葉も旡くにさゝやいて、あたりさわりのない單なる茶飲み話さえ見たことのない風景に變えて仕舞った。妃奈子が笑い聲を一人勝手に鼻に立てた。女にその意図は旡かった。たゞ、素直だった。聲。
響きは乾いた。
玉散る雫。
「なんか、怖いね。」
渇く。
いつ、ベトナムに歸って来たの?
「…ふれあうの。」
さゝやく。
「大丈夫なんだろうけどさ、」と。云って女はひとりだけ笑む。
妃奈子は二十一、二で仕事を辭めた。それからベトナムに來て貯金という名の遣い切れなかった餘りでその日を暮らした。金が旡く成ればまた売ればよかった。肉躰はいまだに充分に商業價値をとゞめた。幸福にか未だその必要は旡かった。物価の格差は未だ絶望的な迄に甚だしかった。「二週間前」
「何で連絡し旡かったの?すぐに。俺に逢いに來たんでしょ。」
「はっきり言うよね。いつも。でも、連絡したじゃん。いま。」
「二週間も放置しといて?」
「放置されたい人じゃん?」
「時々だけな」
「自分の都合のいい時?」
「そうでもない。基本やさしいじゃん。俺。」
「隔離されてたから」聲を立てゝ笑うその「空港からさ、すぐに、…やばいよ。」妃奈子を見詰めた。わたしは「…穢れもの狀態。」勝手にベッドに横たわる。「わたし穢くてごめんねって。」笑いやまず、妃奈子は「ごめん、わたしこんなに穢いの?…的な、」赦すともなくて「びっくりする。なんか、…」かたわらに立った儘に「わたし黴菌だらけ?…みたいな。」見つめていた。
「わたしくさい?穢なすぎて。…って。」
やさしく。
…やさしかったけどね。
さゝやいた。
…みんな。
慥かに入國隔離の話は聞いていた。爰に來る外國人も。此処に歸った同國人も。聞いていたゞけで忘れてゐた。思えば大使館が注意勸告のメールを寄越していた。「何処にいたの?」
「軍隊?なんか、そういう隔離施設みたいな。——ニャチャンだよ。」
「いいね。泳いだ?」
「まさか。」みんな、と。
瞬いていゐた。つけまつげのまぶたが。
やさしいんだけどね、基本。
ひそめてゐた。妃奈子は。
聲を。
「でも、基本、いかめしいよね。これって、社會主義だから?」
「杜撰だろ?」
「日本よりまともかも。」多分ね、——笑い聲。
「日本なんか、なんにもやってないよ。」
こと葉の切れ目ごとに女は鼻に笑い聲を立てる。傍らに立った逆光のうちにくらんだ肌がむしろ白さをきわだゝせ、黑い肌が翳りの黑をも知る。その、引き裂かれたふたつの翳りのすべてをあざわらうように産毛だけがきらめく。タンクトップとショートパンツの女の肌は、その實明らかに肌寒さを知ってゐるとか思え旡い。まるで儀式の樣にも外國人はこゝでそんな姿を曝す。すくなとも日本の十月なみにはひやゝかな十二月と、一月にさえも。かつて町にあふれかえっていた韓國人たちはもはや此の街には居ない。あのタンクトップとショートパンツの彼等。いまゐるのは基本的には此処に栖憑いてゐる人間たちでしかない。東アジアの。あのタンクトップとショートパンツの。白人の。あのタンクトップとショートパンツの。稀に黑人の。あのタンクトップとショートパンツの。稀にいたインド系の住人たちは不思議にその姿を見かけなくなった。どこにも、ひとりだにも。どこへ行ったのか。三月の始、舊曆のきさらぎ。シンガポールの外國人勞働者の深剋な感染が話題になる前の話だった。誰もがそこは対策に成功した國だと思っていた。おしみなき稱贊さえも。
妃奈子が私のショートパンツの中に手を入れた。
眼差しは私を見つめ続けた。
「いる?」
云って、ふたたび笑った。
「何が?」
要る?——と。「お前が?」
「covid19」
とおく、みゝうちする。
聞き耳をたてる誰かの耳を慮ったかのようにも。
「ここ、コロナ、居る?」
と。
「繁殖してたりする?」
確認したら?
さゝやいた。女は聲をたてずにわらった。やゝあって口に含んだ。馴れていた。仕事でするようにもそれをして、女のしたいように私は任せた。その比、已に韓國で感染者數は爆發的な伸びを見せた。検査のし過ぎが感染を呼んでいるのだと日本人のだれもがそう嘲ってゐた。自分たちの成功を信じたがってゐた。
舌が好き放題に形を弄んだ。
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