きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□枝よりもあたにちりにし花なれは/2
以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。
前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。
短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。
読んでいただければ、とてもうれしいです。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる
五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや
滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの
亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは
きさらぎの雪
春
文型
春哥下
東宮雅院にて櫻の花のみかは水にちりてなかれけるを見てよめる
すかのゝ髙世
枝よりもあたにちりにし花なれはおちても水のあはとこそなれ
或る風景
(承前)
傾斜を折りて、路を渡る。いつも周囲の日なたの道さえ日に翳って見せる代々木八幡に昇った。町を噂させる一連の、血なまぐさい児童殺害の氣配は名殘りさえなくて、石段を囲む樹木のむれの夥しい影の交雑のつくる翳りの内に入ればそとの明るさの如何にも厭わしい氣さえする。しげった木の葉のやさしい闇に、雅雪はこゝで暇をつぶすのが好きだった。近くの明治神宮には確實にない、冷たく冱えた氣配があった。いにしえの神の息吹きなのか、單に樹木の人の五感に見せる感傷にすぎないのか。公害の問題はいま、時にきく。そんな発展の弊害などこゝに入り込む餘地はない。海の外のかの國らがお互いに核兵器をとばし合って、最初の破滅の爆發のあとに噂通りに世界中が姿の無い破壞者が食い散らした細胞の斷末魔に亡びはてたとしても、此処だけは燃える空の赤變の下にこのまゝに殘っていそうな氣がする。
鳥がなく。
春だからだろうか。
いつでも鳥の聲が聴こえるきがするのは想い違いか。
雅雪は瞬く。
右手のあわい距離を作って並んだ幾本かの木立の影に黑い破綻した人體の形態がいき遣った。
色めくところのない純粋の、反射の白濁もない黑の躯體に穴をあけた口の昏い極彩色の舌を吐き出すように押し出して、それが狂った息を吐く。
臭気。
鼻孔の感じ取られないそれは雅雪の頭の中に素手で擦り附けられる。
死んだ女ではない。
かの女はまだ生きてゐた。
滅びた肉の形態は黑い齒をむいて、喉の奥に飢えた目があった。殘酷なほどにも愚かしく、莫迦げて、破損しきった存在がもはや自分の形をさえ維持できない儘に息吹き、齧む。
いきてゐる。
咬みついて齕み、咬んで齧み千切る。
みずみずしいほどに。
舌を咬んでは血を吹き出してえづき、のけぞって、剝き出された目がはじけ飛んで腐った血が玉散らす。
いきてゐた。
空洞があたらしい眼球のかたちを楕円にふくらませた。
赤裸ゝなほどに。
爪がその皮膚をかきむしって、埀れる腐った血は浮いた玉をなす。
いきてゐる。
顎をつかんだ掌はひとおもいにそれを引きちぎろうとしてしくじり、ぶらさがった顎ごとに背骨が身もだえする。
あからさまにも。
聲をしらない無樣なそれは苦痛の叫びをあげさえしない。
いきてゐた。
引きずり出し眼球をつぶして腹部に開いた瞼がふたゝび目を剝いた。
したゝるほどに。
下腹部のそれに突っ込まれた左手らしい巨大な塊りがはらわたの内をかき混ぜる。
いきてゐる。
引き攣った肉の塊が崩れ落ちてはのけぞった形態を作る。
けなげにも。雪美、と。
その観月雪美の名を思わずに呼んで仕舞いそうになって、あわてゝ雅雪は正純を振り向き見た。
やゝ下がったかすかな背後に添う正純は、それは彼の固有のつゝしみだったのか。ほゝえみも泣き顏も曝さない。無表情という譯でもなくそのまゝの彼の顏をさらして、それがむしろ樣ゝに彼のおもいを思わせて雄辨だった。謂わば、正純は幸福であるとはいえた。
何を以て幸せと謂うのかその実態も定められない儘にも、彼は不幸では無かった。
雅雪は正純にほゝえみかえした。
ふいにかけられた振り向きざまのそれの、意味をは終に正純は解さなかった。
彼はたゝ、慈しまれてある自分をだけ見い出した。
肌に名殘りがあった。
躬づからの肌がいまだに彼を求めていた。その温度があった。
恥ずべきだろうか。
憐れむべきだろうか。
戀を知った切なる魂と謂えばいいのか。
呪詛にまみれた呪われの生き靈と云えばいいのか。
一つ上の、卒業した後進學校に行った観月雪美がその他大勢の女たちの一樣と同じように自分に焦がれ、その他大勢の女たちの一樣とおなじように齒牙にも掛けられないでいることに焦燥をさえ感じてゐる叓は、雅雪は十分に知っている。言わずもがなに彼女の、いまだに男のひとりのくちびるだにも知らない唇は生來の淸楚に淸楚をかさねたまなざしの奧で物言わないまゝに躬づからの心のおもいを氣配に託した。
鮮明に。
あざやかに、少女は綺麗な顏をしていた。かの女に好意を持った少年たちに、その綺麗さを穢すことの惜しさに告白のこと葉さえ羞じさせてしまう程には。ひとりのこゝろの闇のうちに已に、おびただしくもかの女を穢してゐようとも。雪美の翳りの无いまなざしはわらうともないときにもほのかに笑みの匂いを撒いた。
雪美は雅雪に時に手紙を呉れた。切手も貼られなければましてや消印もないそれが、家の前まで来た雪美のじかに投函したものである叓は知れた。雪美を知る八重子がそれをどうおもっているにせよ、雅雪はあえて雪美に恩寵のひとかけでも與えて遣る、そんな氣のまよいにさえふれる氣にはなれなかった。ただ、ほかのそのほかの大勢の女たちn一樣とおなじような一樣のうちに。
肉體も醒めた意識もそのまゝに、あくがれいでた魂に自虐する雪美を心のうちに憐れんだ。
石段の隙の土のまにまに突き出した死者たちの肉の残骸が、もはや腐敗さえしらない不死の肉の殘骸を曝した。樹木の肌に寄生した名のしらない老人の子供じみた華奢な腕が握りしめた自分の拳を破損して、躬づからに喰い込んだ爪がわなゝく。
肉が千切れる。
黑い血の玉が宙に、墨染の螢のひかりにもおもわせておぼろげな浮遊を見せる。
いくつも。
無際限の。
いくつも。
無殘にも、不滅の彼等はもはや滅びることも无い彼等の存在のうちに覺醒して、意識さえもないもないまゝにその存在自體を貪る。
「お前、やせたな。」
不意に正純が云った。
「おれ?」
彼をだけ見つめていた眼差しのうちに、いまさらにその存在にき附いた雅雪に、正純は雅雪の心が彷徨い出でてゐたに違いないことをあらためて知る。笑った。羞じた。「やつれたって?」こゝろに、正純だけに謝した。
あわてた雅雪は会話を取り繕おうとした。
「心配?」
已に遲い。
正純はたゝ自分を見つめながら見蕩れた譯でも無くて自分の事を忘れ去ってさえいた雅雪を咎めるともなく可愛くだけ思う。
「だいじょうぶかな、俺。」
から廻る自分のくちびるのこと葉を、一瞬の沈黙のあとでほゝえみのうちに雅雪は忘れた。
「俺、家出しようかなって思う。」
「家出?」
鳥居に身を預けた雅雪は何というでもなく木漏れ日を見る見上げた顎の線を愛でた。
「なんで?」
聲。
「うっとうしい」
鳥の。
「なにが?」
かさなり盡る叓のない聲。
「ぜんぶ。」
するどく、にも拘らずはかなくもやわらかく、めにうつるものぜんぶ、と。言い換えようとして正純は口を閉ざした。雅雪は正純の沈黙を見詰めた。「なんか、ね…」
「なやんでるの?」とふいに云った時、やっと言いかけた正純のこと葉を断ち切って仕舞った自分を羞じて雅雪はうつむく。
地に黑い顏が目を剝いてなにも見い出さない眼差しに天を凝視する。
「なやんでない。」
正純からめをそらした儘、ふたゝび見つめられないでいるのは目にとめた死者の崩れた形の殘酷さのゆゑにではなくて、正純を傷つけてしまそうな自分の無粋を恐れたのだった。
雅雪は傷ついていた。
「ぜんぜん。…ただ、」
彼は誰よりも穢れていた。
「——さ。」
さゝやく。「なんかもう、おなかいっぱい。繼母にも弟にも妹にもちゝ親にも。…はゝ親が死んだことから立ち直れないとか。浮気してた女連れこんで正妻にしたとか。そういうのにいらだつとか。それ違うんじゃないっておもうとか。倫理的存在としてどうなのとか。それはない。美彌子さんなんて、いい人だとおもうよ。實際はね。實際もね。けど、なんか、いろんな人のいろんな心がすけてみえるじゃない。そういう濃厚な匂いが鼻について。正直、逃げたい。ひとりになりたい。」
「逃げちゃえよ。」
雅雪は叓も無げに云って、そして正純の肩のすれすれに身をよせた。
「構わないぜ、俺は」
とおりすがりの三十路の女ふたりのうちのひとりが雅雪に流し目をくれる。
「かくまってやるよ」
発情したしろい豚。
「どこに?」
云って笑って、
「お前の家に家出したって、通報されて連れ戻されるんだろ?」
もはや悩みの存在など忘れた。
「基地でも作る?」
「おれたち小学生?」
「とゝしくらいまで。」
「もうちがう。」
「永遠に心は少年」
「やめてそれ。いつ、お前老いさらばえた?」
「なんか、どっか、バリケードでも張って。どこか占拠しちゃおうか。大學とか。中學とか。それで、独立するの。」
「親から?」
「違うでしょ。獨立國家つくるでしょ。」
雅雪の体の匂いが触れ合う寸前の正純の鼻孔を侵犯してやまない。お前は、と。
「面白くない?」
いつでも俺を侮辱する。
正純は歎く。
塗れた屈辱にゝた感情。彼に魅了されて焦がれるということ。
なすゝべもなくに。
「いいね。」
正純はささやき、「レーニンの勉強でもしとくよ。」背後の誰かの視線を意識しながらに彼の頬に口づけた。
ふれる。
背後に聞こえていた通りすがりの老いた雙つのささやき聲は、呑まれたように途絶えた。
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