きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□枝よりもあたにちりにし花なれは/4
以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。
前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。
短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。
読んでいただければ、とてもうれしいです。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる
五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや
滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの
亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは
きさらぎの雪
春
文型
春哥下
東宮雅院にて櫻の花のみかは水にちりてなかれけるを見てよめる
すかのゝ髙世
枝よりもあたにちりにし花なれはおちても水のあはとこそなれ
或る風景
(承前)
歩く。
學校までバスに乘る。
人の気配が疎らに騒ぐ。
バスに乘って、同じ年の比の學生に乗り合わせるが取り立てて、すくなくとも雅雪の方では知った顏を見ない。止まったバスが人を二三人だけはきだす。
學生ではない、中年の女と老人。
老人の性別は判らなかった。
たぶん、背の曲がりかけた男。
肩をいからせたようにも見える。
降りた以上の人を乗せたバスに立つ人の群れが押し流されて、座っている雅雪の傍らに知った女の氣配を届けた。
名前の知らない女。ふたつ上の学年だった。
卒業してどこの高校に入ったのか知らない。
久しぶり、と。
頭の上に声がして、見れば女の肩ごしに隠れるように観月雪美が立ってゐた。
いつもの、整い過ぎて目を閉じればその顏をとっさに思い描けない、彼女のその顏がほゝえんだ。
淸楚に淸楚を塗りたくった、おもしろみもない顏を雅雪は眼差しにおさめながら、血まみれの顏。
崩れた、黑いそれ。
窓にへばりついた何処かの死者の誰かの黑い肉體が突き出した舌極彩色の渦ををさらした。
ガラスをなめる。
女は夢にあくがれいでた魂の通ったゆきどまりに昨日の夜に曝した痴態など知りもしない。
彼女が雅雪以外の男に戀など出來るはずもないことに、ふたたび雅雪はおもい當った。
俺に、と。
思えば、出會わなければあたりさわりもない男と睦み、あたりさわりもなく戀し戀されかわされた戀のうちにむすばれて仕舞えたに違いなかった。
壞したに等しい、と。
おもう。
おれはこの女の未來のすべてをさえ已に。
不意に聲を立てゝ笑った雅雪は女に、自分の洩らした笑い聲の邪氣もない素直に意味をつけてやらなければならなかった。
死者の舌がさけて紅蓮にも近い色を遠い奥行きに曝した。
あまりに場違いな空間性はもはやこの世界の常識もなにも忘れてそれが在る事を明示して、たゝ見苦しい。
「俺さ、彼女出來るかもよ。」
したしく戯れ言を謂いあう仲ではなかった。
あくまでも女の意図も无く仕掛けた繊細で病的なまでに息をひそめたまなざしに、こと葉のない氣配を感じあうだけの、と、「…笑っちゃう。」さゝやく雅雪はその當然の距離感を唐突に、忘れてゐた。
女はいきなりの侵犯にあらがわなかった。
あるいは喜びを感じる餘地さえも无くて、——え?
と。
瞳で。
「なに?」
戀をする。
なになに?
いつも。
ほんと?
瞳で。
なにそれ?
ぼくらは。
おどろく。
戀を。
雪美は自分の不意の饒舌に驚き、羞じ、同時に淫した。
それぞれのおもいに滿たされたいくつかの魂のあるかないかのかたちがかたまりにならずにぶれるも、雪美はたゝほゝえんで雅雪をまなざしに愛した。
「かすみ、」
聲。
「しらないかな…」
ささやく。
「きのう、さ」
聲がささやく。聞く。耳を
「なに?」
すませるともなく雪美は聞いた。
「告白されたんだよね。」
バスがゆれる。
かすかに、なんどめかに。
雅雪は自分の曝すはじめての馴れなれさが雪美のこころにひろげた波紋を思った。
「うそ」
「ほんと」
「また?」
雪美は自分が聲を立てゝわらったのにき附いた。
眼の前に彼女が戀に戀をかさねる男が、その身に固有の芳香をまき散らしてバスに揺られてゐた。
夢の樣にもおもった。
ましてやほゝみが自分の爲にだけやさしければそれはまぼろしにすぎない。
一瞬、こと葉をうしなった雪美に、雅雪はかの女のこゝろのさゝいなふるえを感じた。
うつゝよりもあきらかな。
嫉妬したに違いない。
雅雪は思う。
自分が愛されるすべなどないことをしりながらも嫉妬に狂って夜の夢にもさ迷い出す。
「香澄ってしらない?」
なにか、思い出したような唐突さが聲にあるのに雪美はき附いた。
「だれ?」
「後輩でしょ。お前の、」と。
年上の少年に謂われたそのおまえ、の、その呼稱に雪美は隔たりをさえ見失ったあざやかな煽情を見た。
ぼくらは。
「わすれた?」
瞳で。
誘惑された、と。
戀を。
素手に素肌をさわりたくられた息吹に雪美はかすかなめまいを神經にはわせるものゝのたうちまわる八重の舌が晒す色彩になんの意味があるのか。
雅雪の眼差しのうちに、黑い眼球らしきものを裂けた喉のつけねにとびださせた死者がようやくに、自分のはらわたを引きずり出したのを見た。
「部活、弓矢かなんかだったじゃん。」
「まだ、やってるよ。わたし。」
「なにあれ。弓道部?」
二年前だったか。弓道で雪美のひいた弓が
「たのしいよ。」
とおい向こうに置く的の端に
「姿勢、よくなる」
突き刺さるのを見た。
矢の端がわななく。
突き刺さって、ゆくすゑのおわりを知ったそれが。
遲れて、矢がたてていた弦をはじいたような音の耳にふれていたことにき附いた。
「原田香澄」
おもいだす。
雅雪のくちびるがその女を名指しにさゝやいたこ親しげに、自分が嫉妬を容赦もなく萌えださせてしまったのを雪美はき附かないまゝにも、その芽は神經を喰い散らす。
さらけださせたはらのうちに靑い澄んだ空間がどこまでも広がる。
死者のその引き裂かれた「わすれた?」
覺えていた。
およそ弓道に相応しかるべき女。
皮膚ごと剥いで禊してから弓を持つべきだとおもう。
繼父の慰み者にされてゐることは知っている。
それで恥ずかしげもなくに、と。
はゝ親は十二歳の春に死んだ。
雪美は険惡だったはゝ親を彼女がなぶり殺して仕舞ったのだとしか思えない。
かりに手を穢さなかったにはしても。
まるで戀人かなにかのように繼父寄り添って休みの日の渋谷をあるく彼女が、その男ほしさに殺して仕舞ったに違いない。
飛び降りた。
公式には事故だと云った。
すくなくとも學校はそう発表した。
彼女を、…と。
担任の柳沼は云った。
なぐさめてやってね、と、傷ついた心をいやしあう義務があなたがたにはある。
めつきのいやらしい先生。
すこし莫迦な。
虛僞。
堕ちる。
早朝に、中学入学の春に引っ越してきた彼女たちが住む山の手通り沿いのマンションの五階のベランダから。
どうやって、なんの事故で落ることが出來るのか。
人は朝な朝なようもなくベランダから身を乗り出すものか、と。落としたんだよ。
あいつが。
朝倉瑞穂がみゝ打ちした。
戀がたき。
自分より先に雅雪に戀した。
それでなきゃ、自殺したんじゃない?
舌打ちに似た。
瑞穗の聲は。
「遺書は?」
さすがにかけないでしょ。——だんなさん、寝取られたので死にますって?
聲。
侮辱に燃える笑いにふれる。
それら、息。
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