きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□ねても見ゆねても見えけり大かたは/2
以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。
前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。
短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。
読んでいただければ、とてもうれしいです。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる
五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや
滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの
亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは
きさらぎの雪
夏
文型
哀傷哥
藤原敏行朝臣の身まかりにける時によみてかの家につかはしける
きのとものり
ねても見ゆねても見えけり大かたはうつせみの世そ夢には有ける
或る風景
承前
「はるが、ね。…あんなこだから。だから、みなさんにはたいへん迷惑を、…ね。でしょうけれども。でも、はるはいっつも、ゆきのちゃんのね。よくしてくれるのを。…ほら。ほかにも、さつきちゃんとか。ゆうきちゃんとか。…ね。しってるのよ。きいてる。あのこに、…わたし。あんなこだから、もちろん。みなさんみたいにね、じょうずにはいいやしなけれども。それは、それでも、…ね。わかるものじゃない?…ああでも、あんなでも、ね。そりゃせめて手のいっぽん、あしの一本ないんだったらともかくもね、あたまのなかでしょう?…そんな、いっちゃえばできそこないの。ひと様には、もう、はずかしいようなこだったけれども、それでも、みなさん、よくしていただいて。おもえばしあわせよね。あのこも。よかったわ。ゆきのちゃんのおともだちになれて。…かんしゃしてるとおもう。あんなこだもの、そりゃ、なにもわかっちゃいないだろうけど。…それでも、ね?たぶん。それにしたって、お日さまのしたにゐれば…ね。わかるものじゃない?」
かたわもの、とでも。我が子を謂うにいきなり羞じるでもなくそういいだして仕舞いそうな京子のあけすけの、それでいてとぎれがちの、こと葉よりはいいよどませた沈黙のほうにこそおもいをおおくふくませておもえたこと葉のそれらに、たしかにこの人はいってしまえば育ちがいいのだと雪乃はおもった。かりに、春奈がもっと重度の障害をえて、さらにはさらにだに凄惨な死をむかえることの在ったにしても、このひとはいまにかわらずに自然にほゝえんだ自然にあるがまゝにも、そして時をたゝ木もれのうらゝのうちにもすごしてしまうにちがいなくにおもわれた。
雪乃はめをふせた。
天使のような、と。
春奈の死を告げた全校生徒集合の臨時朝礼で、校長は云った。——みんなもしっている、六年の、望月春奈ちゃんという天使のような…。
と。
天使のような。
けがれのない泥棒。
雪乃は、おくれてようやくに型を丁寧にふんだくやみのこと葉の色ゝをならべはじめた村崎の聲を耳にした。
担任の村崎捨男は愚連隊じみた巨體にむかしの少女文學の詩人でもこそにつかわしくての線のほそすぎた繊細を素直にさらして、それでもよどみもなくていっきにくやみをなべれば、一郎は大人たちの世界を垣間見る気がしていまさらに、自分たちのほんのこどもにすぎないことにこそおもい至る。
一郎の名前のしらない、春奈のちゝ親だったらしい男が會社づとめなのを知った。かれは、あきらかに會社の關係らしい數人の年長のおとこたちに歎くかわしげなまなざしをふせるともなくて、見据えたまなざしに一應の外向けの禮を盡す。堅いまなざしに表明されたかなしみさえもそと向けだった。そこだけ、近親者と近隣者たちのあつまる空間の中にいわば緣のない外界をつくった。
祖父たちと祖母たちなのか。數人の二世代にわたる老いさらばえた女たちがなにやかにやとよりそって、とむらう人らのそれぞれの世話をしてそれぞれに、男たちはそれとなくに途切れがちにもさゝやきあった。
寺の僧侶の來るのを人ゝはまってゐた。
家の床の間に無理やりにつくられた式段に白い花はうめられて、それが望月の人たちの生活の豪奢をそのまゝ惡びれもせずにさらした。十二歳とはいえ一郎も、なんどかにはひとの葬式を見たことくらいはあって、母方の祖父、父方の叔父、それらいくつかの葬儀にくらべてもゝのめずらしいほどの花の白のむれがうつゝのなにもかもを夢のなかのまぼろしにもおもわせようとたくらんだかにも、眞あたらしい住宅の中は靜かに飾られてゐた。
遺影のしたに安置された柩に、一郎は春奈の最後の姿と對面するかとも思ったものゝ、きみに。
逢う。
と。
慘殺されたきみの血まみれに。雪乃とならんだ燒香に手を合わせたときにそこはしろい布できれいにおおわれて、さらには百合のはなの大量にうずめつくされた何かの、姿もみせずにもはや息のないのをだけさらしていた。たゝ恥ずかしげもない華麗の淫売じみても百合は匂い食欲も性欲もなにも欲望のことごとくを奪う。
破壊の馨、と。
あるいは、最後の姿がそれほどまでにも無殘だったということをあかるともなく明かす、と。かくした花の白とシーツの純白は、そういうことなのか。
おもう。
いつか、と。
一郎は、躬づからも花の下に沈む、と。
はゝ方の祖父の死体の目をとじさせるのに、はゝ難儀したのをおぼえてゐる。
躬づからさもすべては死に墜ちるのが叓の本等なのならば、ことさらにひとの死のなにを痛むことのあるものかともおもわれて、一郎はかたわらに雪乃をみやった。燒香のおわった瞬間に、それまで泣くどころか悲しみの素振りだにみせなかった雪乃の、いまだに生前の盗難の云々を赦しもせずに、居心地もわるげにおもえた双渺が、ふいにうるんだかともみえればいきなりになきくずれたのを幼さなげな手は、肩をだく。
自分のほゝにも涙をつたわせながらに。
ひとのむれはおさないふたりのこゝろからのとむらいの涙の純に、おもわずも目をそむける。
かなしみ、と。
そうよぶほかなくてのこゝろのさわぐかたちも色もましてにおいもないものゝよせてかえしてそのまゝに、おさまりようもないざわめきがある。
こゝろに。
とむらいのときには。
だれもがおなじような、あたりさわりもないにたようなこと葉のさわがして、そのままにすておいてしまうから。
なゝめになげこまれたひかりが、ふれる。
ふれえるものゝことごとくにふれて。
とむらいの風景。
かなしい、と。
それいがいになにもいう可き可能性さえものこされずに、朝。
めを覺ました。
娘の不在に、馴れることはなくてにもかかわらずの起きての朝に「ねぼすけ」のむすめを起こすいつものちいさないさかいじみた勞のないことに、いつか馴れたことはやはりそれでも馴れてしまったということなのか。
め覺めた朝にほんの數ふんだけ雨のこまかくおちたことにはき附いてゐた。
いまが何日で、今日が何曜日なのかも、おそらくは週のなかばなのだろう數日のうちにはもはや分けがたい。夫の望月文雄の毎日電力會社へいくことだけが曜日を敎えるが、結局は今日の日曜日ではないことをしか敎えない。むすめの姿をけしての何か月もに、訪うひとのこゝろの京子のこゝろを案じて、いつくしむやさしさは已にうとましくもかんじて、娘の死んだことの事實はうたがいようもなくもいまだにも、食事の支度の、毎日の掃除の、衣類を洗濯機にいれこむ背後にもむすめの、いきなりに玄関の戸をあけてはにかんで、ながい不在をわびた上目遣いのかえって來そうな氣がするのをとめられなかった。
學校から歸ってくる可き時間をすぎても娘のすがたをあらわしていなかったことに、いまさらにき附いたのはいまや日附もわすれた春の新學期の比にだったか。午後六時、もうすぐに文雄の歸宅するころあいに、ふろの支度をしようとした京子に辰年うまれのたつがすれちがいざまにもはる坊は?
そう、おもいだしたようにも云った。
——あ、と。
「そういや、まだね。」
ひとり語散るようにも京子は云って、自分の胸騒ぎのひとつもしないことにむしろ胸をさわがせた。「お母さん、なにかご存じなの?」
「しっていりゃ、おまえなんぞにたずねりゃしないようなものだろうね。」
ほんとにね、と。
たつの呆気にとられて咎めるような眼差しをみつめたやゝあってに、京子はそう言ってわらった。聲はくちびるに散った。そのときには、京子の胸の内はたゝ騒ぎ立つのをしか感じなかった。
「だれかに…」
と。
茶の間にきえかけたたつはたちどまって、その口走った京子をみやったが、
「ちょっときいてみようかしら。」
「だれにさ。」
「だれ?」
「おまえさんのわからないものを、わたしなんぞがしろうものかいな。」
云って、こともなげにたつはわらった。「おおかたあそんでおそくなったんでしょうよ。」
ささやく。
「げんきだけのとりえの、どうしようもないじゃじゃむすめのじゃじゃさんで、ね、」と。
うそをつく。
たつはおもう。
自分は、と、春奈がけっして、おそくまで遊んでいる子ではなくて、抑おそくまであそぶ可きともだちいなどいようものかと、去年の夏の誕生日に折り鶴をくれた。
金色と、銀色の折紙で。
自分の敎えたし方ではなかった。
京子の敎えたそれか。——だれにおそわったの?
たずねる自分の大げさなほゝえみを、はじめてみる不可解のものかにも見た孫は、「…みっちゃん。」
つぶやけば、孫が自分のこと葉を聞きとって云った事實をたつは喜んだ。
なにが不幸というでもなかった。
慥かに孫に障害はあろうとも、健常であることの卽ち幸福というのとは又違うものともたつにはいまさらにもおもわれて、自分がまごになつかれたしあわせな老人である事實をふたゝびの、何度目かにも思いしる。
春奈は文雄の歸宅にさえ遅れた。
春奈の不在をしらされた文雄は、とりあえず、と。
もうすこし、待ってみないか?
誰かの誕生日會にひきとめられていないともかぎらなかった。だれもが親に連絡の一本でも入れたものを、娘は自分の家の電話番号さえ知らないに違いない。抑ゝ呼ばれた家に電話機がいまだ置かれていないことだってありえる。いまどきに傳書鳩でもとばせというのか。
次の日の朝、まずは學校に連絡を入れた。
已に、うたがいようもなくに春奈は失踪していたが、家族にはどうしてもそれを事實と受け入れがたいかたくながあった。その故は當の家族にだに判らない。——天罰じゃない?
村崎が朝礼に春奈の失踪と事實確認と情報提供を呼びかけた時に、いつもの時間を延長した朝礼の長びくまゝ流れはじめた一時間目の授業を足早におわらせて、村崎の足の報告をいそぐらしい足早の音をたてされば敎室は、噂をたてる口ゝをひらくしかなかった。悠貴は、自分のくちびるがその、天罰、と。
くちにしたときはいたゝまれない違和感をだけかんじて、「なんか、こわいね。」
こと葉をついだ美津子にすくわれた。
悠貴はいちど、眼を閉じた。
じぶんのこゝろに飼う怪物じみたかたちのないものゝ異形をおそれた。
「つれさられちゃったとか。」
「赤い靴、はいてた?」
云って、辰巳の茶化した聲に邪氣はない。
望月京子は、警察の極秘にするように云われたことを忠實に守った。
學校にだけは警察からもしらされたものゝ、學校にしらされて捜査の協力と念のための児童保護に親も行きかえりの監視に町に立つことを要請されてあれば、なにをもって公けではないというのか、京子のめにもうたがわしい。慥かにテレビにも新聞にも児童失踪のニュースの報じられる譯でも無いことに、それらの向こうの世間一般とこゝの世間一般とに、いきなりの區別のつけられてあるかにおもえて思わずに、自分のどんな夢の、だれのみたともさだかではないまぼろしのうちにおとしこまれたのものかと想うものゝ、文雄は變わらずに會社にでるしかなく、京子は變わらずに家事に興じるしかなくて、たつさえ變わらずの、五十なかばに死んだ夫への朝の般若心經をくりかえすしかない。
その六月の、庭に紫陽花の花の咲いておもえばこゝろづかない春奈の、めずらしくもひとつだけ固執して愛したものはその花だったと、思い出すともなくにおもいだされる晴れた日の朝に、京子は庭に出た。元代々木の家の壁のつくった翳りのしたに、いっぱいに日影にむらさきのいろをさらした花の花辨に、葉に、いだかれた露がいろもなく色めくのはあけがたに、すこしだけ雨がふったからにはちがいない。
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