きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□梅か枝にきゐるうくひす春かけて/4


以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。

前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。

短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。

読んでいただければ、とてもうれしいです。


以下、一部に暴力的な描写を含みます。

ご了承の上お読み進めください。




いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる

五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや

滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの

亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは

きさらぎの雪

文型

春哥上

題しらす

よみ人しらす

梅か枝にきゐるうくひす春かけてなけともいまた雪はふりつゝ

或る風景

(承前)

彼女は自分の見つめたさきにわらい聲を立てる美しい少年を見ていた。少年は自分にだけはいまだになんの悲しみもふもれたことは无く、かつ、悲しみとは哀れな他人に時に捧げてやるべき共感のこゝろの感傷に過ぎないと、そう意図するでもなく思い込んでいに違いない傲慢さを鬱陶しいほどにも匂わせた。彼は美しかった。故にだけ、彼に、彼が傲慢であるべき權利はあるのだと弓緒は獨り言散た。

雅雪は、ふいに顏をあげて弓緒を見た。

「歸るの?」

雅雪が云った。その瞬間に、彼女はここがいつか自分が別れを告げなければならない人ざまの空間にすぎないことに思いつく。

弓緒はうなづいた。まるで年下の女のようだと、雅雪は思った。

女はただ、もう何人かは男さえ知っていた肌に、その内側はともかくも、さかりのおわりかけの衰えの匂いを素直にさらけ出しながら、その儘に笑む。

「…歸るね。」

さゝやく。

なにも身に着けない素肌に女は部屋を出た。その大胆は雅雪にも弓緒にもき附かれない儘だった。

階段の下にひとの気配はなかった。

冷気がふれていた。

肌は鳥肌を知った。

かさついた触感が、だれにふれられもしない肌にかんじられた違和感をいつか弓緒は覺えた。

降りてすぐの居間のスペースの窓際に弓緒のはぎとられた衣類がそれぞれに干されていた。

丁寧な仕事だった。

雅雪はそれに満足を感じた。

「あの花、…」

と。

弓緒は服をきながらに、振り向きもせずに云った。

女の曲線に曲線をかさねた後ろ姿を雅雪は見つめた。

「なに?」

なにが?と、雅雪が聞き返すと弓緒は彼を振り返り見て、そしていつくしむように彼を見詰めた。

云った。

「あの花の名前。」

「あなたが、棄てた?」

そう…と。

弓緒はいいかけて惜しむともなく床に投げすてた花を投げ捨てたことを他人の仕業の樣にして惜しんだ。

「可哀相…」

さゝやき、

「知らない。」

答えた雅雪のさゝやき聲をきく。

「知りたい?」

「別に…」

「だったら、」

「嫌じゃない?」

「なにが?」

女は眼差しにだけ笑った。

「花の名前もしらないの、いやでしょ。」

「すべての、…」

「世界中ぜんぶの花の名前を知ってる奴なんて、植物學者にもいない。」

つぶやいた雅雪は自分がまるで裸にされているほどに、頭の先からつまさきにまでみつめられている眼差しの息吹を厭う。

雅雪は目を逸らした。

「あの花、なに?…」

かまわずに、

「きになる。」

獨り語散る弓緒を雅雪はぶしつけにもおもった。

「おぼえてゝ。」

歸りぎわに弓緒は云った。

「花の名前?」

「わたしのすがた。」

女は玄關の戸をあけた姿勢のままに、やゝよじった上半身にだけふりむいて

「すがた?」

晒すほゝえみ。

見ていた。

雅雪は

「みたでしょ。」

弓緒のそれを。

「わたしのはだか。」

云って、満足したかのように笑う弓緒に邪氣はない。

ドアをしめて出て行った弓緒の、もはや視界の中のどこにも存在しない肉體を見送って後に、ふいに雅雪は自分が愚弄されたことにき附いた。女にその氣があったかどうかはともなくも、あるいは事實としてそんな自覺などゝこにも、なにもなかったにはしても、女が彼を弄んだのは本等だった。

犯罪だよ、と。雅雪は思わずにつぶやきかけて女を軽蔑した。

母親が夕食の食材の買い出しに出かけていたことは後に知った。午後の三時を回っていた。慥かにそんな時間帯だった。はゝも雨の土砂降りに打たれたに違いなかった。むらさきの花の顛末をむしろ花のいのちの爲にだけ秘密にしてやりたくも思えて、雅雪は部屋の始末を自分でした。

その日龍也の夢を見た。

女が雨の中に出て行ったあとに、かけた電話のむこうに壬生正純が、その理由を明言すること無い言い淀みのはてにいそがしいんだ。「今日。」

「どうしたの。」

「ん。…ね、」

そして、

「ごめん。」

と。雅雪は少しでも追求しかけた自分の無樣をむしろ羞じた。詫びを入れる可きなのは正純の方だった。友人のその傲慢なまでに美しい外見にうらはらな、ふいに見せられた繊細さを刹那に正純は心にまぶしすぎてさえも思った。

やゝあって、雅雪は年上の片岡文也を呼び出した。

そのとし十九歳になる文也は受験に失敗して、一浪してさらに上の大學を目指していた。とはいえどもなんの勉強をするともないかれの日常を、雅雪も知っていた。

澁谷の映画館のまえで待ち合わせて、そのまゝ原宿にでもながれようと思った。時間に遲れてやって來てもとりたてゝ佗びるでもなく乃至わるびれるでもなくての文也に、行く先をつたえもせずに雅雪は宮益坂の方へくだると、…中國人のところ?

文也の聲の若干にあわてたのを雅雪はいぶかった。

「中國人?」

「ユイシュエン、…」

かすかにふりむき見た眼差しに、文也の他人のうちをうかゝうにもおもえた双渺の丸さがふれた。——あの、頭、おかしい女。

やゝあって、文也は聲をたてゝわらった。笑い聲に強がりを消す慎重な、こゝろもとなさは自然にゝじんで、雅雪は目を逸らした。

街路樹は雨上がりの色を散らした。

匂いさえもたゝえて、その

「嫌?」

いわば瑞ゝしいほどの、

「なんで、あのひとのこと嫌いなの?」

さゝやきながらも雅雪は、文也のこゝろの内は知っていた。おもわずにも、見蕩れさせないでおかないばかりにもうつくしく、ふれゝば叩きゝられそうなまなざしをさらしながら体つきに、どこかしら淫蕩な女の淫蕩な氣配さえことさらにゝおわせた女は、たゝ二度雅雪につれられたほんの數分にしかあってはいないはずのひとめにも文也のこゝろのうちの大方を占領して、慥かに、と。

雅雪は思う。ふつうならば男なら、ましてや戀にも肉の欲望にも夢見がちな十代の男ならばかの女、乃至は彼にこゝろをうばわれてしかるべきだったにちがいない。匂うまでにも美しい女の體棲みつゐたきなくさい男。

宮益坂の上りきられたいただきちかくの、澁谷とも神宮前とも靑山とも言えない地勢の空隙じみた髙臺にその人の、おそらくは汪成時に購入させたにちがいないマンションのあったことにおもい附く。好んで文化人が使用するともうわさゝれた白くギザ着いた建物の、どこか威嚇的にも見えた最先端氣取りの意匠のコルビュジェ諷のクラシックの、鉄筋コンクリートが取り囲んだ正面のエントランスに、我しらず顏に一本の樹木の植ゑられて、漏れる上空のひかりにてらされるのを雅雪は思いだすものゝ、いつかユイシェンにその建築を手がけたのはコルビュジェの直弟子の日本人のその又弟子たちが立ち上げた設計事務所なのだと聞いた。いくつか、神宮前にそこかしらにそれぞれに、にたような意匠をおなじように誇ってかんじさせた建造物のそれぞれのうちにも、その白い建造物は目に附いた。

「詐欺師だぜ。」

文也は云った。——なに?

と。

聞き返したときに、抑ゝ自分のきゝただした質問にかれのこたえただけだったことにも思い當る。そうにはちがいない、と、雅雪は思っておもわずにも笑みにほゝをくずしてしまいながら、「でも、おもしろい奴らじゃない。」さゝやく。汪成時に囲われた、乃至は汪成時を囲い込んだ雨萱、ユイシェンという名を名のった中國ゝ籍らしい女は、身のまわりに新手の右翼團體をはべらせて、抑ゝその組織の首謀者だった成時は女のかげにあえてかくれた。もっとも隱れきることはなくて、叓の次第のまにまにその存在を匂わせていた成時の戰前からの日本在留の中國人という血筋が、その團體にはいうにもいわれないゝかがわしさを與えて、彼等の標榜した皇道回歸云々のテーゼに固有のけばだった匂いをしみつけた。匂いはそれをかぐひとの鼻にあやかしいまでの魅力か、容赦もない嫌惡を焚きつけて、仍て、それは靜かに會員をふやすのに貢獻した。三年前の市ヶ谷のある物書きの自衞隊事件がかれらの思い附きの発端だにちがいないと、文也はうたがってゐた。あるいは時のヴィスコンティのナチスがらみの壮大にながったらしい倒錯映画か。なぜなら彼等は會員の集會時に、盾の會にゝた軍服の着用を義務立てられて、抑ゝユイシュエンの美感覺にかなわない男の不細工はことごとくに末端の下層會員としてこれみよがしの差別を受けたから。男の、と。

はじめてあったときに、それは末端会員だった岡野孝文に引き合わされたときだったが、その去年の二月の雪の松濤公園に女はさゝやいた。

「存在理由、…」

半音迄いたらないフラットに落ちる聲。

いつでも。骨にしみいるような寒氣が雪の反射した日のひかりにきれいに一掃されて、つもった雪は躬づから故にあたゝめられた大氣のうちに溶けていく。

「なに?」

意図してなぞめかしたにちがいない女の、よりそうような距離にそのからだとみごとにも漆黑のかみの毛のながいおびただしさが、そして薰った。

わらった。聲をたてゝ、小柄な彼女はうわ目のほゝえみにいちど、ほんの一瞬だけに雅雪をみたが、すぐにそらしたまなざしは理由をあかす氣もない翳りをさらす。

「男ってものゝ、存在理由、」

誘惑、と。

「…お前、知ってるか?」

雅雪は思った。この女はそのすべなどことごとく知り盡してゐる、と、おもいながらにも背後に、數にはゝいらない下位の、雜員上とよばれた階級にふられた孝文は姫君への御拜顏をさえかなえられずに、公園の入り口に背をむけて立ってゐる。孝文の息をころした背中のまなざしがいま、自分とその横の女のうつくしいかたちをさしているようにも思う。

ふいにたちどまって、いきなりふりむきみるとユイシュエンはこともなげに云った。

「正四位からでいい。取り敢えず。…すぐ上げてあげる。三位、…ゆくゆく、攝政、——とかね。」

雅雪はかの女を見つめた。

「なぜかわかる?」

わらう。目の前のにこやかにも邪氣もなくわらう女はいつか雅雪までもほゝえませずにはおかなくて、「お前は美しい。俺も認めよう。それは事實だよ。事實は事實に他ならない。男の存在理由は美しさをおいて以外にはない。つまり、君は男として生き、男として死ぬ価値を有する譯だ。」








Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

0コメント

  • 1000 / 1000