きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□花ちらす風のやとりは誰かしる/3
以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。
前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。
短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。
読んでいただければ、とてもうれしいです。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる
五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや
滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの
亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは
きさらぎの雪
春
文型
春哥下
櫻の花のちり侍けるを見てよみける
そせい法し
花ちらす風のやとりは誰かしる我にをしへよゆきてうらみん
或る風景
承前
軈て壞れて穢されたのを長じて育って巢だち、果ては老いのゝちにまでにもいとおしくうつくしく淨らなおもい出として、かさがさねにかさねて思いだしつゝけるにちがいない少女の初戀の何かの形見にでも、いま、いちど少女を抱きしめてやるべきだった氣がした。
笑う少女のあどけない赤裸ゝがその機會を、雅雪からは奪った。うち、な。
少女がさゝやく。
「もう、いくな。」
「そう。」
「うち、いそがしいんで。」
ふたゝびのうわめづかいの、媚びたひとり勝手の恥じらいを雅雪はせめてもじっと、見つめて遣った。
「しっとった?」
ほゝえんだ。
目を逸らしたまなざしは足もとに墜ちた。
そこに容赦もなくふみしめられて、むらさきのいろを濃くした花がそのいきのこった色彩をたゝえた。
ふみ潰されたにはちがいない花弁と莖と葉の、それら瑞ゝしい残骸が恨みもなにもない心そのものゝ不在のうちに、うるおって、いきいきと、あざやかにも湿った匂いをまき散らす氣がした。
目をあげると少女ゐなかった。
ふりむけば水のおもに、さっき飛び去った鷺の戻っているに違いない妄想を、雅雪のこゝろはあざ笑う。
かたぶく日はやがて暮の紅蓮を空の西の一部に燃え立たせた。
なにも用意していないと慌てふためいてみせた久乃は前日にも食材を大量に買い込んでゐたに違いない。かつてのおさない日のなにとなくのおもつきのこと葉のあそびに好きと言ってしまってからは、こゝに來るに欠かさずに食卓に顏を出す眞鯛の燒いたのと刺身とが雅雪のわざとに目の前に、そして旬の山菜のおもいつく限りが煮られ、酢でしめられ、汁にもされてテーブルを埋めた。テーブルは土間づたいの臺所におおきいのがひとつと食卓の窓きわに一つ。さらには句の字に曲がった通路わきの棚のまえにもひとつ。大所帶の名残の間取りの中で、窓きわのテーブルのひとつだけが今の專らの食卓だった。棚脇のそれは今や物置に成って古い変圧器の右から社名の印字を讀ませるのをさえ埃に被らせた。あるいは、嘗てを知る眼差しには荒みきった風景だったに違いない。
八重子はゝは親がひとつの皿に料理のそれぞれを一部ずつよそえていくのを見ていた。遊花はいつも自分の部屋で喰うのだった。「…大變ね、」と、いまさらに「おいさんは?」
八重子は食卓に顏をださなかった嘉門の所在をきいた。
「しらんが。おおかた、農協のんと呑みにいきょうんで」
久乃を嫌ってる嘉門が「のんべじゃからな。」久乃と食事を共にするのの嫌さにいつも食卓を外しているのを八重子は已にしっている。やえちゃんはすきなんじゃけえどがな、と。
いつか嘉門は戯れ言にいった。「おめえのおかあだきゃ、わしゃ、しんでもすきになれんがの」
「毎日?」
「しらんがな」
「お母さん、大變ね。」
「…じゃけえどが、おとこんひとのことじゃからな」
しかたないんじゃろうで、と。あらためてさゝやき直して、八重子は遊花の皿を以て席を立った。雅雪は一度だけ遊花に餌をやったことがあった。その十一歳だったかの晝下がりに、八重子が旧知のもと同級生とながいながいお茶に行き、家に來た市役所の税務担当だか何だかの應對に久乃がゝかりきれば、ほかにはだれもゐなかったのをしかたもなくて、久乃はまな孫にせがんだのだった。まさくん、てつどうてえ、と。
なすべきことのあり樣は話には已にきいていた。
久乃の指示した通りに雅雪が即席で用意した昼食。平皿の上に白飯をもってその上に沢庵と野沢菜づけのゝこりをおいて昨日の殘りのシチューの冷たい儘をかけておおぶりの肉はよぎ、冷蔵庫のハムをだけ二三枚一口サイズにちぎって散らす。級友への矜持のための身支度にあわただしかった八重子の食べない儘の朝の目玉焼きの皿も、ラップをはがしてその上に滑らせ置いた。それだけは雅雪の發案だった。いわれるまゝの皿はあきらかにものさびしかったから。
遊花の部屋の戸をあけると、遊花が正座して窓の外を見ていた。
たゝ、美しい姿だった。
なんとまがう可くもなく凛と、伸ばされた背筋に氣配のたるみの影だにもなく、なんというでもなくて自然と膝にそえられた掌は意匠も作法もよせつけない繊細なゝまめかしさにしたしみを添わせ、ある可きまゝの自然の流麗をしらせた。
日のひかりなどという、いってしまえば俗な穢らしいものにはあえても肌をふれようとは思わないと。
そんな氣配をさえ鮮明に、年端もゆかない少女の年上の肌の早熟はひたすらにも白かった。おさなさを手ばなせなくて、いまだに頭の大きく見えた体形のいたいけなさがむしろ、剱山にさゝれて立たされたしら百合の花のいち本にもおもる。
たしかに、と。
こゝにあるのは葉と莖の綠に穢されたしら百合よりもさらにも白く、たゝ純な花の百合だけがあるに違いない。
十をわずかに超えたに過ぎない雅雪の、ひとりおとなびたまなざしはそうも独り言散てごはんだよ、と。
自分の口には出されなかったこと葉をみゝの奧にだけきいた。
女のひざ元に皿をゝく。
手をつけるそぶりはなかった。
少女は物を口にさえ入れないに違いなかった。喰らう歡びなどふれた穢れとして。ならば八重子や久乃がどうやってかの女のくちびるに食物を咥えさせるのか、そのいつもの術を雅雪は久乃にはきいてゐなかった。ふいに生じた諦めに雅雪は少女に背を向けた。むしろその儘、と。
うえられた沙漠に朽ちる花のようにも飢えて死ぬのが少女の自然ならばその儘にこそ飢えて生まれた甲斐もなく死んで仕舞えばよいのだった。なにをもってして生き殘る意志もないものを生き延びさせなければならないのか。それを躬つからの身に降って沸いた苦行の樣にさえ感じているに違いないのに。誰が交尾に食われた蟷螂の雄のいのちを救う權利があるか。ほんの一瞬の逡巡のゝちの軈てに、雅雪は開け放たれた儘の引き戸から立ち去ろうとする。まなざしの端に見えた緣側に日は當たって、板木を白濁させかかる。
野山の鳥らが何を焦るのかうるさく鳴く。
うるさいほどにも。
雑音が混じる。
それにき附いて、雅雪は耳にふれたその、なまなましい内臓の脈打ちめいた生き物の濁音まみれの音響に我をわすれた。
それが何かともおもい附かないうちに、ふと振り向けば遊花は喰った。
身をよじった四つん這いの姿を曝す。
飢えた犬の樣に喰う。
つきあげた尻さえ振って、ときには痙攣させた。
皿に顏をうずめるように、口と喉に盛んなゝまものゝ音をまき立てながらに喰い散らした。
雅雪はおもわずに、その容赦もない穢らしさの穢なさの純粋に目を奪われ、刹那のうちにむしろ見蕩れたまなざしにおちた。
生き物が餌を喰い散らす。
音が立つ。
よだれが散る。
鼻に息が亂れる。
鼻水ごとにいきを吐く。
生き物は生きてゐた。
口元に手を差し出せば、迷うことなく喰いついて引きちぎって仕舞うに違いなくもおもわれた。
雅雪は立ち去った。緣側の板木の浮かべる崩れた年輪の目のまにまに無數の死者たちが顏を曝し手を突き出し尻を突き出しそれら塵り散りの黑い肉体の残骸の群れを雅雪は踏んだ。血が流れた。
浮きたって、それら腐った血は玉をなしてたゆたう。
後に、落ち着いた後に皿を下げた久乃から目玉焼きを添えた自分の思いやりの出過ぎたまねだったことを雅雪は諭された。どうせやるなら一口に頬ばめるくらいにきってやるか、ぐちゃぐちゃにしてやらないと、と。
なじるように笑う。
でなければあの子は喰い散らして部屋を穢くしてしまう、と。
方言の久乃の正確なこと葉遣いはたちまちのうちに雅雪にわすれられて、その云わんとした意味だけが彼のこゝろの内に記憶されたのを、雅雪は不思議にもおもえた。
軈て遊花の部屋から帰ってきた久乃は、夕食の豪奢をおおげさにも自賛して雅雪たちに勸めた。文字通りにこぼれんばかりのほゝえみが雅雪の目の前に、歪んだ皮膚の老化を見せつけて已まない。あきらかに目の前の女は數か月每の逢う度每に老いさらばえた翳りを濃くするばかりだった。
八重子との食事の支度のまにまに親子の世間話の大凡は盡きて仕舞ってゐたに違いなかった。
むしろこと葉のほとんどない食事に、人の口から漏れ出る隱された咀嚼のさゝいな音をだけ雅雪はきいていた。久乃が喉を詰まらせたような音を立てゝ、そしてなんども咳ばらいをした。
「大丈夫?」
八重子が已まない咳払いにたまらずにこと葉をかけると「だいじょうぶなもんかいな」
久乃はさゝやく。
「もうなごうないで。まいにちわこうなれわこうなれえておいのりしとるもんじゃけえどがな」
おもいだしたように、久乃は云った。
「そういやな、」と、「かわいそうなんで」食い物の匂いが蝿の二匹を雅雪たちの手元に遊ばせた。
「なにがよ。」
蝿は屎と食物と果たしてどちらを好むのか。
「あの子、おったろうよ。」
雅雪は沈黙のうちにいぶかり、
「だれよ?」
きく。その
「亡くなられた茅原さんの娘さんよ。」
はゝと娘の、聲を
「どうしたの?」
ひそめかけたふたりの、
「死んだんよ。」
「だれ?」
「結子ちゃんよ。」
「あの子が?」…なんで?
と。やゝあって八重子が問い直したときに、そとに車が止まったのを雅雪はきいた。
嘉門が歸って來たのかも知れ无かった。自殺したのだと久乃は云った。父親が癌で告知もされないまゝにやせ細った擧句に死んで仕舞ったのちに、おなじく來る可き死の告知もされないまゝだった娘はそれでもゝう父親が助からないには違いないことをは認識してゐながらに、意識はしなかった。娘は、ちゝのいつかよくなるとは思うこともなくて、全快することを自明の叓としてあくまで最期の日々の病院通いに同行していた。葬儀の時はだれもかれもが未だに幼い娘を憐れみ過剰なまでに心を寄せもしたが娘はとりたてゝ泣きじゃくるとも无かった。
むかし語りの淚をさそうこと葉には素直に淚をうかべ、励ましにはゝにかみながらも笑顔をつくった。人ゝはいつかけなげなほどにも心のつよいおとなびた佇まいを少女に見ていた。人の死は殘されたものをつよくする、と。少女はすこし大人になりかけたのだと思って、近親者にだけは後の佛事のすべてが盡るまで、死んだ男の死の事實はとどまりながらも、その以外の人の心にはその若すぎた死はすでに忘れられて、わすれなくとも記憶のうちの遠いことにはなりかけた一か月の比に、雅雪たちの家の裏の山のいただきにあった神主のいない神社の境内に頸を吊った。最初に發見したのは趣味としてにも毎日境内を掃除する熊谷すがという名の八十近い川向かいの家の男だった。
神木にぶら下がって体液を埀る少女の死體を見上げて、すがはこの少女の存命の時には神社で男の子にまじって木登りに遊んでいたことをおもい出す。
夜は軈て更けた。
畳の間の奧の八畳に八重子の隣に敷かれた布団の中で寝付かれない儘に、雅雪はいつか眠りに落ちていたに違いない。夢を見ていたから。それが夢であることは夢のうちにもしっていた。
眞っ白い夢だった。
そうとしか言えない。ただ白い粉じみた粒が空間を執拗に舞い散って滿たしてしまってゐたのだから。
雪のような。
いわば。
散る櫻の花のような。
乃至、霞むこまやかな水氣の粒の見せた朧にあざやかなまぼろしだったのか。
夢のなかにくらい翳りが雅雪の背後に立ったことにはき附いてゐた。
かれが自分に用があるはずもない。
通り過ぎの、なんのかかわりもない赤の他人なのだから。
やまぢゃあどっちじゃろな、と。
刹那の失神に似た意識の白濁の跡に、くらい翳りが山路を問うたことに氣付いた。
山の道?
と、——山なら、…
さゝやく。
そんなものあるはずもない。
ただ空間は花とも雪もわけがたい白を花の粉じみてもいっぱいにまきちらしているだけなのだから、と、おもってふりむけばそこに男の影さえもない。
みはるかす遠くに見上げるまでもないおだやかな山が在った。
それはかすかにその輪郭を徽すに過ぎなかった。
白い空間にかくれるかのようにも、それ自體が眞っ白くそこに存在していたのだから。
この白いつぶは、と。
雅雪はおもった。
あの山からくるのだとおもえば正にそれはしら雪の山か。ゆきにもまがう櫻のいっぱいの山かとも、はなともゆきともわきたって地をさえみたせば雲かとさえも分かちがたいはなちらす風のやとりは誰かしる
我にをしへよ
ゆきてうらみん
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