きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□梅か枝にきゐるうくひす春かけて/5
以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。
前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。
短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。
読んでいただければ、とてもうれしいです。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる
五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや
滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの
亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは
きさらぎの雪
春
文型
春哥上
題しらす
よみ人しらす
梅か枝にきゐるうくひす春かけてなけともいまた雪はふりつゝ
或る風景
(承前)
雅雪はおもわずに聲をたてゝわらった。
「おれ、あなたたちの…組織?団体?それに入るなんていってない」
「入るよ。貴樣は。」
雪。
「だって、こゝに來たんだもん。雜員の、…いってみれば死ぬ価値だにもないあゝいうおとこの引き合わせに俺があえて會ってやったのは、ただ貴樣の話をきいたから、ね。——話半分におもってたてけど、君自体は…で、お前が興味あろうがなんだろうが、君、いま、こゝにいるよね。なんで?」
「孝文さんが、すごい女いるからって。一度見といて損はないって。それこそ、ひまつぶしの話半分で。」
「謂えてる。所詮あいつは家畜以下だから。まさに、あいつならそう云うだろうよ。恥ずかしげもなく、ね。ともかく、お前はいま、こゝにいる。つまりはそういうことだよ。いつか、結局は俺たちに寄り添うよ。貴樣は。宿命と思え。いずれにせよ、」
ユイシュエンは、そして雪の白の背景の中に、ひとのかたちはなにか穢いしみのようにだけみせられている事實をはじるとてもなくて、おれも、と
「貴様は美しい。」
かのじょのまなざしにはおなじきたないしみだろうか。
雪のその、白の白の前では。
「貴樣は、」
思う。——存在の価値を有する。
ユイシュエンはそういって、くちびるはわらい聲をたてた。
會員になるともならないとも決斷をさえせまらないままに、なしくずしにも彼女のちかくにではいりするようになれば自然にも文也はかの女を垣間見る機會をえる。
文也は雅雪がそのまゝに宮益坂を上り切って靑山通りに歩き過ぎていくのを、なにも云わないながらに口惜しくもおもっているらしいことは氣配に知れる。女は、煽情的なほどに美しかった。中国式のちいさな可憐の無知のいたいけなさの美學とも、乃至は日本式のくらがりに保存したかの恥じらいの美學とも、それら男の眼差しの規定したのものか女のまなざしによるものか、もはや區別とてもつけようのないお國の審美眼には大きくへだゝって、造形の完璧さをだけさらしながらも抽象に堕さずにことのほかに、潤んだまなざしのいまにも泣き出しそうに見えたはかなさは執拗に、いまお前のめにふれるものを愛せ、と、そう命じてゐた。そんな女の女の魅力に十九歳の、いまだに女を知らないはずの文也は無抵抗だった。戀を得ればそのこゝろの大半を女の夢に見る女のまぼろしが占めていることは知れた。
あるいは、と。雅雪は會員でもない自分を、さながらに子飼いの犬じみてもいつくしむユイシュエンの寵愛の赤裸ゝは、かの女にひかれない同性愛者の資質のゆゑのものにもおもわれゝば、身にまとわりつく他人の戀にまみれた女のこゝろのひとりのうちの翳りを思わないでもない。
「逢いたい?」
雅雪はそういった。
文也はなにもこたえなかった。
雅雪は文也の肌を知っている。
かならずしもそれによって正純を裏切ったともおもわない。正純さえも、自分は雅雪への一途をかたくなにまもりながらも雅雪の放逸を咎めるともなく雙りの肌のかさなりあいのことゝ次第をは知っていた。高校に上がって初めて文也を見た時に、雅雪はすぐにかれが自分と同じ資質をあやうく持つものだということにき附いた。その、すれ違いに肩のふれあいそうになった校舎の中の階段の角で、おもわずにもあ、と。
聲をたてそうになった文也の一瞬の肩をちぢこめた眼差しは雅雪を咎めて見つめ、こと葉もなくて、そしてかすかにひらかれたくちびるの匂う氣配は雅雪に、この男もだよ、と。聲をひそめて直につぶやく。
雅雪は目を伏せた。
「おまえ、さ。」
さゝやく。そのとき雅雪は、自分のかたわらにそれとなく添うてあるく正純の目の前で、そしていきなりに口ごもった。
文也はたちどまりもしない。
自分の聲をかけられたことをさえき附かないふりのうちに、そのまゝにとおりすぎていく文也を思わずにたちどまった雅雪は文也を見やるが、正純にかすかな嫉妬がもはや鮮明にも、ひろがって音だにたてないのにはき附いてゐる。
正純にむりむきようとしたときに、わずか數歩分さきに立ち止まった文也は振り向いてふいに、雅雪を見た。
正純は彼を見てゐた。
それで、彼がおもいあたるべきことにおもいあたったことは雅雪にしれた。
文也は、聲もなくてのほゝえみをだけこぼす。
文也の一應に整ってはいた容姿の灼けたスポーツマンぶりがユイシュエンに見留められるものなのかどうかは雅雪にはわからなかった。ヴィラ・モデルナという名のかの女の靑山の事務所に呼び出された雅雪が、文也を同行させたときに——ね。
そのいまだ冬の一月のおわりの日曜日の午前、ユイシュエンはノックされた黑の鐵ドアをあけてやった數秒のあと、かれらの肌がいまだふれあいそうな混雑をみせていたいりぐちの中のときほぐされないまゝに「この子、お前の男?」
さゝやき、あるいはあどけなくもかの女は聲をたてゝわらった。
「いわなくていいよ。」
なんとも答えずに、顏になんの態度をとろうとする前にも已にユイシュエンはそう彼をゆるして、…判るよ。
ほゝえむ。
女の、すくなくとも体の、芳醇な雌の匂いをこれみよがしに発酵させたような、そんな体臭が過剰なほどに匂われて、かたわらに文也は眼差しにあきらかな不愉快を曝して口を閉ざす。
文也は、むしろ沈黙に墜ちがちのユイシュエンの暇つぶしとしか思えなかったその會合とも逢瀨ともいえない雜談のあいだ中なにひとつとして自分からはこと葉を發っさない。ただ、なんどか、問われた自分の名前と年齢をかえしたくらいしかなくて、——ね。
なんの折にだったのか、ユイシュエンは云った。
「あの子、…もうひとりの、」
と、その眼差しはみつめるものを嘲弄するようななまめきを意図もなく曝す。
「ほら、…ね?」
まさすみ。そういいかけて雅雪はあえて、そのこと葉をはつがないまゝにえんだ。
「あの子は?」
わかれたの?——と、思えばぶしつけにまわす氣づかいもなくて言い切ったユイシュエンの聲に、此の女は、と。どこまで察したのだろう?
思う。
あわせた肌の回數をまでも?
ひとりでに、ひとり聲をたてゝわらう雅雪の、云って仕舞えば不埒さをユイシュエンはなにともなくて赦せば、「氣を附けなよ。」
つぶやく。
雅雪は、かの女に「なんでもいいたいこといってると、逆恨みのとばっちり、かうかも」
「なんで?」
ほおづえをつくユイシュエンは逆光のあわいかげりの中に、無意味にもうつくしい。「だってさ、」あきらかに、「こわいよ。なんかがこじれたときの男の」女は自分のうつくしさを持て餘してゐる。「こゝろ狂った逆恨みって」
「たとえば、お前にすてられたこの子が俺に刃物もっておそいかゝってくると?」
「かもしれないじゃない?」
「まさか。女のほうでしょ。それは。」
「女なんか…まだしもお綺麗だよ。おもいつめた男のうじうじした凶暴さにはくらべられないと思う」
「しらないくせに。」さゝやく。——女なんか、なにも。
と。
云ったユイシュエンはあきらかに挑發をさらしていたのだった。なぜかは判らないままに雅雪に、その愚弄じみた挑發はこゝちよくさえ感じられてゐた。
話の茅の外の、ないし自分で茅のそとにでてゐた文也の、かゝえてあるべき退屈を思った。
「女のほうがきったなくって、凶暴で、どろくさくて、意地汚くて…」
戯れじみた色に自分の聲のおどりはじめるまにまにユイシュエンはこと葉を繼いで、「あなたは?」
雅雪はつぶやく。
ユイシュエンはおもわずにこと葉を切って、そして雅雪をみつめなおすものゝ、雅雪はむしろ自分のくちびるのさきにだけ獨り言散られておもわれていた自分のこと葉の、はっきりとかの女にきゝとられていたことにかすかに唖然ともしてしまう。
「俺?」
ユイシュエンの、
「なにが?」
うかべるほゝえみはいつもすべてを小莫迦にしているかにもあどけない。
「俺は慥かに女なんてしらないけど、あなたはしってるの?知りたいね、俺。ぜひ。あなたは、自分のことゝして女のこと、しってるの?それとも他人のことゝして?」
ユイシュエンは、あるいはかの女を愚弄しようとした意図をさえ、雅雪に意識されないまゝにもっていたかもしれないこと葉になんのわるびれるともなくて、しばらくは雅雪をみつめていたが、なにもかも忘れてゐるようなやゝあっての不意に、かすかに鼻にだけ短い笑い聲をたてた。そして、さゝやく。
「答えない。」
なんで?
「しってるじゃない?」
ユイシュエンはそう答えた。
いたずらじみた眼差しがすきほうだいに双渺を色つかせるのを、かの女はまるで感知もせずにあそばせる。
軈て別れを告げて退出するそのドアを閉じた瞬間に雅雪は文也に笑いかけた。
「ね、」
と。
はなしかけてあわてゝ口をとじる雅雪を文也は見返して、——なに?
雅雪はき附いてゐた。
文也はあきらかに眼の前に、興味も無い蜻蛉の脱皮をでもみているかにも雙りの会話の不毛を見ていた眼差しの軽蔑のうちに、已にあの女にこがれはじめてゐたことに雅雪はき附いてゐて、こゝろはまるでおもしろい冗談をみつけたかにもおどるものゝ、その冗談をつたえるべきこと葉の不在にたゝくちごもる。
雅雪は自分を羞じた。
「ごめん。」
友を愚弄した氣がした。ないし、
「なにが?」
それはその一瞬には事實だった。——俺、…と、いいかけて雅雪は不意に、「退屈だったろ?」
笑う。
靑山通り出れば、町は本來のこゝが高台であるにもかゝわらずに、むしろいまゝであがってきたところが深い窪地だったのだと、その躬づからの常態をこそほのめかす。それになにをおもうともなく雅雪は目の舞う感覺にもおそわれて、かたわに文也は髪をかきあげて息をつく。
「おれ、さ。」
きく。
「…考えてる。」
それ。文也のささやく聲。
「なにを?」
雅雪がいったときに、自分がおもわずに我にも返った感覺にとらわれたことを文也は恠んだ。
あわてゝ雅雪をみかえして、軈てはかすかな氣のないえみに堕す。雅雪は思った。慥かに、と、あるいは、——にゅかいしおうかな、てさ。
彼はうつくしくはない。
「なに?」
おもわずに聞き取れなかったこと葉をもういちど、そのあやうい境界線の上で文也はあやうくもうつくしいとはいえない愚鈍な氣配を持ってゐる、と。
思う。
「入會しようとおもうんだよ。」
文也は云った。
「なに?」
「革命集團、…」と。
その、汪成時の組織の略称が文也のくちびるにふれたときに、雅雪はふたゝびにも見い出した死者の肉體のこぼした血の玉の浮遊を見詰めた。
やがて、あらたなるひのもとのあらぶるころしのあつまり、と。——新日本革命集團。その正式名稱を舌に、むしろ雅雪のみゝに確認させるようにもつぶやいたときに、肉。
腐った肉が空のいただきにまで身をよりそわせて、それらのあつまりがもはや肉の結合しあった殘骸のおびただしさ以外のなにものでもないことを、死者たちの不滅はもとよりはじようともしない。
舞う血。
文也のほゝにふれてそれが玉散るのを雅雪はみていた。
聲をたてゝ、雅雪はわらった。
そしてすぐに目をそらした。
おれは君を愚弄しかしない。と、
「本気?」
あの女がからむときにはいつも。
思い、雅雪は
「大丈夫?」
歎く。
「なにが?」
「なにがって?」
「なんで、おれのこと、心配するの?」
文也の眼差しの純に雅雪はとまどいながらも、
「だって、…」
「でも、ひきあわせたのお前じゃない?」
「なんで?」
いきなりに自分のことばを切る雅雪をかすかにいぶかって、文也はとはいえかれのこゝろには邪氣もなくて、たゝ自分をあやぶむ友のやさしさに笑むしかない。
「なんで、入會なんかしたいの?」——なんでだろう?
さゝやく、ふし目の文也に嘘のないことはしれる。
「惹かれる、から。」
ようやくにさゝやき、——だれに?
いいかけたこと葉を雅雪は口の中に噛み千切った。
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