きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□梅か枝にきゐるうくひす春かけて/3
以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。
前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。
短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。
読んでいただければ、とてもうれしいです。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる
五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや
滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの
亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは
きさらぎの雪
春
文型
春哥上
題しらす
よみ人しらす
梅か枝にきゐるうくひす春かけてなけともいまた雪はふりつゝ
或る風景
(承前)
ほゝ笑みながらささやく雅雪の聲の、おんなのみゝにきゝとられていることはしっている。
おんなのみつめるまなざしにはそれらのこと葉を理解しきらないおぼつかないまどろみがさらされているだけだった。夢を、と。
さまようばかりの夢のうちにゆめを、と。
「違う?」
見る。
雅雪はくちのなかにだけ獨り言散る。
それしかいま、あなたにはできない。
「きずつくばかりですよ。ほかでもなくて。あなたが。」
でしょ?
「なんで?」
みゝもとにさゝやかれた雅雪のこと葉は弓緒には無視された。
「ほら。」
兩手をひろげた。
「わたし、裸なの。なんで?」
自分のまなざしをだけをみつめる雅雪を、弓緒はその双渺に目をほそめるでもなく見ていた。
自分のかすかなわらい聲がたった。
ふいの豪雨のすさまじくも暴力的な音響に囲い込まれた空間のうちに、
「乾かしてますよ。服なら。」
玉散らす
「どこで?」
この葉のむれは
「洗濯まではしてない。」
樣ゝにも
「どうして?」
雨の中に
「した方がよかったの?」洗濯?…と。
ややあって頸をかしげた弓緒の、いまだに水分を名殘らせたまえ髮を指先に雅雪はもてあそんでやった。
「どっちでもいい。」
女は諦めたこゑを立てた。
雅雪はめをふせて、そして笑った。
十七歳にもなれば八重子は已に自分とは何のつながりもなくなってもみえた雅雪のいいなりの家畜じみた存在に過ぎなかった。その事實はだれよりも八重子本人に思いさだめられていた。かの女がそれとはき附かないまゝに。全身を雨にぬれながら、同じように髮の生えぎわをまで雨にぬらしきった見るからに年増の女を雅雪が腕に抱きつれてかえってきたときに、「だれ?」
八重子は疑いをうちにかくしとおしたわらい顏に邪氣さえ消しとおして、「かの女?」
ありえもしない冗談めかして息子に媚びのあるまなざしをむけた。
「先生だよ。」
「どこの。」
「むかしの。倒れたから。拾ってきた。」
かくされた意味をさがそうとおもえばいくらでもさがせる氣のする雅雪のこと葉に八重子はあえてなんのさぐりをいれるでもなくて、「たいへん。」
我に返った八重子は唐突に聲をあげた。駆け寄る八重子を制して、雅雪は「…いいよ。」めずらしく彼女にほゝえんでやりながら「自分でするから。」部屋にあがった。
やがて雅雪が下にもっておりた弓緒の衣類を下着までふくめて雨の日のうすくらい居間に干して吊ってやったのは八重子だった。或いは、と。
八重子はおもった。あれほどに身の回りに女たちの焦がれたまなざしをよせつけながらなんの手をだそうともしない雅雪がはじめてつれこんだ女であれば、それはそれで自分としてできる精一杯のことはやさしく見守ってやることだけだとも。
躬づからに獨り言散て指先のふれる、肌の温度さえのこさない布切れのむれを、穢い汚物のようにしか見い出せない自分のまどう親の心に八重子はいくたびかわらい聲をさえもらしそうになってみる。ふいに弓緒が聲をたててわらったので、雅雪は振り向きざまに彼女をみとめた。
女はいまだになにを身にまとうでもなにゝ肌をかくすでもなくその素肌を素直にさらすものゝ、いま、と。
歸れと云ったらそのまゝに裸で雨の中に消えていくに違ない。
雅雪はそのうしろすがたをまぼろし見る。
「なんで?」
女は云った。
「なにが?」
「なんで、わたしのきもち、知ってる?」
女の眼差しがひたすらにくらい翳りに落ちるのは唐突だった。「なんで?」
…だれにも言わなかったのに。
そう女はつぶやいた。
おとされた目線は床の上になにかをさがす。
なにをさがすともない。
ゆゑに、なにをみつけるともない。
おと。
雨の。
「慥かに、」
身をこわならせねばならない暴力以外のなにものでもない。
「…ね。」
どこかの山はだは抉られるだろうか?
「わたし、さ。」
どこかの池の水があふれてふたゝびに道路は泥の色をしるのか。
「でも、…」
茶色の濁流はたとえば奥多摩の山に駆け落ちてふれるものすべての息するものゝ息をその氣もなくてたえさせてしまうのか。
「なんでだろう?」
川は氾濫し開發された街を泥水にもひたし込んで樣ゝの惡臭のつらなりをさえまき散らすだろうか?
「先生、ね。じぶんでも」
ありふれた風景。
「なんでだろう?」
いつもどこかでだれかがこの島國では見い出さなければならない、鮮烈な暴力のあざやかな風景。
「なんで、すなおに好きっていえなかったんだろうね?わたし、」
「先生だからでしょ。さすがに」
「こんなに、君のこと」
「自分の學校の生徒に、」
「やっぱり、」
「手をだしたら、まちがいなく」
「すきだったのに」
「犯罪なんじゃないですか?」
「結婚した人、いるよ。」
弓緒は目を上げて、雅雪を見た。
「髙岡先生って覺えてる?」
「だれ?」
「去年、——その女の子、わたしもしらない生徒だけど。その子、専門學校でるまで待って、それから、結婚した。もう、」
わらう。
「こどもゝいる。」
「遣りたい放題だな。」
「しってる?…結婚式の時、おなかのなかにいたの。」…かわいいんだよ。
と。
写真見せてもらったの。そういってこぼした弓緒の笑い聲をだけ、雅雪は聞いた。カーテンを指にひらきかけると、垣間見られるそこにはいまだに豪雨が白濁した風景を飛沫の水滴のむこうにさらす。
「やまないですね。」
「おかしいとも思う。」
「いつやむんだろ?」
「犯罪って…」
「このまま、」
「でもね、」
「あさまでふりつづけたりして。」
「倫理ってなに?」
「ずっと。」
「人がしあわせになるためのとりあえずに措定暫定されたものがそうだっていうなら、抑ゝそれでしあわせになれるなら倫理のこっちがわにいるってことでしょ?しあわせそ疎外するならそれは倫理じゃない。人を殺すのはいけないこと。じゃ、革命戰線の兵士が獨裁者を撃つことは?…ちがう?」
「自分勝手なもの謂い。…自己正當化っていうんじゃない?」
「でも、間違ってない。」
「自分のいいようにしたいだけでしょ?」
「だったら、倫理ってなに?」
「…あなたのただの言い譯。」
「神さまがあたえたの?それとも病的な集團妄想」
「なにがほしいの?」
雅雪は云った。
「俺の女になりたいの?」
ほゝえむ。
「禁じられた戀の純情の犯罪者として。それか、赦された淚の純愛の人として。」
みる。
「苦難を乗り越えて、結ばれる?」
雅雪は、
…って?
さゝやき、ほほえみつづける弓緒のまなざしをかえり見た。
熱を孕んで、うるんだそれ。
本等に、熱を出して仕舞ってゐたに違いない。
「なにも。」
ようやくにして、かろうじて、弓緒は云った。
「なにも?」
「なにも。」
「なにも、って…」
「たゝおもってていいかな。こゝろのそこで。きみを。それだけ。」
「それって、」
「ね。」
「もとめてるってことでしょ」
「たゝ、純粋に…」
「それって、ただの」
「それだけ。」
「欺瞞だぜ。」
云って、雅雪がわらうのを弓緒は赦す。
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