きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□ねても見ゆねても見えけり大かたは/3
以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。
前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。
短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。
読んでいただければ、とてもうれしいです。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる
五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや
滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの
亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは
きさらぎの雪
夏
文型
哀傷哥
藤原敏行朝臣の身まかりにける時によみてかの家につかはしける
きのとものり
ねても見ゆねても見えけり大かたはうつせみの世そ夢には有ける
或る風景
承前
おもえばしのゝめの、めの覺めたとも覺めないともいえない朧のこゝろに、そとに雨のおとのきゝとられていた氣もしないでもない。
うしろ、家屋のうちに電話がなった。
姑がでるにちがいない。
大舅の夫婦はいまだに寢室からでてこない。
老人の朝ははやい。
八時をまわるまで顏をださない彼等の、おきて、なにをしているのか。尋ねたこともなければ京子のしるところではない。
花に水をやるひつようなどないにちがいない。
おそらくは。
けれども、土はかわいていた。
葉と花辨にだけ落ちたつゆは、土にはしみなかったとでもいうのか。
地にふれるまえにも空の、いちばんのひくいところに蒸發して?
水をやった。
日課では在った。
むすめの。
春奈の歸って來るまでに、花をからすなど京子のこゝろはゆるさなかった。
春奈に買った、こどもじみたピンクの如雨露の水がこまかくに、花のした葉をゆらした。
やゝあって、大舅の聲がした。
きいた。
ふしぎに、息を吸い込んでたてような聲。
そして、それ以外にはなにもなかった。
振り返って、京子は手を留めた。
なにも、みるべきものとてないゝつもの變りだにしない家屋に、軈ては目を上におよがせば家屋の甍の上に空があった。
雲のかけらのひとつでもうかべるでもなくて、それはたゝ靑く、まるでかなしんでいるかのようにも、と。
京子はあるいは、——ちがう。
晴れてゐた。
かなしいほどに靑い、と。
いま、そらは。
そうおもうからかなしいのだ。ちがう。
晴れてゐた。
こゝろにひとりごちる。…まさか。
思う。
事實、これほどに靑の色が、かなしみをだけさらしてゐるというのに?
警察の電話が、望月の家の者たちに一報をいれたのだった。
慘殺死体の通報に、駆け付けた署員はだれもがその身元を確信していた。顏写真のサンプルを取り出すまでも無くて、行方をくらましたままの少女の亡骸いがいのものであろうはずもなかった。
事件を担当した警部の弓削は、山崎和夫を呼びつけた。両親に死体確認の勞を要請するためだった。電話番号は知っていた。山崎は受話器をとって、ダイヤルを回しかけた時に、ふいにてをとめてふりかえった山崎の眉間は咎め立ての眼差しをさらす。「なんだ。」
弓削はつぶやく。
「これ、おれの仕事ですか?」
山崎は喚くようにも、つぶやく。
「なんで?」…おんなのひとのほうがよかないですか?ささやいた。「さすがに、…ことがことなんで、おれかんかじゃなくて、せめて、」
「女なんかいないじゃないか。」
弓削は、
「お前がしろ。…はやく。」
山崎の線のほそさを思う。元暴力團対策部のたたきあげのくせをして、と、告げた電話の向こうの老婆の、いきなりになにも云わずに電話を叩きゝったときに、山崎はいまさらに奧齒をかんだ。
その家に、今日なすすべもない悲痛の襲ったことだけは疑えなかった。
ころあいでかけなおした電話に、受話器のむこうの女は、おそらくは産みのはゝ親にはちがいなかろうものを、意外にも亂れるともなくて淡々の、その口の約束したままに夕方のちかくの三時に、夫婦は新宿近くの病院の霊安室を尋ねた。思えば、あきらかに死んでいるものを救命病院に担ぎ込んだこと自体が、抑ゝの混乱のはじまりだった氣も、のちに、弓削はした。樣ゝなこゝろのもろもろが樣ゝにあったにちがいないことは弓削に察される。夫に連絡して、その歸宅をまってのことだったのだろう夫婦ともづれの寄り添う氣配に、弓削はただいたましさをだけあらためても感じる。
「…うちの、ですか?」
頭をあさくさげた挨拶も片手間に、望月文雄は見知った山崎にささやいた。
かれがなんどお忍びに家にきたものか、文雄はもはや覺えない。「いや。」
と。
「まだ、確定では…」よって、と、弓削はたえられずにこと葉をついだ。
「確定のご確認に、いちおうの。…という、」
山崎はこれみよがしにも、夫婦をおもんばかったこゝろに我をわすれてみえた。「ね。それで、こうしてご足労ねがった次第なんですが。」
「苦しんだみたいですか?」
「まだ、確定ではない。」
「いや、…」京子は知ったおとこたちのこと葉を、うまれてはじめてきく音聲のようにもかんじて、ふいに、むすめのみゝのこと葉をきく感覚が、まさにいまのこの感覚にひとしかったかにもおもえれば、たゝ
「気をしっかり持って。大丈夫、」
かわいらしい。それでいて、
「…しっかり。」
なつかしくはない。
まったく。
なんの意味も無くも。念を押す弓削の眼差しの、文雄を直視するそのむこうに、山崎郁也は目をふせた。
死体に損壊のあることは已に告げられていた。
京子はなにも、せめて自分のこゝろを冷靜にたもとうとする努力をするべきときであることにもおもいいたらないまゝに廊下を通って、とおされた安置場にむすめを見た。
「検視の前なんで」
と、山崎のみゝうちしたのは下をにぶくすかして半透明のビニールシートのかけてある現狀へのいいわけだったのか。「…がんばって。」と、さらにだにの念おしの擧句の、手のはぐったシートのしたにむすめはゐた。
あきらかに死んでいる、文字どおりの魂の無き殻であることゝ、それのむすめであることゝ、まなざしが確認したのはどちらを先にだったのか。
夫の手が肩を抱いたのに京子はあらがわなかった。
已に山崎は察した。
夫婦は確實にその身元を承認してゐた。
弓削はにげるようにも席をはずした。
山崎はのどをならした。
無殘と。
そうとはかならずしもおもえなかった。
事實、そこにある、もはや流れ出しようもない血をだけかわかせはじめたそれは。
「…歸ってきたね」
と。
京子はつぶやいた。
ふいに、夫がひとのめの前でためらいなくも妻の肩をだくなど、結婚式にも交際中にもしたことなどなかった、はじめてのそれだったことに想い附いて、京子はおもわずにまなざしをだけ笑わせた。
死体が、ちいさくわらったのを見た。
眞砂雅雪はその朝、めを覺した部屋の中、カーテンをひきあけた向こうの樹木に、黑。
黑そのものゝひかりに反射しない純粋の、その開かれた口の、大股を開いた胎のまんなかにおしひろげられた空洞が、いきなりに舌なのだろう極彩色の長いやわらかな立体を埀るのを見た。
死者はその不滅の、完璧に滅んだ残骸をさらしてそこに腐って、うでだったのか足だったのか。
長い、蔦じみた極細の數本にえだにしがみついてぶらさがるのを、——うそをつくな。
雅雪はおもう。
おまえに、もはや重力などふれてさえいないだろうに、と、邪氣も無く。
その少女はたゝわらっているにすぎない。
それだけはさとられて、雅雪はめをそらすものゝその日の午後に、例の行方不明の小学生の遺体の發見されたことをきいた。であるなら、と、雅雪はあれは夢。
みた。
松田雪乃は夢を、と、花。
いつか、めを覺ましたそのときから已に、みはるかしてゐた世界に季節などというものなどそんざいしていなかったにちがいない。
ゆきがふってゐた。
雪乃はおもわずにわらってしまう。
その、空間のことごとくをうめ盡くすあわ雪のつぶのむ數のむ際限が、ことごとくに下から上へ落ちていたから。
ちがうよ、と。
雪乃はいいかけて、おもわずにじぶんを羞じた…たしかに。
思う。
ゆきが天に墜ちないとはかぎらない。
かんがえてみれば、地のみが雪のうつくしさを知って、それでゐて空のいただきは高光るまゝに雪のはかなのいぶきさえもしらないというのなら、空はなんと悲惨か。
ゆきはいつか、そらのたかみにもふれなければならなかった。
花が咲きます、と。
きいたことも無い女のこゑがした。
こゝに、と。
——はな?
あなたの、いままで
——はるちゃん、
みたこともないはなが、いっぱいに
——なんでしってるの?
さきほこるのです。
と。
さゝやき、聲は春奈にちがいない。
あしもとに、あきらかに腐った肉の無ざんな塊りが、くさったままに息づいてこ動してゐた。
——はるちゃん、
なまえはまだありません。だって
——なんで
それは
——そこにいるの?
まだ、うまれてはいないのでした。
春奈がささやく。
聲だけが、みゝのすぐそばでひびいて、
——しあわせなんだね。
きいた。
——はるちゃん、…と、そのきゝとられた自分の聲の、いみをさぐりあてようとしたときに、慥かに。
花はさくだろうと雪乃は確信して、ふる。
雪。
下から、上におちてゆく雪のどこまでものぼってはてもないのをみあげる雪乃は瞬いて、眼の前の皐月の振り向きざまの笑い顏を見た。
…そうだね。
と。
雪乃は皐月にさゝやいた。
「ゆきって、純なこだから。」
独り語散るように云って、わらって、おもわずに目を逸らした皐月の眼差しに、あからさまな恥じらいのうかんだ意味を雪乃はおもいあてあぐねる。敎室のなかに皐月の後ろの頭をなでて、まるでこどもにするようなそれを皐月はあらがわない。
「皐月こそ。」
すれすれに、くちもとをほゝのちかくによせれば雪乃はつぶやいた。「わたし、皐月が傷つきやすい子だっていうことは、しっていますですよ。」じゃれるともなく息を、ふきかけて、かすかにだけ笑ってみせた。
その日、歸宅した雪乃を呼びとめたはゝ親は、「ちょっと、」と、「あんた、しっかりしてね。」
「なに?」
答えずに、昨日に参列した葬儀の京子の雰囲気を、美幸は尋ねた。
「どうしたの。なに?」
美幸のといかけには答えずに、「ごめんね。これから、ちょっと、望月さんの所へ、お母さん、いくからね。」
「お葬式はきのうだよ」
雪乃は振り向きざまにはゝを咎めた。
きのう、顏も出さなかった。おもえば、おさなゝじみの生んだひとり子の葬儀だった。
「昨日はほら…いくらなんでも氣が引けて。…顏、みれないじゃないよ。」
「なんなの?」
叫んだ。いきなりに、喚いた自分の聲に雪乃はまっさきにおどろく。なにがおきたのか。雪乃は自分がしっている叓を、自分にだけかくしとおそうとしている自分の愚劣さを思った。
「なくなったのよ。」
やゝあって、美幸は云った。
「春奈ちゃんの、お母さん。…」
しってる。
「けさね、ほら。」
しってる。
「八幡で。あさに。」
しってる。
「首を、…ね」
しってる。
「大丈夫よ。あんたには關係ない。けど」
しってる。
「秘密するいみないから、ね。」
しってる。
「わかる?」
しってる。
「しっかりして。」
しってる。
思う。はじめて告げられる、あきらかに動揺と懊惱を隱さないはゝ親の聲のふるえに、なぜ、と。
そんな當たり前の事實をいまさらにわたしにつげるのか、と、いつか、めのまえにいきなりこぼれはじめたはゝ親のめの大粒の淚が、——泣かないで。
美幸は云った。
つかんだ雪乃の肩をゆらした。
かれはてたかにも雪乃の目に淚の埀れる氣配さになくねても見ゆねても見えけり大かたは
うつせみの世そ
夢には有ける
Seno-Le、如月の三月
0コメント