きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□枝よりもあたにちりにし花なれは/3
以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。
前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。
短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。
読んでいただければ、とてもうれしいです。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる
五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや
滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの
亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは
きさらぎの雪
春
文型
春哥下
東宮雅院にて櫻の花のみかは水にちりてなかれけるを見てよめる
すかのゝ髙世
枝よりもあたにちりにし花なれはおちても水のあはとこそなれ
或る風景
(承前)
夕方には正純は歸りの電車に乘った。
驛まで見送った。
まっすぐに歸る氣になれなかった雅雪が代々木八幡の商店街に歩いたのは、だから何の目的があった譯でもない。商店街の先にちゝ親の姿を見つけた。ひとりだった。タクシーから身を出して、一瞬の背伸びをした眞砂龍也が雅雪の存在にき附くはずもなかった。
雅雪は小道の影に身を隠した。
龍也に顏をあわせる氣にはなれなかった。
不意に想う。血がつながっているのか。
小道の翳で、たしかにゝた所のない龍也との、おもえばなんのかゝわりもなさげな肉體の晒した血の絆の希薄さおもった。雅雪は八重子とも似たところがない。まるで、どこかで拾われた私生児だった氣がする。
一人っ子だった。
子供のうまれない宿命のふたりが兩親もろともに無くした赤子を引き取ったのだとしたら?
或いはそうに違いないと、信じた譯でもない確信が雅雪の心に染みた。
莫迦げた、と。
躬づからに自虐じみたえみを隱す。
その夜寢苦しかったのはその、すぐにも忘れた不意の確信のせいではない。
夢を見た。
鮮やかで、執拗な夢だった。
醒めかかっては引き戻されるその夢は、なかば他人の見た夢だったに違いない。
百合の花の一面に咲き誇った水のおもにその少女は胡坐をかいた。
恥ずかしい程にも淸楚なまなざしに雅雪をみつめ、わらう唇に極端な淫蕩が埀れる。男は美しい。
見い出されたまなざしのうちで、その正面に見る男が水面を埋め盡した百合の花を侮辱するがまでにも美しいことに、男がき附いてゐるとは思えない。
舌なめずりするわけでもなくて、已にまるく開かれていた儘の口から突き出された舌が、口の大きさを裏切る巨體を曝したまゝに脈打ち、のたうち、いよいよに膨張し、——無樣だぜ。
雅雪は独り言散た。
死んで仕舞えばいい、と、ささやくおとこのくちびるのためらうようなふるえに雪美は男のこゝろのやわらなかゆらめきを思った。
さゝ波む。
はかないほどにかすかな。
こゝろの振動。
聴く。
雪美は羞じてそらしてしまう寸前に見つめた眼差しの、いたたまれずにとざしてしまう寸前の双渺のうちにいつくびめかにも男をみつけだして、少女が花にふれるたびに百合の花辨は引き裂かれて紫色の血の玉をちらした。
ゆらぐ血の玉は空間に泳いだ。
それらに、自分に触れられることを恐れた雅雪は躬づからのの小心をあざ笑う。
血まみれ風景だった。
いくつにも四肢を裂けさせた少女の体躯がふれるものゝ悉くを破壊して已まないのに雅雪はいつか歎きをしり、そのふれあいそうな距離を羞じた。音も無くて、いま、めのまえのすぐちかくにまで男のまなざしが近づくのを、雪美はうそのような自然さで自分がうけいれているのに驚く。
雪美は自分の大胆を知った。
夢の中にまで匂う彼の肌の芳香に、自分の五感が呼びおこされるにまかせて叫び聲をきく。
誰かの。
自分の頭のなかに、耳の奥にだけに。
まばたく。
いつか醒めて見開いた目が、天井にへばりついてさかさまにぶら下がった黑い雪美を見つめてゐた。
魂。
最早目も鼻もない顔面の、たましゐ。雅雪をさかしまに見上げた眞ん中にあいた巨大な穴は、玉しひ。…それでも口なのか。
乃至はさかしまにひらいた肛門だったのか。
生き靈が不滅のかたちに朽ちても猶もいまだに口角動物の形態をわすれられない無樣を、雅雪は聲もなくにあざ笑いながらも血。
舞い上がる百合の花の血には体温がある。
少女が殺した花々は意識も無い儘に苦痛にだけ噎せ返る。見い出す。
花。
穢れをしらないとばかりも白く、そして胸をやきそうなほどに色けだつその花の匂いのするどい矛盾は、あるいはそのおとこが自分に掛けた戀の謎そのものだったに違いない。
永遠に、と。
あなたが望むまま永遠に私は百合の花の謎のうちに彷徨う、と。
ふれられそうになる唇の息吹に噛み千切る。
雪美の引き裂かれた口は最早原型を失って無殘に散乱した歯頚の群れがでたらめに口に咬みついた。百合の花と血の匂いが混ざる。お前は、——と。
今、惨殺される。
雅雪はつぶやきそうにってゆびさきを生き霊の口に触れた時、聞いた。
耳の奥で。
叫び声。
それはやがて少女が死に瀕したときにあげた聲だったに違いない。
ふれた黑い口が雅雪の指をくわえこもうとしたときにひらかれた雪美の眼差しは寢覺にいまだき附かないうつろな目の前の正面に微笑む雅雪の眼差しを認めた。
夢の中に、と。
憧れいでた魂の?
だれのもともつかないひたすらのやさしさがただ波紋をひろげて雪美をしびれさせ、瞬いた瞬間には彼女の眼差しはそれがすでにきえさってしまったのにき附き、引き裂いた。
兩のゆびにふれた生き霊の口をふたつに引き裂いたときに、生き霊があふれ出させた血が宙に舞う。
花。
と。
腐った匂いの血の玉。
夜の光の中にそれらだけ光に触れない黑をだけ曝す。
玉散る。
目を覺ます。
その朝、ベッドから身を起こした雅雪が下にシャワーを浴びに云ったそのすれ違いざまに八重子はあっけにとられた顏を曝す。
雅雪は不意に、顧みた。
八重子はややあって、あら、と。
それだけ口にした。
「どうしたの?」
問いかけたのは雅雪だった。
「あんた、泣いたの?」
なに?…と。
「大丈夫?ちょっと。…目の病気とか?…いやよ。病院行く?念のため…」
雅雪が問い直す前には八重子は膨大なこと葉をなげた。單に無視して入った脱衣所の鏡に、かくしようもなくて淚のかわいた跡を頬に殘した雅雪の目の、躬つからにもいたましくも見えた充血を見留めた。
ちゝ親がさきに朝の食卓にゐた。
顏を擧げて、雅雪に笑んだ。
まるで、——と。
親しい他人の振る舞いだ。雅雪は思う。
龍也の顏を見ながらに、雅雪の眼差しはいつか自分の顏のかたちを確認する。
小さな顏。眞砂龍也のそれ。
それに不自然にも突き出した額がある人には彼の秀才ぶりを見かけにだけ暗示し、それ以外にとっては単に不快のもとでしかない。
薄い唇が彼の卑屈さを不意に告白している氣がして、おもえば自分のよく似たくちびるの薄さは薄情を兆してゐたのかもしれない。
雅雪の二重のはっきりした眼差しの、伏せ目があからさまに惱まし氣な翳りの色を見せることは自分でも知っている。見れば、龍也の切れ長の目はいかにも東アジアの人間の陰湿な氣配をにおわさせた。
にている気もし、他人の顏にも思える。
雅雪は彼と朝食をとるのをいつものように厭うた。
かならずしも彼を憎み、軽蔑するわけではなかった。たゝ、めに入れるのがいやだった。
八重子が左のほうで、彼の朝食をよそい始めていたことはき附くともなくも知ってゐる。
はゝ親には何も言わずに台所を通り過ぎようとした。
父のすれ違いざまに、不意の思い附きが雅雪に笑い聲を立てそうになる。「見たよ。」
さゝやいた。
珍しく耳元に口をよせた雅雪に驚く間もなく、龍也の眼差しは一瞬の茫然を曝す。——昨日、…
「ね。」
聲をなげる。
雅雪は父に目配せする。
眼差しは彼を見詰める。
翳りさえしない。
あなたは、と。
自分にさえも嘘をつく。
雅雪は口の中につぶやく。
翳りの无い眼差しの翳りの無さが雅雪を苛立たせた。
龍也が耐えられる限界を超えて、勝手ないつか雪崩れたかのようにしても目をそらし、流れでふたゝび始めた食事の音に雅雪は龍也に女がゐる叓を確信した。
雅雪は龍也をみじめに見い出し、みじめな男に肌をそわせた女の心の慘めさを憐れんだ。
外に出た。
風に吹かれることのない大氣は若干の冷気を孕んで停滞した。吐く息の白くない叓に改めて気づいて冬の最早どこにも存在しない事を知る。
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