後撰和歌集。卷第二十。慶賀歌。原文。
後撰和歌集。原文。
後撰倭謌集。底本『廿一代集第八』是大正十四年十月十四日印刷。同十八日發行。發行所太洋社。已上奧書。
又國謌大觀戰前版及江戸期印本『二十一代集』等一部參照。
後撰和歌集卷第二十
慶賀
女八のみこ元良のみこのために四十賀し侍けるに菊の花をかさしにおりて
藤原伊衡朝臣
よろつ代の霜にもかれぬしらきくをうしろやすくもかさしつるかな
典侍[デンジ/スケノナイシ]あきらけいこ[明子中納言敦忠女、作者部類、]父の宰相[敦忠于時參議]のために賀し侍けるに玄朝法師のもからきぬゝひてつかはしたりけれは
典侍あきらけいこ
雲わくるあまのはころもうちきてはきみかちとせにあはさらめやは
題しらす
太政大臣[貞信公]
ことしよりわかなにそへて老の世にうれしきことをつまんはかりそ[とそおもふイ]
のりあきらのみこ[章明三品彈正尹延喜皇子母兼輔女]かうふりしける日あそひし侍けるに右大臣これかれ歌よませ侍けるに
つらゆき
ことのねも竹もちとせの聲するは人のおもひに[もイ]かよふなりけり
賀のやうなることし侍ける所にて
よみ人しらす
もゝとせといはふを我はきゝなからおもふかためはあかすそ有ける
左大臣[實賴公]の家のおのこゝをんなこかうふりし裳着侍けるに
つらゆき
おほはらやをしほの山の小松はらはやこたかゝれ千世の陰見ん
人のかうふりする所にて藤の花をかさして
よみ人しらす
うちよする波の花こそ咲きにけれ千世まつかせや春になるらん
女のもとにつかはしける
きみかため松のちとせもつきぬへしこれよりまさん[るイ]神のよもかな
年星[ネンセウ]をこなふとて女檀越[ニヨタンヲチ]のもとよりすゝをかりて侍けれはくはへてつかはしける
ゆいせい法師[惟濟]
もゝとせにやそとせそへて[やとせをそへてイ]いのりく[けイ]る玉のしるしをきみ見さらめや
左大臣[實賴公]の家にけうそく心さしをくるとてくはへける
僧都仁敎
けうそくををさへてまさへよろつ代にはなのさかりをこゝろしつかに
今上[キンジヤウ]帥[ソチ]のみこときこえし時[村上天皇天慶六年十二月八日任太宰帥]太政大臣の家にわたりおはしましてかへらせ給ふ御をくり物に御本たてまつるとて
太政大臣[貞信公]
きみかためいはふこゝろのふかけれはひしりのみよのあとならへとそ
御返し
今上御製[村上天皇天慶九年四月廿八卽位]
をしへをくことたかはすはゆくすゑの道とをくともあとはまとはし
今上梅つほにおはしましし時たきゝこらせてたてまつり給ひける
やま人のこれるたきゝはきみかためおほくのとしをつまんとそおもふ
御返し
御製
としのかすつまんとすなるをもにゝはいとゝこつけをこりもそへなん
東宮の御前にくれ竹うへさせ給ひけるに[冷泉院にや天慶五年七月立太子村上第二]
きよたゝ[淸正]
きみかためうつしてうふるくれ竹にちよもこもれるこゝちこそすれ
院[朱雀院也]の殿上にて宮の御かたより碁盤いたさせ給ひけるこいしけのふたに
命婦いさきよいこ[淸子]
をのゝえのくちんもしらす君かよのつきんかきりはうちこゝろみよ
西四條のみこ[雅子内親王]の家の山[築山也]にて女四のみこ[勤子内親王延喜皇女]のもとに
右大臣
なみたてる松のみとりの枝わかすおりつゝちよをたれとかは見ん
十二月はかりに、かうふりする所にて
つらゆき
いはふことありと[てイ]なるへしけふなれととしのこなたに春もきにけり
哀傷歌
あつとしか身まかりにけるをまたきかてあつまより馬ををくりて侍けれは
左大臣[實賴公淸愼公也]
またしらぬ人もありける東路にわれもゆきてそすむへかりける
あにのふくにて一條にまかりて[時平、延喜九年四月薨卅九、小一條にや]
太政大臣[貞信公于時權中納言左兵衞督]
春の夜の夢のうちにもおもひきやきみなきやとを[にイ]ゆきて見んとは
返し
やと見れはねてもさめても戀しくてゆめうつゝともわかれさりけり
先帝おはしまさて世の中思ひ歎てつかはしける
三條右大臣
はかなくて世にふるよりはやましなのみやの草木とならましものを
返し
兼輔朝臣[イ中納言兼輔]
山しなの宮のくさ木と君ならはわれはしつくにぬるはかり也
時望[トキモチノ]朝臣身まかりてのちはて[一周忌也]の比ちかくなりて人のもとよりいかに思ふらんといひをこせたりけれは
ときもちの朝臣の妻
わかれにしほとをはてともおもほえすこひしきことのかきりなけれは
女四のみこの文の侍けるに書付て内侍のかみにをくり侍る
ける[左七字イニナシ]
[勤子内親王右大臣師輔公北方天慶元年十二月薨卅五]
右大臣
たねもなき花たにちらぬ宿もあるに[をイ]なとかかたみの子たになからん
返し
内侍のかみ
むすひおきしたねならねとも見ること[からイ]にいとゝしのふの草をつむかな
女四のみこの叓とふらひ侍とて
伊勢
こゝら世をきくかなかにもかなしきは人のなみたもつきやしぬらん
返し
よみ人しらす
きく人もあはれてふなるわかれにはいとゝなみたそつきせさりける
先帝[延喜]おはしまさて又のとしの正月一日にをくり侍ける
三條右大臣
いたつらにけふやくれなんあたらしきはるのはしはむかしなからに
返し
兼輔朝臣
なくなみたふりにし年の衣手はあたらしきにもかはらさりけり
かさねてつかはしける
ひとのよのおもひにかなふものならはわか身はきみにをくれましやは
女[めイ]の身まかりてのちすみ侍ける所のかへにかの侍ける時かきつけて侍ける手を見て[はへりてイ]
兼輔朝臣
ねぬ夢にむかしのかへを見つる[てし]よりうつゝに物そかなしかりける
あひしりて侍ける女の身まかりにけるをこひ侍けるあひたによふけてをしのなきけれは
閑院左大臣[冬嗣公]
夕く[さイ]れはねにゆくをしのひとりしてつまこひすなるこゑのかなしき[さイ]
七月はかりに左大臣[實賴公]の母[傾子宇多皇女]身まかりにける時に思ひに侍けるあひたきさいの宮より萩の花をおりて給へりけれは
太政大臣[貞信公]
女郎花かれにし野へにすむ人はまつさく花をまたてともみす
なくなりにける人の家にまかりてかへりてのあしたにかしこなる人につかはしける
伊勢
なき人のかけたに見えぬやり水のそこは[にイ]なみたをなかしてそこし
やまとに侍ける母身まかりて後かの國へまかるとて
ひとりゆくことこそうけれふる里のならのならひて見し人もなみ
法皇の御ふくなりける時にひいろのさいてにかきて人にをくり侍ける
京極御息所[褒子時平公女/宇多御息所]
すみそめのこきもうすきもみる時はかさねてものそかなしかりける
女四のみこのかくれ侍にける時
右大臣
きのふまて千世とちきりし君をわかしてのやまちにたつぬへきかな
先坊うせたまひての春大輔につかはしける
はるかみの朝臣の女
あら玉の年こえくらしつねもなきはつうくひすのねにそなかるゝ
返し
大輔[先坊の御めのと]
ねにたてゝなかぬ日はなしうくひすのむかしのはるをおもひやりつゝ
おなし年の秋
玄上[ハルカミノ]朝臣女[ムスメ][玄上延喜十九年參議]
もろともにおきゐし秋の露はかりかゝらんものとおもひかけきや
きよたゝ[淸正也]か枇杷[ヒハノ]大臣[オトゝ][仲平公]のいみにこもりて侍けるにつかはしける
藤原守文[右馬助有敎]
世のなかのかなしき叓をきくの上にをくしら露そなみた[いのちイ]なりける
かへし
きよたゝ[淸正兼輔息]
きくにたに露けかるらん人の世をめに見し袖をおもひやらなん
兼輔朝臣なくなりてのち土佐の國よりまかりのほりて彼粟田の家にて
つらゆき
うへをきしふたはの松はありなからきみかちとせのなきそかなしき
其つゐてにかしこなる人[※題]
きみまさて年はへぬれと古鄕につきせぬものはなみたなりけり
人のとふらひにまうてきたりけるにはやくなくなりにきといひ侍けれはかえての紅葉にかきつけ侍ける
戒仙法師
すきにける人を秋しもとふからに袖はもみちのいろにこそなれ
なくなりて侍ける人のいみにこもりて侍けるに雨のふる日人のとひて侍けれは
よみ人しらす
袖かわく時なかりつ[けイ]るわか身にはふるを雨ともおもはさりけり
ひとのいみはてゝもとの家にかへりけるに[日イ]
ふるさとの[にイ]きみはいつらと人[まちイ]とはゝいつれのそらのかすみといはまし
敦忠朝臣身まかりて又のとしかの朝臣のをの[小野]なる家みんとて是かれまかりて物語りし侍けるつゐてによみ侍ける
淸正
君かいにしかたやいつこ[れイ]そしら雲のぬしなきやとゝ見るかかなしき
親のわさしに寺にまうてき[きイナシ]たりけるを聞付て諸共にまうてまし物をと人のいひけれは
よみ人しらす
わひ人のたもとに君かうつり[イそへも]せは藤のはなとそいろは見えまし
かへし
よそにをる袖たにひちし藤ころもなみたに花も見えすそあらまし
題しらす
伊勢
ほともなくたれもをくれぬ世なれともとまるはゆくをかなしとそ見る
人をなくなして限なく戀て思ひ入てねたる夢に見えけれは思ひける人にかくなんといひつかはしたりけれは
玄上朝臣女
時のまもなくさめつらんさめぬまは[大鏡きみはさは云々]ゆめにたに見ぬわれそかなしき
返し
大輔
かなしさのなくさむへくもあらさりつ夢のうちにもゆめと見ゆれは
在原のとしはるか身まかりにけるをきゝて
伊勢
かけてたに我身のうへとおもひきやこんとし春の花を見しとは
一つかひ侍ける鶴のひとつかなくなりにけれはとまれるかいたくなき侍けれは雨のふり侍けるに
なくこゑにそひて泪はのほらねと雲のうへより雨とふるらん
つまの身まかりてのとしのしはすのつこもりの日ふることいひ侍けるに
兼輔朝臣
なき人のともにしかへるとしならはくれゆくけふはうれしからまし
かへし
つらゆき
こふるまにとしのくれなはなき人のわかれやいとゝとをくなりなん
[本云]
天曆五年十月晦日於(二)昭陽舎(一)撰(レ)之爲(二)藏人左近少將藤原伊尹別當(一)
寄人讚岐大掾大中臣能宣 河内掾淸原元輔 學生源順 近江少掾紀
時文御書所預坂上望壉等也 謂之梨壷五人 奉公文前註故略
[一本云]
此集故者公卿皆書(二)名朝臣(一)[古今又此體也]枇杷左大臣ノ歌戀ノ部ニ與ル(二)伊勢ニ(一)贈答ヲ書ク(二)業平朝臣ノ名ヲ(一)如ノ(レ)此事後代ノ人或推シテ而直ス(レ)之ヲ非(二)書寫之誤ニ(一)此集ノ之本說也不(レ)可(二)直シ改ム(一)作者ノ名字等家々ノ本多相替ル皆隨テ(二)所ノ受之說ニ(一)書ス(レ)之ヲ同歌人(二)兩部ニ(一)古今歌加リ入ル如ノ(レ)此事只隨フ(レ)本ニ也
貞應二年九月二日[辛巳]爲メ(二)後代之證本ノ(一)重テ書寫ス所ノ(レ)傳ル之家本悉用ユ(二)所ノ(レ)受ル庭訓ヲ(一)爲(レ)傳シカ(二)嫡孫ニ(一)也
同三日令(二)讀合(一)候畢書(二)入落字(一)畢 戶部尚書藤判
[一本云]
天福二年三月二日[庚子]重以(二)家本(一)終フ(二)書寫ノ功ヲ(一)
于時頽賭齡七十三眼昏手疼ンテ寧成(レ)字ヲ哉 桑門明靜
同十四日令(二)讀合(一)之書(二)入落字等ヲ(一)訖
此本付屬大夫爲相[冷泉家]齡六十八 桑門融覺
此集ハ謙德公藏人ノ少將之時奉行之由見タリ(二)于此文ニ(一)萬壽ノ按察ノ大納言之筆定ヲ爲センカ(二)證本ト(一)歟之由致シテ(レ)信ヲ尋(二)出テ彼本ヲ(一)挍合ス[色紙紗表紙二十卷也]無(二)殊ナル珍事(一)近代說々相異ノ事等以(レ)朱註ス(レ)之
さくさめのとし[或抄云此大納言筆眞名に丁年と被書]
あとうかり あとかたりと被(レ)書
そよみともなく とを山すりのかり衣[兩本如此]
作者 宮少將[此本又如此]おほつふね[又如此]
北野行幸みこしをか おほんこしをかと被書
陽成院のみかとのおほみうた
つくはねの峯よりおつるみなの川戀そつもりて淵と成ける
はるすみのよしなはのあそんのむすめ
さかのへのこれのり
天福二年四月六日挍之
世間久云傳之說
題しらすよみ人しらす[古今如此]
題しらすよみ人も[後撰]
題よみ人しらす[拾遺集如此]
亡父命シテ云此說不ル(レ)定事也被ルゝ(レ)書(二)進セ院ニ(一)之本皆如(二)古今ノ(一)被(レ)書今見ニ(二)此本ヲ(一)果而如(二)古今(一)如ノ(レ)此ノ事只後人之所(レ)稱スル歟
「以(二)家本(一)[定家卿筆]令シメ(二)挍合(一)了尤可(レ)爲(二)證本(一)[矣]道雍[※左一字下ニ月]判
「以(二)相傳ノ本ヲ(一)令(二)挍合(一)了尤可(レ)爲(二)證本(一)[矣]民部卿爲尹判
合テ(二)家本ニ(一)付ル(二)朱墨ノ之點ヲ(一)者也可(レ)擬ス(二)證本ニ(一)乎
後撰集挍本栗泉軒自筆奧書寫之
文明六稔九月五日之天以(二)家本(一)令(レ)馳(二)兎毫(一)訖尤可(レ)爲(二)證本(一)者也[同挍合之]羽林良將藤判
自延寶七年霜月十八日至八年[庚申]二月廿二日註解畢 季吟
齊藤松太郎
大和田五月
藤倉喜代丸 校
[※已上奧書内[ ]内原書小字]
底本奧書大正十四年十月十四日印刷同月十八日發行。太洋社發行。「廿一代集第一」
妋ノ尾雅寫
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