きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□枝よりもあたにちりにし花なれは/6
以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。
前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。
短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。
読んでいただければ、とてもうれしいです。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる
五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや
滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの
亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは
きさらぎの雪
春
文型
春哥下
東宮雅院にて櫻の花のみかは水にちりてなかれけるを見てよめる
すかのゝ髙世
枝よりもあたにちりにし花なれはおちても水のあはとこそなれ
或る風景
(承前)
夢を見た。
午前の歷史の授業のあいだにうたゝ寢するでもない雅雪の眼差しは見い出す。
降りしきることも無く空間に雪の粒がかさなって滞留する。
うめつくされた眼差しは雪の白の細粒の群れのに交じり合わないで孤立する雪美の痙攣する躰躯を見詰めた。
雪はその黑の肌にもふれない。
或いはそれは肌というべきだったのか。無數の筋の群れに血のつぶをわなゝきあげて舞い漂わせながら、玉なす血の玉の群れは雅雪にまでふれようとするすれすれにさわぐ。
音もなく。
肉の塊りに過ぎない魂は喰いちらす。
それが香澄のものだったに他ならない叓にはき附いてゐた。
皮ごと剥がれたそれは赤裸ゝにも人間の肉体の抑の裸形をだけ曝した。
頸だったのか。
齒もない口らしき穴の広げられた空洞が七色の渦を巻いて噛み千切った瞬間に吹き飛んだ血が舞い上がって泳ぐ。
玉の血。
くれなゐの玉の、なににふれてかその丸をこまやかにゆらがせつづけるを雅雪は見ていた。
雪美は自分が今ひとりの女に無慈悲なまでにも辛辣な殺戮を加えてゐる叓を知らないに違ない。
淸楚に淸楚を塗りたくった、面白みも無いたゝたゝ綺麗な女。
雪の粒が白い。
おとゝい、土曜日に、校門に至る數メートルの先で自分に横ざまにすれちがった香澄が、——ね。
雅雪が部活を抜け出すのを、ひとりで待ってゐたにちがいなかった。
「話、ある。」
さゝやく聲をはっきりと口にした時に、不意に前を横切ろうとしたまゝに小首をかしげて身を斜めに曲げた香澄の双渺の、憑かれたような眼差しの色の心の見えない潤みに、女が何度も彼の捕まえ方を頭の中に夜な夜なにでもおもい描いていたに違いないことには已にもき附かされてゐれば、雅雪は女をけなげにもおもうものゝいとわしくとこそ肌は拒否する。雅雪は已に彼女がこれから何を云おうとするのか知っていた。
夢に見ていた譯でも無かった。かの女のものいわない眼差しが總て、そのことごくをさらけ出していれば已に、彼はたゝほゝえんだ眼差しのうちにかの女を軽蔑するしかない。
連れていかれた部活終りの弓道場の寒椿の木にもはや花などない。
日にやけた板木柱木のあわい褐色の肌は夜の暗がりにふれた空の下にいよいよその色をくらませた。
匂う。
それとなく半歩の距離を作り續けようとする香澄がえがき出そうとしている自分の純情を雅雪は氣配のうちにだけ愛でてやる。
女に、それがこと葉も認識もなく色のある氣配としても知られている叓にはき附いてゐる。
女は幸せだったに違ない。
その時、彼女は自分が夢のうちにも焦がれた男が自分のものにもなって仕舞う夢の、うつゝにはみだしかけた息吹の中に噎せ返っていたのだから。
ふりかえりみた女の瞼が瞬いた。
眼球が押し擴げられて躬つから内側からはじけ飛ぶ。
肉片。
蔦のような物を垂らして何かにふれようともする。
乃至は、触手のような。
肉躰の殘骸とも言えないなにかとてつもなく生き生きしたもの。
雪美は噎せかえりながら咀嚼し、のけぞった半身がへし折れた背骨を突き出させていっそうの血の玉を撒く。
不穩なものとて雅雪自身のまき散らす美しさ以外にはない學校の、香澄の不在の平穩を雅雪はいぶからねばならなかった。已に香澄はなにか叓を起こしている筈だった。発見が遲れてゐるのか、或いは極秘のうちに處理しようと企む誰かがゐたのか。それでなければ秘密を公表しようとする叓の進行次第に、學校の誰かが頭を惱ませてゐる最中でもあったのか。
學校のどこもかしもたゝたゝ穩かで、雅雪はいつか退屈を知った。
晝休み明けの化學の授業の前に、その敎課担当ではないクラス担任が顏を見せた時に、その他の生徒はスケジュール變更を思った。雅雪は彼の謂わんとすることを豫期した。
担任は隣のクラスのある少女の自殺未遂を告げた。
口に表された未遂のこと葉に雅雪は香澄の失敗を知った。そして雪美の生きた魂の。乃至、魂はひと思いの屠殺ではなくて生殺しの殺戮の繼續をのぞんだのかもしれない。
まるで趣味の樣にも魂をいたぶる。
弄び、食い散らし、壞す。
俺のしてゐるのと變りはしない。
雅雪はおもわずに、頭の中に独り言散る。
必ずしもそれを望んだわけではなくとも雅雪は明らかに香澄の魂を食い散らし、辱め、壞し、弄び、已になにもかも手遲れの破滅した世界の中に追い込んでいた。
嗜虐のおもいとてもなく。
めの前に自分の生きた魂の黑い皮膚を見た氣がした。
自分の魂も彼女に咬みついて食い散らしたのだろうか。
あくがれいづるおもいの燃え立つなにをも香澄になど感じなければそんな筈のあるはずもなくも、慥かに自分のその氣もない牙は雪美のそれよりも深く決定的に香澄の骨格を迄碎き咀嚼して仕舞ったに違いなかった。
結果としてみれば、——と。
思う。
俺はあの女の魂を屠殺してしまったのだ。
「原田も、今、頑張ってるんだと思う。」
担任は云った。
「だから、あのこが復歸して來たら、やさしく受け入れて遣ってほしいとおもう。見舞いは、ちょっと、まってくれ。容態が安定して、病院の許可が下りたら、代表者にいってもらうから。まだ、彼女の躰は、こゝろも、いま、生きようと、必死に戰ってる最中だから。いつになるかは、ちょっと判らない」と、香澄は飛び降りたのだと云った。
駅前の山手通りの手摺を越えて、やわらかな丘陵の下の代々木八幡の町のアスファルトの上に。
午前九時半。
息はあった。
駈けつけた救急車が連れこんだ救急病院が彼女の一命を危ういところで此岸にふたゝび括り付けた。
凡ては、と。
雅雪はふいに気付く。
失敗。
しくじった。
いきることにも。
戀することにも。
死ぬことにさえ。
雅雪は目を伏せて、彼の机の上に投げた右手に長い指を伸ばした誰とも知らない死者の黑い爪のふれ合いそうな距離を見た。
その夜、家に雪美から電話が在った。
八重子が息子にできた秘密の戀人を發見したかに裝って色つく聲と執拗な嫉妬めいたくらい心とを曝しながら取り次いだ時に、雪美がどうやって家の電話番号を知ったのか、その經緯のほうを雅雪は恠んだ。
誰か後輩にでもきゝ出したに違いない。
その女を嫉妬させながら。ないし憤慨。
だれもが年上の目だって美しい雪美の雅雪への接近を、今夜の夢のまにまに思いまどうに違いない。
明日の学校で雅雪の耳に触れない色づいた噂話がながれる筈だった。
雅雪は厭う。
「だれ?」
いまだに古い黑電話の儘の受話器の向こうに、
「どうしたの?」
裝われた冷たさの聲は女は耳に樣々な意味をまき散らす。
仕掛けたわけではない。とはいえ確實に仕掛けられた網の中に女の魂はのたうち回る。
「ね。」
さゝやく。
その
「どっちの質問にこたえたらいいかな。」
受話器ごしの割れた聲を聞く。
「どっちも」
「観月です。」
「だれ?」
「先輩の…一年上だった。——弓道部の。ほら、」
「今朝、バスで逢った?」
「…そう。知ってる?」
「判ってるよ。雪美さんでしょ。母親、そういったから。」
「ひどい」云って、笑いを聲み含ませた雪美の媚が鼻にまで彼女の体臭を傳た氣がした。
「なに?」
「聴いた…」
「なにを?」…あの、——と。
言いかけた雪美は途絶えたこと葉の空白の内に、彼女の気配をふるわせた。「原田さんのこと?」
雪美は否定もし無ければ肯定もしない。
「殘念だね。かすみちゃん。」
「観月先輩も知ってるんだ。事件の叓。学校で?」
「じゃなくて、ゆっこが。」
「誰。後輩。…部活の。」
「村谷?」
「びっくりした」と、ふたゝび。
雅雪は耳を澄ます。
沈黙。
耳に雪美の押さえた息遣いかかすかなノイズに成って、聞こえなくもない。
「ね。しっかりして。」
ゆきのふったひは
「おれ?」
いつもかすかに
「ショックじゃない?」
あかるくて
「そうかもね。」
それともなくに
「ね。」
いつも
「なに?」
もう
「そばにいたげて。」
ゆきのふって
「だれの?」
つもってあること
「かすみの」
それをすぐさま
「あいつ?」
きづかせて
「いてほしいはず」
つもるおもいは
「関係ない。」
とけもせず
「…また。」
すでにゆきさえ
「きらいでしょ。」
うらぎった
云った瞬間に、刹那にみたない沈黙を雪美は呉れた。「観月さん、あいつのこと嫌いじゃない?」
「なんでよ。」
「みんな知ってるよ。」
「あのこ、いろいろある子だから、…」でも、と。
雪美はつぶやく。「頑張ってほしい。あの子に。」
雅雪はほゝえむ。
彼女は嘘は云って居ない。
かならずしも。
絶對に。
そうき附く。
十九歳になった時、雅雪は雪美に再會したことがある。それは單に偶然だった。大學に通いもせずに汪成時の赤坂の會に入り浸ってゐた雅雪はユイシェンという名の中国人女と逢った歸りの晝下がりの暇つぶしに五反田を歩いた。目当てともない散策の、散策とも呼べない目当てと謂えば櫻だった。
事実、川べりを埋め盡して並んだ木立に咲き亂れた櫻の花ゝはアスファルトにも草の上にも流れる川の水のおもにも散った。水面ごとに流れる白い帶の糸の弛んだ散亂とも見えた色彩の波立ちをまなざしの傍らにおさめる。
別れたばかりの女を思う。
匂うばかりにも美しい女の形のうちに男の心を宿らせた男。
乃至は、女。
雅雪はかの女が汪成時の妄想をさらにだにゆがませて、焚きつけて、妄想に淫して身を亡ぼすに違いない日本人めかした僞名の中國人を好き放題に翫び、そのゆくすゑをひとりで愉しんでゐることに違いない叓にはき附いてゐた。
匂うともなく花の匂いをかごうとする。
きさらぎの花の下にて春死なんと、汪のお気に入りだった何処かの誰かのいつかのフレーズをおもいだす。
いつのきさらぎに、ユイシェンは汪の魂を滅ぼして仕舞うつもりなのだろう。
あの女。
いぶかる。
鼻は必ずしも花の匂いをかぎ取らない。
ふいにぶしつけなほどの強引さで肩をはたかれた雅雪は自分の躰に馴れない他人の息吹の傲慢に立ち止まる。振り向いたそこにいつか見た女がいた。
女のかすかな上目遣いの眼差しにはうかがうような色がふるえて、彼女の心はただ繊細な心の思いの渦にもてあそばれているのだった。
喜びを、ただひとえに刻んで。
薄く化粧をひいただけの肌はその下の肌の極端な肌理の細かさをほのめかす。
記憶を呼び戻そうとしてあることを雅雪はおんなの爲に隠した。
女の瞼が一度瞬いたときに、雪美は聲を立てて笑った。
「忘れてる。」
眼差しが彼女の心のいまだに戀してあることをなによりも先に告げてゐた。——ね。と。
「わたしの叓、忘れてたでしょ。」
雅雪の髪の毛に櫻の花辨が落ちていたに違ない。
雪美はもたげたひだり手にかれの髮を払った。
「覺えてるよ。」
「嘘。」
二十歳になった雪美を雅雪は思いだせない儘にたゝやさしく笑んで、女はそんな雅雪の我が侭にも思えた心の内を已に赦した。
女はゝかないほどに美しかった。化粧のせいなのか、積もった時間がそうさせたのか。
同じような春。
いつか女と知っていたのと同じような春に違いなかった。記憶を呼び起こすのを諦めた雅雪は、始めてみる気がするどこかに時を同じうした女にほゝえむ。
「めぐろがわ。もう、さくらもおわりだね。」
さゝやかれた女の聲を聞いた。
そらした眼差しはそのみゝにふれたこと葉にさそわれたともなくに川の水のなみ立ちのかすかなはく濁にふれて、光。櫻のはなのいろのみならずふりおちてそゝいでふれた日のひかりの反しゃのきらめきをさえ散らしつゝも見い出されるみなもの花の白させもきらめけばかがやきはいくえたよりもあたにちりにし花なれは
おちても水の
あはとこそなれ
女は雅雪に見蕩れてゐた。
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