きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□枝よりもあたにちりにし花なれは/5
以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。
前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。
短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。
読んでいただければ、とてもうれしいです。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる
五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや
滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの
亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは
きさらぎの雪
春
文型
春哥下
東宮雅院にて櫻の花のみかは水にちりてなかれけるを見てよめる
すかのゝ髙世
枝よりもあたにちりにし花なれはおちても水のあはとこそなれ
或る風景
(承前)
嫌惡が鮮烈にも自分の喉の奥に張って、雪美は自分のまなざしが歎きにちかい色をおびるのにき附く。
…大變だね。
「死んだ方がいいんだよ」
あのこ、
「生きてる資格ない」
たいへんなだね。
さゝやく。
「いいじゃん。」
雪美は自然な微笑を解かない儘に「…あのこ、すっごく、いい子だよ。わたし、知ってる。」云った。
「もう、した?」
雅雪の惱ましげなほどにも邪氣の无いほゝみがまなざしに痛みをさえ投げこんで
「なに?」
「キス、とか。」
恥ずかしげもなく聲をたてて笑う雅雪に彼女は彼がまだなのだという解答を見る。
「まさか。」
わたしは、と。
「でも、」
大胆に成れる。今日は
「いまどきのこって、さ。」
はずかしいくらいに
「はやくない?」
大胆に。
「お前だっていまどきじゃん。お前はもう、なの?」
「違うから。」
「まだ?」
「しらない。」
おもった。雪美はこのまゝ降ってわいた自分の大胆に淫し續けたくも、と「應援してるよ。」
その氣めかしてささやく雪美の聲を聞いた。
已に、滿員のバスの中でひときわにうつくしい男を占領した髙慢はそれともなくに雪美に兆してゐた。なまめくほどにも女は自分の今に醉ってゐた。からださえ匂う氣配がこぼれた。
まばたきのひとつにだにも。
「わたし、…」
「かんがえとくよ。」
こともなげに言う雅雪にふれる朝のひかりにさえ、いとおしい。かれの芳香が名殘をのこす氣がする。
「…ね。」
見蕩れている。
雫。
血が埀れた。
しづく。
頭の上に曝した誰かの魂の裏返って頭部を覆う口の押し広げられた空洞から埀れるそれ。
玉の雫。
ういて、ゆらぐ。
生きたそれか死んだ不滅のそれかは知らない。
擴げた手のひらに戯れに玉をなして轉がる血のつぶの數滴を、雅雪はまなざしのうちにころがした。
校門に歩く眞砂雅雪は朝の人の群れの進行にあらがう一人の少女の影を見た。
少女は歸っているのだった。
朝に、ひとり反發するともなくて孤立したその歩みが一瞬に、雅雪に自分がその他大勢の謂わば家畜どもの一羣に含まれたひとかけに過ぎない事實を見せつけて、彼は聲を立てて笑いそうになった儘にまばたく。
香澄だった。
誰が呼び止めるでもなく、或いは彼女の姿など誰の目にも見えてゐないのではないかとも疑う。いまだに醒めない夢のうちにでも落ちていた錯覺にとらえられて雅雪はおとゝいの一件など忘れた。すれ違う寸前の彼女の前に、その名を
「…原田。」
呼んだ。
その聲に邪氣も翳りもないことを雅雪は他人の聲を聞いたように思う。
いぶかる。
心に、おのゝきになる數歩前のあわいざわめきが在った。
その氣配をくらく染めた少女の佇まいは彼の目にも誰の目にも明らかに不穏な筈だった。
何故、と。
どうしてだれもが彼女を呼び留めないのか。
雅雪は不意に正氣にかえったかにおもえて、まなざしにその捉えた世界を見詰めようとする。
少女は一瞬茫然とした。
よびとめられて、何の認識もない眼差しが雅雪を見た。
元から茫然としていたまなざしは見開いた目にものゝかたちをまさぐる。
彼女は彼を見ていた。
我に返った少女はまなざしの、捉えていた焦がれる男の姿をおくれて見い出す。
ふたゝび、香澄の眼差しは喜びにふれた。
雅雪は眼をそむけたくなる欲望に刺し貫かれて、已にこと葉はうしなった。
侮辱された戀のおわれないおわりなど香澄は瞬時に忘れ去って仕舞ってゐたに違いなかった。
「歸るの?」
さゝやく。
雅雪は少女が彼の吐いたこと葉を理解さえできてゐない事を知る。
「お前、…」と。
言いかけた雅雪のくちびるをなじるように、少女はこと葉を吐いた。
「やっぱり、無理だからさ。歸るね。」
ほゝえむ。
雅雪は彼女のそのまなざしを憐れんだ。
香澄の昨日の一日をおもった。
なにもかにもが枯れ果てゝ、もはや地獄の底さえ見い出せはしない純な美しさが、その燃え盡きた双渺にはあるように思う。感傷、と。雅雪はおもって自然に、零れるようにも笑顔を見せる。
…そ。
つぶやいた彼の聲を、香澄はすなおに耳にいつくしんだ。
惜しい氣がした。
何を告げるともなく、不意に訪れた、こと葉もなくてすれ違う沈黙にやり過ごされるにもにて、歩み始めた香澄が自分の傍らを過ぎていくのを雅雪は悲しくも、と。
すいこむ。
いうべきこと葉もなにもない。
はく。
語りつくされた譯でもなんでもなくて。
あるいは、盡すべくまで語らる可きなにがあるのか雅雪は判らない。
すれ違って視界から消える女に感じられた切實な離し難さはせつなくも彼の眼差しをくらませたが彼女が通り過ぎた所に何も殘らなかった。
音。
さわぐ譯でも無くあふれかえった人の群れの聲。
衣擦れの、乃至足音の。
おと。その群れ。
をと。
聴いた。
忘れた譯では无かった。
とはいえ確實に雅雪に一瞬の前の身を切るせつなさは存在しなかった。
歎かわしいほどに變らない風景を擴げたまなざしのうちに、雅雪は自分の冷酷を見る氣がしてゐた。雪美を追い詰めたのは自分に違いない。
その罪が正に目の前にあった。
絶叫しているに違いない。
目を剝いたそれは、息遣いのおとさえ耳に触れさせない完全な無音をその存在にだけさらして、音のない黑い肉の塊がのけぞって腹をひきさいて開く口か肛門かを開ける。
雪美が吹き出した血が玉を成す。
空間は、溢れかえった死者と生きた魂のせいでいつでも血の玉を散らす。
押し広げられた又にいきなりに突き出して生じた頭部が吹き飛んで眼球を生む。
紫いろに圓をなして回転するそれがあざ笑うべき歪んだ形態に自壊していく。
生き霊。
黑。
香澄はもう助からないに違いない。
雅雪はそうおもった。
悠貴は校門の前にその黑い肉の塊を腐敗させては生成し留まる事のない形の変容を曝しながら香澄に取り憑いたそれは裂けた口の牙も齒さえもない空洞の口に香澄の肉を喰いちぎった。
思わずに振り向いて、向こうの角を曲がろうとする香澄の姿を見た。
匂う。
夥しい血の匂いに雅雪が雪美を振り向き見ると、眼の前に素肌を曝した香澄が立ってゐた。汚物を吹き飛ばして飛び散った眼球に、雪美の黑い舌が幾重にもからまって突き出して、肌は食い散らされる。
雅雪は目を伏せて、おもわずにその樣の餘りの無樣をわらった。
香澄は其の日断りもなく學校を休んだ。
早朝にその朝練にも顏をださなかった香澄の姿の構内を彷徨うの見た学生たちの証言が担当教諭を戸惑わせた。
雅雪と最後に逢っていたことをは誰も観てゐなかった。
すくなくとも、告げるものはなかった。
雅雪は沈黙を守った。
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