きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□梅か枝にきゐるうくひす春かけて/2
以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。
前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。
短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。
読んでいただければ、とてもうれしいです。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる
五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや
滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの
亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは
きさらぎの雪
春
文型
春哥上
題しらす
よみ人しらす
梅か枝にきゐるうくひす春かけてなけともいまた雪はふりつゝ
或る風景
(承前)
ドアが元から開け放たれていたのか。あるいは少年がいつかドアを開いたことに気付かなかったのか。どちらの記憶もない弓緒の見い出したあきらかな謎は、それにおもい當った時には已にそれを追及する心さえ忘れられた。弓緒はいまさらにも見蕩れた。
かつておびただしくも、いたいけなくも身ににおわせ、肌の肌理の息吹の氣配にさえもに馨らせていたはかないばかりの幼さは影をけしかけて、代わりに纏われはじめた男の肉體の息遣いが胸やけをおこさせそうにも匂った。肌はあのころにかわりのない複雑で、なまめいて、甘い香水を吹いた肌に花の花弁を塗りたくったような、そんな馨りをはなれていても、鼻のすぐちかくにだにただよわせる。
弓緒は自分が今少年の肌の馨りを移らせた彼の秘密の居城の中に迷い込んだ錯覺を覺えた。
裕福な家庭ではない。かつての亡き父親が借り入れをして入手した、犬の庭程度の土地に建てられた貧弱な家屋に過ぎない。それに應じて部屋は狹い。その狹さのなかに、雅雪の姿と氣配の曝す色のある香気はおびたゝしすぎて、例えれば見晴るかす奧にまで遠く咲き誇った藤の花のしたゝり落とした花のすべてをむりやり少女のオルゴールの箱にとじこめようとするような、不穏な場違いをもかんじさせれば、その過剰があたえる恐れに近いおのゝきが弓緒をみたびこまかくまばたかせたのに雅雪はき附かない。
「氣が附いた?」
ほゝえみながら、そうとでもさゝやく可きだったに違ない。
雅雪はその当然をわすれた。
弓緒のさらした素肌の色がその主犯だったわけでもない。自分が素肌を曝して元生徒の前にたっている謂わば倫理的な不埒さをおもい當りもしない弓緒の茫然は彼に滑稽でさえあった。
弓緒はこと葉もなにも忘れて仕舞ったに違いない、と。雅雪はそうおもった。印象というよりは赤裸々で容赦も无くあまりにも明晰すぎて逃げ場も无い認識として、いうなれば、彼はそう知った。この女はこと葉など喪失した。
失語、と。
失語症というのかなんというのか。乃至は正確にはふいに落ち込んだ無防備な狂氣とでもいうべきもの。ありふれた、それ。精神疾患に分類され得る、症例としてのそれではなくて、ただ躬づからを色づかせた花が蝶も蛾も蝿もなにもおびき寄せて何というでもない、そんな當たり前のことの當り前の狂氣にふれる。
目に映るもののことごとくが本來狂っているんだよ、と。弓緒の潤んで、かすかに驚いて、そして怯えを色にさえみせはしない開きなった眼差しは雅雪の耳にじかにそうさゝやく。頭から水溜まるアスファルトに強打した頭の一時の發狂なのか。永遠にまで墜ちた狂氣なのか。いずれにせよ女のくちびるはこと葉というものゝ存在そのものにだに無緣だった。
女の微笑みもしない全身に、なゝめにあわい日のひかりがふれた。しめきられたカーテンの室内に、それは氣配さえにおわせ无いものゝ、外に白濁の空はきりさかれはじた雲の崩壞をさらし、ちぎれ千切れのあり樣を見せつゝあったに違いない。
もはや雨の落ちるべき餘地はなかった。
それに、心のうちのどこかにもき附いたときに雅雪の感じた喪失の感覺は、或いは彼のふいに落ち込んだ感傷にほかならなかったに違い无い。
女の手が、視線を投げもしない後ろ手に背後の机の表面をまさぐった。
そのすぐかたわらに置かれた花。
むらさき色の、靑みから赤みへのうつりかわりを見せたその、雅雪が名前の知らないそれ。
今、事實としてさいているのだからたぶん、二月の寒咲きの花に違ないむらさき色は、八重子がそこに置いたものに違いなかった。
花の差されたコップを、女のゆびさきがひっくりかえして仕舞うあやうさを雅雪は危ぶんだ。
あざやかにも、あやぶんだときには指は、その存在などわすれていたに違いなくて、ふれた瞬間の不意の邂逅にかすかな驚きをさらせば、見た。刹那にもすでにひっくり返ったコップが花を投げて、水の飛び散らせる飛沫を、と、その眼差しがまぼろし見た風景の餘りの鮮度をあざ笑う素振りさえも見せずに、指はコップの浮かべた水滴をなぜた。
愛撫するようにもやさしく、躬づからをぬらしては形を崩すちいさくこまやかな水の玉のかたちをあわれむ。
指のはらは。
爪の先さえもが。
雅雪は自分が容赦もなく愚弄されて在る叓をおもった。まったきひとつの確信として。
雅雪の瞼に瞬きの隙も與えずに、下からなぜ上げた指は軈てコップのかたちの途絶えた先に、花の莖をふれるすれすれに追った。そのさきの唐突に浮かぶ花弁の紫のいろに、指がふれて仕舞うことを雅雪は危ぶんだ。
つかまれた。
掌はコップをつかんで、容赦もなく無造作に、こともなげに、つかまれたコップごと花は女の胸の前を飾った。莖をくわえこんだ水のおもは波立ちさえもしない。片方の手を、ようやくに添えた女が自分を見詰めていることを、雅雪は知っている。うとましい程に花は匂いを立てる。その馨を覆い隠した自分の體臭に雅雪はき附かない。見つめる眼。
こと葉を喪失した女。
それらをは、見なかった。
雅雪は花をだけみていた。
戀、と。
そのかつての瑞ゝしかった事實さえも女は无くしてしまったに違いない。
あるいは、こと葉もなくして戀することは可能なのか。乃至失語症の人間がいともたやすく曝してゐるそれは、それでも人間に固有の人間的なそれと呼べるのか。愛のこと葉をこえて交わされ得るのなら、それはむしろ犬の、菟の、鹿の、或いは花の花弁にかこまれたおしべとめしめべの花粉のふれ合いとにだに本質をことならさせないことなる。それでも、それをあえて愛と、乃至戀とひとのこゝろの高貴のしるしとしてでもよばなければならないのか。
女の手が花を抜き取ったのを、雅雪はかならずしも無殘とも思わなかった。床にほうりすてられた花は數度ちいさくはねて、音を立てる譯でもさえも无い。
女のくちびるがグラスのふちにふれた。水を口に流し込む女の喉のうごめきに、潤わされた喉のその華やぐにもにた快感の擴がりをおもった。
飲み干されはしなかった。
き附いた。
再びふり始めた雨が窓の外に轟音を散らした。
雨が降ってゐた。だったら、已まなかったにもひとしい。
たたきつけるようにも。
そとの悉くが飛沫に噎せ返ってゐたに違ない。
白く染まったはずだった。
みはるかす世界の悉くがみはるかさるまゝ雨の無數の粒の無際限に打ち附けられて色。
その。
霞むににた、それ。
臭気と。
雨の。
匂った。雅雪は花の匂いを、そしてもはや花に飾られない女の曝したその胸元の肌に、血なまぐさい程にも女の女じみた流れる屈曲が曝されていたのにき附く。耳元に大聲で女、と、その在るかたちをことさらにわめいたかのようにも。成熟したというよりは、ひとりでに果肉を樹木の葉の影は熟れさせた、そんな自分勝手な息吹があった。美しいと謂われなければならないには違ない。雅雪はその肌に女のからだのあるべき女をあらためてに確認した。
「雨、」
と。
「…ふってるね。」
聞く。
雅雪のみゝは弓緒のこゑを。そして、そのひびきはたしかになつかしくもあった。いくたびかだけきいたことがあったのをおもい出す。その聲がそのときになにをつげたものだったのかはもはや覺えない。
雨のおとをきくしかなかった。
雅雪はおんながじぶんのそばにまでちかよって、手にもたれたまゝのグラスに水の殘りのちいさくさらしたおものゆらぐのを、その氣配にだけかんじる。
弓緒はおもわずにも目をあげて雅雪をみた。
くちもとにちいさなしろい手がグラスをさしだしていた。
雅雪はおもいつめたところのあるわけでもない女の眼差しを見つめるともなくみて、かの女はたゝほゝえんでいたにすぎない。
邪氣もなくて。
ほら、と。
わらった。
こと葉もなく。ゆびさきはふるえもしない。
なんでもない。
ささやく。
みみもとに、なんでもないの。
なんでも。
そうさゝやかれた氣がしたのは雅雪のおもいちがいにすぎなかったことをだけは知ってゐる。
「なに?」
雅雪はかの女にささやきかえした氣がした。
のむ?
と。
女のくちは、はっきりとそう云った。
いまさらに、雅雪はおんながこと葉をはなしてゐることにおどろく。
かるい、躬づからの矛盾をすでに知ったおどろき。
女がこと葉をしらないはずもないことくらいはしっていた。
とっくに。
「のど、かわいたでしょ。」
鳥のあざわらうような、髙いソプラノ。
雅雪はグラスに口をつけた。
花の殘したすえた馨りがあった。
くちびるにふれ、水は粘膜をぬらした。
グラスを持った女の手にふれたとき、おんなは一瞬身をまもろうとするしぐさゝえさらした。かすかにだけ身をこわばらせて。雅雪がグラスをうばうのになんの勞力の必要だった譯でもない。
こともなげに。
雅雪は床にからのグラスを抛った。割れはし無かった。
床に撥ねた。
割れるものとばかりおもっていた。
雅雪はその、床に撥ねたグラスの空気を錆びさせたにゝたひびきにそのとき、みゝをうばわれてゐた。
「もう、やめたほうがいいですよ。」
雅雪は云った。
我に返ったようなまなざしを、ことさらにも夢見る色にさわがせて女は雅雪を見あげた。
「なに?」
「好きでしょ。」
さゝやく。
「おれのことが。」
ね?…と、
「好きで好きでたまらない。」
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