きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□ねても見ゆねても見えけり大かたは/1
以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。
前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。
短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。
読んでいただければ、とてもうれしいです。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる
五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや
滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの
亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは
きさらぎの雪
夏
文型
哀傷哥
藤原敏行朝臣の身まかりにける時によみてかの家につかはしける
きのとものり
ねても見ゆねても見えけり大かたはうつせみの世そ夢には有ける
或る風景
不穩だったにはちがいない。十二歳の正彦はその初夏の、今度は八歳だか九歳だかの少女の連れ去られたのが町中を戒嚴令じみたいかめしさにつつみこみ、幷せて追悼の、しげる葉のむれさえも墨染にそめてまだ見ぬ來年の櫻さえにもそのおなじ色をつけようとても飽きないひとらの氣配には已に馴れた。
同じ學校の三年生の片岡睦美という名の少女には、ゐなくなってのゝちに不安げにもさゝやかされたその名前をきかされてもとりたてゝおもだされる記憶はなくて、それは壬生悠貴にしてもおなじことだったらしかった。ゆくえをくらませて、乃至くらませられて一週間がすぎた。警察による捜査上の情報の規制なのか、いまだに一般の報道はされないまゝに町の人ゝは睦美も已にいきていないことだけはそれとなくに口をとざしたまゝに認識していた。前の雙りと同じように、軈てはどこかに慘殺死體は遺棄されてさらされるに違いなかった。最初の望月春奈の六月の慘殺死体はあけがたのきまぐれの雨のひとゝきにさえかすかにだにぬらされもせずに、雨をよせつけもしなかった樹木の翳りに蠅の數ひきをだけ呼び寄せて放置されたてゐたものゝ、ひとの口からくちの口傳てに尾ひれをおびただしくも帶びてもはやその素の事實などみわけもつかない。結局のところは春奈の死のあり樣を見たものなど數えるほどにしかいなかったそのくせに、町のひとはだれもがその凄慘をめにみてゆびにふれたかのまぼろしをいつかうつゝにも錯覺して、學校の關係者ならび親らの案じた児童のこゝろの手當て云々の対策の方針もさだめきらない間の一週間後には十四歳の藤原敏夫という名の少年の死體が、朝の明治神宮の北參道の入り口近くの木䕃に見つけられゝば、事件のいまだに収束していなかったばかりか、まさに突端にふれたにすぎなかったらしいことの事實に、ひとはそれぞれにおどろきおびえ恠みながらにもそれにはあえてき附かなかったふりさえもした。
藤原敏夫の死體は春奈のそれほどにはいためつけられてゐなかった。おもえばなすゝべもなくてなされるまゝだったろう春奈とはちがって少年のあらがったということだったのか、全身を殴打のあとの靑いくろずみにうずめつくしながらも四肢はきりおとされることもなくて、腹もひきさかれたわけでもなかったが、何かの叩きつけられた頭部の裂傷が致命傷になったらしいそれは素肌に剝かれた死體の死んだ白さのものいわなさを朝の木もれの陽ざしのもとに、仰向けにさらして色の無い目を右だけ剝いた。はれあがってとじられた左の瞼の中に眼球は殘存しなかった。
春奈の死體の完全にひとそろいでなかったことの事實は、かの女のいちぶが喰われたのだという憶測をひとのくちによんで、いつかそれはことの事實にさえなりおおせた。正彦は春奈の葬儀に參列した松田雪乃のくち傳えに、幸福とも不幸ともなかったのかもしれないひとりむすめを見送るはゝの無言のうちのまなざしだけに悲しみのおもいのうかんだこゝろの切迫をつたえてゐたのを、かたちのないおおきなものを口のなかに咬むようにしても聞いた。
かわいそうだった。
と。
そう雪乃は云った。「…それだけ?」
その、葬儀のあった水曜日の午前に、男女ひとりづつの級長のかたわれの久代一郎と担任の氷川にともなわれて、二時間ほどだけ授業をぬけた歸りの午後に、ちょうど晝休みのなにをする氣にもなれなかった敎室の暇つぶしのときの間に、「ほかに、なにもなくて?」
おもわずにそう云った正彦に、「なんか、もっと…」雪乃を糾弾する氣など「もっと、なんか。」あるはずもない。「ないの?」もっと、ちがうこと葉の切實さのちがいがある可きだった。すくなくとも壬生正彦にはそうおもわれた。假にも、そのはゝ親とちゝ親のあいだにうまれたゝだひとりの娘だった。春奈に知的障害云々の兆候のさらされたのが三歳か四歳か、いずれにしてもき附かれたのはそれくらいだったにはちがいなくて、なにもそとづらの兆しを鮮明にともなう類のものではなかったことをかんがえれば、噂の事實としてはありえなくにもおもえながらも、ひとは口傳てにそのゝちの受胎はすべて女がおろして仕舞ったらしいとさゝやいた。つぎのこどもゝおなじようであるというおそれが女に脱胎を決意させたのだと。その娘の唐突の死の、しかも死に稀にみる無殘があれば女のこゝろがいかに悲しみ苦しみ惑うともしかたもなくに、それに添うこと葉はもっと切實で、痛ましくもある可きだった。
雪乃はあからさまな糾弾と軽蔑を正彦のくちびるに感じた。あわてゝなにか言いかけて、そして口をつぐんだ。——じゃ、と。
松田雪乃はあえて正彦をまっすぐにみつめて、「なんていえばいいの?」
かなしそう、と。
「まさくんだったら、…」
たしかに、
「なんていうの?」
それいがいに云い得るすべはない。正彦はそうおもった。なにもかもが淺はかにおもえた。むすめの死の本等の切實をとむらうべき切實をこと葉の切なる限界は獲得する叓などなくて、ありふれた惰性を日ゝのまゝにさらし、こゝろもおなじくにありふれた惰性を日ねもすにもさらすにすぎない。結果見せつけられたことの凄慘は結局はなにものにもふれられもしないまゝに音もなくれ朽ち行ざるをえない、と、おもえば正彦は背の内側で怯えた。——なにも。
正彦は云った。
「なにも言えないよね。」
聲が、正彦のこゝろをおきざりにもしてひとりで深く歎いた。
雪乃のまなざしに、なきながらに笑ったようないつもの顏の表情のまゝに、かすかな笑みにすこしだけ口元をほころばせた正彦の、恥ずかしげもなくにうつくしいうつくしさに目はそらしがてに、まなざしはかれの双渺に自分への赦しをみいだせば、「…そう。」つぶやく。
「ほんとうに、そうなの。」空気が重かった、と。
少女はひとりがたりにもにて口にした。その、はかなくも散った、あるいは、ないしは、不意に手づかみにひきちぎられてにぎりつぶされ棄ておかれた少女の葬儀に、うす墨どころか眞黑の裝飾のあるほぼ新築の家屋は黑にとなりあう白にいよいよ黑づくしの氣配をかきたてられて、だれのすゝりの泣きの聲をさえひびかせなかった。
むしろだれもが、すでになにもかにもを諦めるというのとはすこしちがって、ことごとくのめにふれるものを赦してしまっているかにもおもえたのをまなざしに匂えば、ふいにも誰かのみた夢のうちのまぼろしのなかにゐるかにも錯覺されて、その瞬間に雪乃はいまさらに哭き叫びそうになった。
かなしかった。
まさに身を切られるかにも、ことごとくが慟哭のうちにゐた。おさなくも、少女は自分がもういのちのつきかけの老婆にでもなって、き附かないうちにも死んで仕舞って、ただよい出した中空に、そして地にへばりついて生きるものらの思えば悲慘の盡きない残酷をいま目のあたりにしたかにもおもえて、かなしい。
ひとはかなしく、わたしはいま、こゝろがかなしい。
思う。
——松田さん、…
なぜ、いまこんなにもかなしくて
——あの、
ただかなしいのにあなたがたは
——級長さんの。美幸さんの娘さんの、…と。
いきていられるのか。
振り向きざまに自分にほゝえんで、そうはなしかけた望月京子、旧姓木田京子は目に淚のうるみをにおわすこともなくて、ただ切れ長の双渺の上品をやさしさとでもいうほかのない色に素直にそめていた。「わたし、…知ってる?」
ほゝえみのやさしはさゝやく。
おもわずにしどろもどろになりそうになりながらも、頭の中に練習しないでもなかったお悔やみのこと葉を、もっともそれは大半を村崎がいってしまうはずだったにもちがいなかったが、いまだおさない口にいいかけたときに、「わたし、あなたのお母さんのおともだちなの。」
きれいな聲だった。
「佐ゝ木美幸ちゃん。麻布の狸穴のほうの、ね。…しってる?」
みゝにふれて、ふれるだけ、そして
「しらないかな。參觀日以外お逢いしないから、」
なにものこさなくてきえてそれで
「おげんき?美幸ちゃん。…むかし」
なんのみれんものこそうとはしない、と
「すごくよくしてくれたの」
なぜだろう?
「やさしくて、」
雪乃は
「…ね。」
いぶかった。こんなきれいな聲から
「でもね、ちょっとおてんばさんなのよ。あんな」
何故あんな泥棒が、と
「大變なころだったけれども、」
罪は、死の残酷によって滌いながさる可きなのか。
「まだ戰後のね、でも、」
なにもなかったことに?なら
「いいともだちだった。美幸ちゃんに」
なぜ生きて在るのか。
「よろしくね。」さゝやく聲に、あるいは思いだす。三人子供を産んで丸ゝに肥えたはゝ親のいつか實家で見せた白黑の額入りの写真に、華奢な少女達の一群のあったのを見た。
埃りをうすく、執拗に纏う。
はゝ親たちの写真と謂えばそれをあわせてほんの数枚しか殘ってゐないはずだった。お金持ちのお友達のおとうさんがうつしてくれたのよ。
そう云った。それが木田京子ちゃんという同級生のおとうさんだとは、別のいつかに同じ口からきいてしってゐた。色の無い外國じみてみえる写真の誰もがしかめっ面の、いたいけなくも貧しげな少女たちのどれが母親なのか、雪乃にはみさだめられなかったのをはゝには秘密にした。
「ごめんなさい。」
おもわずに、自分が望月京子の、かたわらの一郎も村崎も無視したしたしげなかたりかけを斷ちきるようにも云ったこと葉をつぶやいたことに雪乃は違和感をしか感じない。わたし、…と。
餘りにもしたしげにいいかけて、雪乃はいま自分が、春奈を加害した集團のそのひとりとして飽くなくもいたぶりつづけた事實はまさにあると、そうおもい到っていたことにき附く。「なに?」
京子はささやく。
こわすひと。
「ありがとう。」
たゝきこわすひと。
云った。
加害のひと。
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