きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□枝よりもあたにちりにし花なれは/1
以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。
前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。
短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。
読んでいただければ、とてもうれしいです。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
きさらぎの雪/54の文型と風景
雪舞散亂序
いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる
五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや
滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの
亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは
きさらぎの雪
春
文型
春哥下
東宮雅院にて櫻の花のみかは水にちりてなかれけるを見てよめる
すかのゝ髙世
枝よりもあたにちりにし花なれはおちても水のあはとこそなれ
或る風景
その女が必死に零れだしそうな淚をこらえてゐる叓には気づいていた。同い年だった。札付きの不良娘だった。
土曜日。
午後三時。
眞砂雅雪はそのわなゝく寸前のうえのまぶたの雙つのたゝずまいを憐れむ。女は悲しいのでは无かった。おもい詰めたこゝろの固まった熱の戸愚呂が原田香澄の骨の中に這って、女はたゝ混亂を曝すしかない。
校舎の向こうの校庭に聲。
その群れ。
さわぐ聲を立てゝ笑いそうな、自分のおもえば味氣も无いこゝろを雅雪は女の爲にだけ羞じながらも、それでも彼は自分の口元のほゝえんでゐるのは知ってる。女は自分の戀があきらかなかたちを爲す前にめのまえで壞れ去っていくのを知っている。
「すきじゃないんだよ。」
無理。と、壊れる。何度もこゝろにおもいえがいた告白のこと葉を
「だれ?」
口につかえさせながら吐いたときに
「じゃ、だれが、すきなの?」
ふいに笑った氣配をみせて
「きらいなの」
云った雅雪のこと葉、
「女が。」
無理。と、それは反芻されることさえも无くに、已に香澄は忘れた。「嘘でしょ。」
女の理不盡なまでに自分を見つめたまなざしを直視したままに、
「ほんとの叓いってよ」
きいた。
聲。
肌さえ添いもし无かったうちにもゝう自分が穢されたかのようになじってみせる、と。
いずれにしても女は正氣をうしなっていた。十四歳の雅雪はふいに、自分のゆびさきがなにをおもうでもなく香澄の髮をなぜてやったのを見い出す。
共感?——と、受け入れられずにめのまえのそこに棄てられた女に?おもえば雅雪はそれとなくにも女にこゝろのうちのなにかをあやうくも「だって、」添わせている氣さえした。「女って、めんどくさいでしょ。」泣いて、さわいで、…と。「穢い。」だから、——ね、
「好きになれない。」
云った雅雪の撫でるゆびさきのやさしさに女はあらがわない。「すきなひといる。」
おもい附いて、雅雪はさゝやく。
「だれ?」
「正純。」邪氣もなくに聲を立てゝ笑った雅雪を、見つめるまなざしの色を女が變えることは无かった。
放課後の校舎のうらの部活終りのうす闇に、地に墜ちた櫻の花はそこにだけ春ちかい冬の淡い積雪をさらした。
雅雪の籍を置いた野球部は名ばかりの愚連隊の巣窟とされた。部外者の謂う言い方に必ずしも誇張が無いでも无かったが本質的には事實であって、少なくとも練習に明け暮れる家畜じみた從順さは无かった。見放したというよりは單なる惰性にほとんど顏を顯さない担当敎諭の不在をいい叓に、放課後を十代の半ばの心のうつろいに費やす部員のむれに眞砂雅雪も准じた。目立って不良じみたゝたずまいをさらすのを好んだ一羣のなかで、ひと際に目立つ雅雪のたゝよわせた瞼もとじないそこに夢を見させるような氣配に、冱えた冷酷の色さえあった眼差しの鮮烈さは彼のまわりに、同性をもまきこんで憧れに倦んだ眼差しをまき散らさせた。
彼は美しかった。端正さのなかの、なにというでもない野蠻の色が印象をことさらにこゝろにのこさせた。そして正純という最近になって、目を見張る富を築き上げ始めたいかがわしい不動産屋の息子に戀していた。
彼等の戯れる距離感の餘の近さがうすうすはき附かせながらも人ゝの目はそれをやさしくつゝしみ、こゝろ遣いの深いゝたわりからあえても見なかった叓にし、その時もおなじくに綾な色を附けた噂はなしをも散らした。例えば曰く校舎のうら手の櫻の木の下で夜中に雙り抱き合って、羽交い絞めの口づけをしあってゐるのを見たとも、夜な夜なに雙りの白い肌をなするようにもふれあっているのだとも、それら色めいた噂はふたりの耳にまではとどかないながらもしらないでもなくて、必ずしも不當な嘘とも言えない。事實正純のくちびるは已に雅雪のそれの温度を知り、肌はたがいの肌の馨りを嗅いだ。十三の時には鎌倉に引っ越して行った正純の、その面影をしるおさないころからの知り合いは記憶に殘された少年の姿を雅雪にかさね、話にしかしらないひとはいよいよに妄想のうちに、稀にもうつくしい男に戀された已上うつくしいものでなければならないはずの姿の、野蠻にも可憐な少年に寄り添うのをおもって倦んだ。
日曜日の午前、電車を繼いて元代々木に歸った壬生正純は雅雪の元代々木の家にゐた。その、両親ともにいまだ健在だった比の雅雪の家の、ひさしぶりに見る庭らしい庭もない小さな家屋をいまさらに、正純はなつかしくもおもう。生まれて十歳まで育った町であれば、代々木の町のことなどことごとくによく知っている正純を雅雪は駅に出迎える叓さえなかった。勝手しった町を正純が彼なりのおもいのまにまに逍遥して、それから家に來たいにちがいないと雅雪はとものこゝろをおもんばかった。
今や口さがもないほどにもきく噂に、金にものをいわさえて鎌倉の土地を山ごと買いたゝいた、——と、いうのはかならずしも過剰な尾鰭の憑いた言いぐさともいいかねたのも事實だったが、所有する山のなかほどの豪邸に住むという正純に、暇さえあればどちらかがどちらかの町を訪れた雙りの、ほんの數週間逢わなかっただけの寂しさだったにはしても、懷かしいほどにも久しぶりにおもえて雅雪は、まなざしに小柄でやせた彼の華奢に繊細をかさねたいとおしいあり樣を見留めた雅雪は呼び鈴の鳴ったその玄関口の引き戸を開けた儘に、一瞬のうちに彼を双渺にむさぼって、なにかいいかけて、そして軈ては笑んだ。「あがれよ。」
已に靴を脱ぎかけた正純は顔をあげて、「おやじさんとかは?」
「出てる。」
「おみやげかわなかったんだよね…」
「構やしない。」
さゝやく。
聲と息遣いの音がふたつだけかさなりあいもせずに寄り添いあって消え失せて行くのを雅雪は心地よくも思う。
窓ごしのよこなぐりのひかりが正純を擣つ。
翳りは肌に、反射した白濁をよけておよぐ。
それがたゝ、いとおしい。
八重子は新手のカルチャー・スクールの書道に早朝出て行った。龍也は昨日から斷りもなくその姿を顯さなかった。八重子の心の内は知らない。雅雪はちゝ親のこゝろに道ならぬ戀の存在を疑っていた。知った叓ではなかった。男は女と見ればだれにもたいていは尻を振って、女は尻を振らせるために作る顏の化粧にたいていは餘念がなかった。まさにその渦中に息遣いながら、雅雪にとってはそれは遠い異界のたしなみに他ならなかった。
「みんな、元氣なんだろ?」
勝手に部屋にあがる階段の背後に聴く雅雪の聲を
「家族の…」
ふきこぼれたようにも愛らしくおもう。
「相變わらず。」
正純は振り返り見もしない。
「いつもにかわらず、」
部屋のドアをあけると、そのうちにこもった雅雪の体臭の殘した馨のあるのを嗅ぎ取った。
「親父は莫迦で、繼母は恥知らずで、連れ子は乳繰り合ってるよ。」
聲を立てゝ笑う正純を氣遣う。
雅雪は強がるというでもない正彦のあたりさわりもない素振りに、むしろ傷ついた少年の心の深い傷の深さを匂う。正純は、ふいに部屋の匂いを深く吸い込んだ。「俺の匂いがするんだろ?」
こともなげに云った少年の、色めいて男くさくもおもわれたまなざしを、そらしもしないで見つめている自分の心の不意の強さを正純は驚いた。
「…くさいくらい、するね。」
「すきなんだろ?お前。」
「誰か知ってる?」
正純は微笑んだ。——この匂い、と、
「知りたい?」
かならずしも、あれからともだちを誰か部屋に擧げたのかというばかりでも無かった筈だった。「知りたくない。」
「なんで?」
「知ってるから。」
「なにを?」
「お前が俺しかしらないこと。」雅雪は頸をかしげかけて聞いていた其の儘に、やゝあって、そしてくずおれるようにも笑った。ひくゝ聲をたてゝ、「俺しか、知りたくない叓。」…そして、と。
おれに夢中なこと?
こと葉を奪うように云って、まよいもなくに雅雪はくちびるを奪った。
おさなさのある若い肉體が飢えていたというだけでは无い。こゝろの焦がれるまゝにお互いに、受け入れられてある喜びを感じながらもかさね合った唇の温度と、ふれあう肌の立てるお互いの馨りは少年たちに、結局はゆきつくところにいざなわないではおきはしない。すれすれにいき遣う肌に肌を終には押しあてゝ、いまだやわらかに張った筋肉のそれぞれの肉附きのちがいをさえもむさぼりながらも雅雪はいま、なされるべき大切な叓がやりすごされて、交わされるべき大切なこと葉が無視されて、さらには見い出されるべき大切な風景さえもが見過ごされてしまった喪失感にのみ焦燥する。
こんなものが戀か。
と。
隠しようもない身も蓋も无い焦燥が、肉に焦がれるだけ焦がれた少年の性急さに勘違いされて仕舞ってゐるに違いないことを雅雪は赦し、赦しながらに已に埋めがたい距離に引き裂かれてあった魂の隔たりの容赦もない現前を見る氣さえする。痛みをだけきらめかせるその現前が、さりとても雅雪になにを見い出さしめるというでもない。正彦がすがるように彼の臀部に手をまわして必死に彼のそれに舌を這わす從順をいつくしみながらも、雅雪はたわむれに齒をあてゝみた。唇に正純のしげらせた繁みのやわらかくけばっだ触感がふれた。
おとなになっていく。
雅雪はおもった。獸じみた體毛とゝもにも?
終りが迎えられそうになるたびにお互いにそれを回避して、雅雪は果てるともない行爲の半ば無理やりの繼續に自分たちが正に逃避しているに過ぎない愚劣さをさえ感じ取った。或いは、それはその行爲の間のいつもの常として。
正午まえには八重子が歸宅する。
遲れるかもしれない。わからない。正純にいちいち母親の顏を見せたくなかった雅雪が、おわるともないふれあいのはてたともいない倦怠じみたまどろみの軈て惰性のふれあいのなかに、「出ようぜ」彼のやせたふともゝにさゝやいたのは謂わば、うす穢れた卑俗の象徴にもおもた母親の下品からせめても自分たちのふれあいの純粋さを守ろうとしたかたくなのせいかもしれない。雅雪のゆびの、ふともゝをいつくしんでなぜるのに正純はまかせた。
めを閉じた。
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