きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□梅か枝にきゐるうくひす春かけて/1
以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。
前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。
短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。
読んでいただければ、とてもうれしいです。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる
五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや
滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの
亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは
きさらぎの雪
春
文型
春哥上
題しらす
よみ人しらす
梅か枝にきゐるうくひす春かけてなけともいまた雪はふりつゝ
或る風景
二月、曇りのいろをしる空がその色をたゝすなおにさらした。
十七歳の雅雪は雨のふりはじめる前の匂いをかぐ。その馴染みの喫茶店のチェ・ゲバラのポスターの下でアイス・コーヒーとマイルス・デイヴィスのバンドの騒音に時間をつぶしたあとで、代々木のほとんど客の無かった店のそとにでれば町は閑散としてゐた。そうであるしかなかった。その町は日曜日にまでそとからひとをよびよせるだけの力をはなんらもっていない。原宿にも新宿にも澁谷にでも人をつれだしてしまえば町は閑散とし、抑ゝいつでも閑散としてゐた店内と地續きに、思えばジャズ喫茶でもなく豆をじぶんで輓くでもなくて、さらにはかならずしも愛想のいいわけでもない偏屈の岡野孝文の喫茶店は客をよぶ要素はなにもなかった。たゝ地元の不良きどりの少年たちか大學生をのみそのとりあえずのたまり場にさせた。三十路をこえて學生きどりの孝文はすき放題にマルクスと革命史の研究家を気取ってゐられた。乃至、作品もなき詩人かなにもしないのんべんだらりの路傍の永久革命者をかでも。——おれは。
と。
孝文は云った。
「書くことを放棄してるわけ。」
ランボォみたく?
「實朝みたく、だよ。むしろあえておれは飽く迄も日本に所屬する現實に所屬するね。…奴は」
わらい聲を聞く。
「我が國初期の憂國の詩人だと、おれは思うぜ。しってるか?」
その、汪成時をはじめて引き合わせたときにだったか、成時と何回目かにともづれて逢ったときにだったか。
笑ってゐたのは汪成時そのひとだった。日本風の僞名の中國人はいつでも邪氣もなくてかわいた聲にわらう。
成時のお抱えのわかい長身の中國人をあわせた四人で有栖川公園に櫻を見に行ったときに、「われてさけてくだけてあとは、…」長身のわかい男は「わだつみの飛沫の散るまゝに」
成時の背後によりそう。
美しい。雅雪の目にも色氣が見える。
ユイシェンはゐなかった。退屈な會合に
「なにものこさない。」
せめてあの肌も肉體も身のこなしさえふくめた女装の男の姿でもあれば、
「こと葉のゼロ地点で思考するわけだよ。」
と。
雅雪はひとりで倦んでいる。
長身の男が、自分のうつくしさをよくしった確信のうちの、やわらかい笑みをなげ棄てる。
日曜日の午前に代々木の住宅地は人氣も无いたたずまいを木立の翳りと落ちたひかりの茫然のまにまにさらす。飼いならされた街路樹のなげる影がアスファルトに靑くらい影を投げた。澁谷のちかくだった。深夜の寝室にこの町に孕み込まれる人の群れはその、近場の繁華街にでも出かけたに違いない。そこに東急の開發は土地を掘り起こして迄やみそうもない。なにをもって彼等があんな窪地の町に取りつかれるのか、雅雪は企業集團の狂氣じみた振る舞いにもおもえた。
一度元代々木の家に歸ろうともおもった雅雪の二の腕に不意に雨の粒が落ちて、雨、と。
彼に遅ればせの認識がこゝろのうちに擴がりはじめたときには、唐突な豪雨はいきなりに降りしきった。二月のはじめの二日前に、雪さえも降らせた気温のなかで大粒の雨は雅雪の頬に痛みをさえ與えるも、小走りに逃げることを厭うて雅雪はそのまゝに歩いた。なにを気取るでも无くて。いってしまえば感傷じみたこゝろのまにまにと、地元の人間しか通らない路地を潜って、代々木八幡の駅近くに差し掛かった時に、そこの古い和風建築の門の作った小さなひさしに女が立ってゐた。
そのかろうじての雨宿りの姿に、女の傘も无い叓はあきらかだった。女に見覺えがあった。
いつか、どこかで、他におなじくにむくわれなくも雅雪を愛し、ふたゝび顏をあわせればまた數日の夜はよなよなに雅雪の名殘らせた姿を夢に見る叓になる、そんな女のひとりに違い无かった。
女の白人じみて白い肌が白濁するそらの下の黒ずんだ氣配の中に似合い過ぎて、最早あとかたもなくも周囲にうずもれて仕舞うかにも見えた。女の目が向こうから來る男の、雨の中の氣配にも氣づいて顏を擧げた時には眼差し。
いつか見た夢をいまだに醒め乍らにみているような、どこかしらに病んだ氣配のあるそれ。
おもいだす。雅雪は、それが中学にゐた女敎師だったことにき附いた。雅雪の担任に成った叓も无く、籍を入れた部活にかかわったわけでもない。かれの授業を持った叓さえも无かった。
もうすぐ三十になろうとした頃合いの、その女の眼差しは雅雪を見留めた瞬間にありきたりの逍遥のうちに突然に今、世界が正に目の前に果てたのを見た、そんな色を曝した。
見開かれた目が急激な失語の沈黙に、色めきだつことさえ知らずにもその刹那の凝視のあとで、見つめたまゝにも眼差しは顯らかな喜びの氣配をだけまき散らす。なまめいてひとり勝手な蠱惑的の匂いをさえも持ちはじめた瞬間に、その自分の匂いに押しつぶされるようにして女の双渺は光を失った。
女は雨の中に前のめりに倒れた。
雅雪はそのベージュのコートの背に立つ雨の飛沫を見た。
ひやまゆみを、と。
雅雪はようやくにして女の名前を思い出していた。
二十九歳の檜山弓緒が五年前、大學院まで出てから赴任した代々木の中学校で、その敎員初年に目をうたがうほどに美しい少年を見た時に、あるいはどこかしらに不穩な切れ長の目の色にもか、弓緒は戀の胸のざわめきよりも先に倫理の葛藤をこそ感じた。なにもかも見通して、と、俺には。
もう見たいものなど何もありはしないんだ。
そう耳元にさゝやくよいたにもおもえた眼差しを、なんというでもなくなにゝでも向けて棄ておいた、その少年が彼女につきつけたのは鼻孔の奧に神經を燒きつくほどの禁忌の匂いだった。彼女の眼の内に少年は禁忌そのものだった。おなじ匂いを周囲の女たちも嗅ぎ取る叓は知れた。
同じとしごろの女子学生、乃至教員たち。年の比、夫子供の有無なにも差し置いて、樣ゝの目が一樣に、それぞれの色の内に少年を強姦しているかにも見えた。赤裸ゝな集團暴行が、そこにいかなる肉體の接触もなくて明らかに加えられて羞じないのを弓緒は同じき女の體のそものゝうちに羞じた。夜、電車二駅ほどのさきの實家の部屋で、新學期のスケジュールと敎案の準備をしようとした夜の八時半に、自分こそはかの少年をもっとも凄慘に恥ずかしめた張本人で在る叓を知った。
いまさらに、自分に隱せもせずにかの女は彼を戀していた。
せき止めようのない苛立ちににた焦がれがのどの奥を燒いた。
生まれてはじめて戀を知った気さえして、おもえば眼差しの見い出す世界のことごとくは見たことも无かったあたらしい色をさらすものを、眞砂雅雪という、純な、さまざまな眼差しに穢されつづける少年の、おさなさを殘すやわらかな息吹きに自分のこゝろのふれるのを弓緒は眼差しごとに避け續けた。
夢に見た。
雅雪は何度も、醒めた意識の内にさえあくがれ出でた女の黑い魂が彼の眼差しのうちに自壞し、ないし破壊するのを見た。
極彩色の舌に、自分の腐った黑の體躯をなめた。
咀嚼する。
玉散る。
赤のつぶ。
齕む。
自分の喉を。
その腕。
引きちぎった足。
或いは唇そのものをのけぞりかえった頸の先の頭部もろともに。
咬みつき、喰らう。
そのたびに舞う血の玉の繊細なわなななきに時に雅雪は目を奪われた。女たちの魂はお互いに殺戮をかさねて倦まない。執拗なまでに、その凄慘に雨がふる。
雅雪は冷たい雨にぬれる女をすて置けなかった。近づいて、膝間附くようにして雅雪が上をむかせたときに、女の死んだにも見えた脱力の體躯は失神の息遣いを雨つぶにぬらされる唇に吐いてゐた。
化粧もせずに外に出たのか。うすくひかれただけのそれを雨水の容赦もなさが滌い流して仕舞ったのか。
どちらとも思おえなくに、雅雪は女のさらす冷えた素顔を見た。
見い出す。
目を開けた弓緒の、いまだに自分が目覺めたことの事實にさえおもい當らない眼差しは自分の居場所を定められない。
自分のさっきまで失神のうちにあったことさえも認識してゐなければ、それは見かけない風景だった。白い天井があった。壁紙が張られていた。見たことも無い天井だった。
喪失感にゝた感覺が生起して、あるいはすぐさま忘れさられた。
雨の音の、もはやなかったことにき附けば自分のうたれた雨の在ったことにき附く。
そのときに、今の今まで、あるいは夢の内にでも降りしきる豪雨の総てを包み飲み込む騒音をきいてゐたことを思いだした。耳のうちがわの皮膚がいまだにその粒立つ音の群れの名殘を響かせた。
迷い込んだ気がした。
花のにおいがした。
連れ去られたに違いないと、弓緒は根拠もなくに確信した。
數年のまえに町に凄慘な事件のあったことは、忘れかけながらも忘れてはいなかった。
部屋には誰もいない。
肌に毛布が懸けられてあったことに、已にき附いてゐた肌はようやく意識にほのめかす。
弓緒は身を起こした。
肌を毛布がながれ落ちた。
近くに火の燃えるような、煽る温度があった。
電気ストーブが部屋の真ん中に焚かれているのを弓緒の眼差しは見留めた。
立ち上がった時には自分が下着さえも殘さずに素肌をさらしていることにき附いてゐた。
恐れはなかった。
誰が自分を奪い去ったのか、いまだに戻らない最後の數分の記憶にもかゝわらずに、彼女は已に知っていた。
自分の心が狂氣した氣がする。
わかるはずもないことを自分はいまじかに素手で知って仕舞って居た。
壊れた、と。
弓緒は、自分が壊された、とも。
匂う。
その犯人は用心ぶかくカーテンを閉め切った窓際の机の上に置かれた靑むらさきの花だったに違いない。
花は馨り、花の名前は知らなかった。
ちか寄って、弓緒は締め切られたカーテンの生地の透き通らせたひかりが自分のはだにふれるのを感じた。
ほのかにくらい室内の中に三輪の花と綠に白いすじの葉は、あまりにも瑞ゝしかった。
花を挿したコップの半ばをみたす水は動きをなど一切眼差しに曝さない。
花の莖の肌に吸い込まれつづけているというのに。
嘘。
と。
あまりにも上質な嘘は、花がつくのか。
水。
それとも、單に眼差しが曝す限界の見せる嘘なのか。
嘘には違いない。
押し付けられた鼻は、嗅ぎ取る香りに部屋の中に充満する芳香の、花の馨のせいだけではないことを知らせてゐた。
その、胸を燒く馨のうちにあまらせた馨り。
匂い立つ、心をうちくだいて噛み千切るような。
あの子、と。
弓緒は思いだした。
肌にこの、おなじにおいをたてた少年が、むかしひとりだけいた。雅雪、というその名を舌の奧がなぞるまでもなくて、忘れてゐたわけではなかったその少年のおも影が弓緒の心の内を飲み込んで、窓の外の、雨上がりの鳥の、部屋の時計の、それら耳に感じられるかすかな物の音の群れの存在の散亂にも氣づかない儘に何の氣も無くて振り向き見れば、開け放たれたドアの傍らに少年はゐた。
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