きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□花ちらす風のやとりは誰かしる/2
以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。
前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。
短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。
読んでいただければ、とてもうれしいです。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる
五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや
滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの
亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは
きさらぎの雪
春
文型
春哥下
櫻の花のちり侍けるを見てよみける
そせい法し
花ちらす風のやとりは誰かしる我にをしへよゆきてうらみん
或る風景
承前
自分の笑い聲が女の耳にも届いたに違いない叓は知っている。
女はみごとなまでの猫背に、曲げた首の顏をだけ上げ、突き出した顎には窓越しの光がさした。
くそじゃで。
雅雪が目の前に立ってゐることはしってゐる。
あんごうか?
あなたになど何の用もない、と。
いきとん?
そう女の眼差しがつぶやいていた。
まだいきとん?
女は髮をうしろにひっ詰めていた。
しにゃよかろうが。
ながくのばされた髮。
くそじゃろうが。
腰にも届きそうなほどに。
あんごうか。
女がなにも云うはずもないことは知っている。
雅雪は歩み寄って、女の正面に立った。
暑氣のあるわけでもない春の肌寒さの名殘のなかに、女の肌はあきらかに汗ばんだ匂いを馨らせた。
かの女の周囲だけはとこしえの夏でゝもあったのか。
女の背後の壁に二つに避けた体躯を曝した死者がのけぞって千切れかけの頭を下に埀れた。
花房、と。
おもわずそのかつてなじんだ早世の少年の名を呼びかけそうになって、雅雪は口をつぐんだ。
蝿のとぶ音がした。
背後に。
花房は十歳で死んだ。
雅雪はその同い年だった少年の名も遊花の名もそろって彼等の祖父なる勝馬が付けたものだったことを知っている。
久乃のむかし語りにいつか聞いた。
あるいは、花房の存命中にだったか。
女の体臭が匂った。
ふたつ上だった遊花のその年頃に過剰な迄に女の幼い肌がまきちらす女の一樣の臭気だった。
いきものゝひとしさにひとしいいきものゝのひとつ。
雅雪は遊花にほゝえみかけた。
遊花の彼をみつめる眼球に、彼を見い出すべき餘地などなかったにはちがいなかった。
雅雪は自分が見留められてもゐないことを、むしろ遊花のために憐れんだ。
こゝからきこえてゐたはずの、あのさかりのついた猫の音楽が已に已んでいたことに雅雪はき附く。
かならずしもきゝたかったわけでも無かったに違いない。
たまたまのラジオの埀れながした、求められもしてゐなかった騒音だったのか。
ただいま、と。
雅雪はそれとなく遊花に聲を懸けた。
遊花のもたげた眼差しが彼女の前に座り込んだ自分のわずか上方にそれているのを雅雪は見い出す。
ひさしぶだね。
ささやく。
元気だった?
云った雅雪の聲は、彼の微笑んだ唇の端についている彼の耳だけが聞き取る。
花房の黑い肉体が舞い上がった血の粒を空間に泳がせていた。
*
* *
夕方ちかくにもなって、おもい立って不意にはじめたかに裝った久乃の夕食の準備の大騒ぎに附き合って遣る氣にはなれなかった。
久し振りの大所帶の食事を、これ見よがしに難儀がって笑って、ときにあけすけな罵り聲を赤裸ゝにも笑みにまでふくませながらも、おもいだしたように久乃が彼女自身にだけ活氣をわきたゝせたのを雅雪は哀れにもおもった。かつては最低でも十人を切る叓の無かったこの家の居住者は、ほんの十年たらずの間には三割程度の閑散をみた。新幹線の移動につかれてゐなくもなかったはずの八重子は厭う叓もなくてはゝ親の笑い崩しの顏に附き合った。
米を滌うはゝ親の背後の通りがけに雅雪は、ふいに身をよじって顏を見上げた八重子の目を見た。「どこかいくの?」
「散歩。」
答えた、なんの表情を浮かべるでも无い雅雪を八重子はいぶかった。
經濟の躍進のうたわれるに從って、地方と農業の過疎化と弱體が話題になり始めていた。そういうことなのかもしれなかった。外に出ると、東京に成れた雅雪はいまさらにも田舎の長閑な閑散を肌に感じた。スモッグのかけらだにもなくて、穢れようもない大氣はたゝその素の味を彼の肺にかんじさせている気がした。かならずしも遠くはない工業地帶には汚染の問題のざわめく事實がありながらにも。
久安の家には今嘉門と久乃。遊花。彼等のちゝなる勝馬の妻で、今や寢たきりのたつをと、勝馬の姉にあたるふぢのがゐるばかりだった。ふぢのは九十を超えたが躰はしっかりしていた。家にはゐなかった。病院にでも暇をつぶしに出かけたのか。もはやまともに日附も覺えられない耄碌は、とはいえ家路をうしなうことだけは无かった。朝な朝なに家をぬけだして病院の待合に時間をつぶすふぢのゝ彷徨を嘉門も久乃も容認した。
十六歳の遊花はほんの八歳のころからこと葉を失った。その歳の比に出した肺炎の髙熱のせいにされた。長じるにしたがって知性の匂いをいよいようしなっていく遊花は中學をでると家屋の中に放置された。加奈子さんでもいればもっとましいだったはずだと久乃はかひ性なしの嘉門の怠慢を陰に罵った。八重子に添うて雅雪もなんどそのひそひそ聲の罵倒を聴いたか知れ無かった。遊花の母親は彼女の肺炎の年のはじめ、熱を出す半月ほどまえにはだれにも気づかれなかった早朝の若すぎる脳梗塞のうちに死んだ。とっくに日がのぼり切った朝に軈て死に掛けた妻の枕に足を向けて突っ伏したかたわらに目を覺ました嘉門は母親にすがって涙も聲もなく仕草でだけ泣きじゃくっている遊花の無言劇に目を疑った。おもえばそれが遊花のみた最初で最後の悲慘ではあった。弟の十歳の血まみれの死躰は、遊花のめにはもはや影だにうつらなかったにちがいなかった。勝馬の長男たる匡臣は広島市に家を買って銀行の重役に収まっていたから、もはや實家に歸る氣がないのはあきらかだった。いずれにせよ滅び、と。
閑散とした廣大な家に躬をよせるたびに、雅雪はそのあざやかなほろびのいろを目におさめた。
なにを云うとも、なにをおもうともない。どうしようもなくも、それはたゝ他人のかゝわりようもない滅びのかたちにすぎない。
雅雪にはめずらしくも見えた、やわらかくもなだらかにくだる土の道は端のところどころに野の花をさかせるものゝ、彼はその名をしらない自分にあらためて驚き、抑ゝそれらのひとつひとつに名前などあるものかともうたがう。紫の、白の、黄の、だいだいの、朱の。乃至はなにともいいがたい複雑で無造作なグラデーションの。
ちいさな池のふちになにともなくに立ち止まりかけた足元に、紫の花のこまやかなのをいっぱいに散らした野草は地にへばりついてさいてゐた。その花の名を雅雪はしっていた。おおいぬのふぐり、と、その美しくも可憐な花は周囲に擴げる躬つからの葉の強靭の氣配に、それ本來のどうしようもないしぶとさを隱しもし无かった。
花には矛盾が在った。
その名前の由來はいつかの歸省のおさない日に匡臣にきいたことがあった。おゝかみのきんたまだよ、と。はにかむようにも笑って、瘠身のおおい親族にひとりだけ、下っ端の相撲取りかなにかのようにも巨躰をさらす男がみゝ元にさゝやいたのを雅雪は、夏の日の温度ごとに記憶している。
本等かどうかは知らない。匡臣が嘘をつくともおもえず、とはいえ匡臣にそれを敎えただれかがついた嘘か錯誤にすぎなかったとしても、雅雪のおさないまなざしにはいわずもがなに正しい名前にもおもえた。慥かに、花は矛盾しなければならない、…と、八歳かこゝのつか、その年のうちには世界のすべてをしりつくしてしまったともおもっていたおさない感覺の、いまにおもえば錯覺にすぎないのを雅雪は不可解なものを見い出すようにもおもう。確實に、おさないまなざしは世界の秘密のすべてを見盡してゐた。しられていないものなどなにもなく、秘密などありえもしなかった。
花をふみつけようともした足の一瞬の逡巡がすぐさまに、本等に雅雪を立ち止まらせて仕舞って、取り立てゝゆく當てのある譯でも无かった彼に池のむこうの汀ちかくに立つ鷺の二羽をみとめさせた。
しら鷺はうすく霞を知る大氣のなかにいやに遠くも見えて、その一羽はしっかりと見留める前には飛び上がって仕舞ったのゝ、雅雪はその、水のおもに立てたはずの波紋の亂れをおもった。思い残すなにごともないとばかりにも鷺は眼差しのみぎりの空に消えて行こうとした。おにいちゃん、と。
ふいに背後にささやかれた聲は耳元に聞こえたかの錯覺を残した。
われにかえってふりむいたそこの、彼にわずかにはなれて慎みをさらす少女を目に留めた。
結子だった。
少女は雅雪のふたつ下であれば、十四歳の雅雪の目には十もはなれた子供のような幼さのいたいけなさをだけ感じさせた。
滅び、と。ふいにふたゝび頭の中にそのこと葉が去來したときには雅雪は、自分の足が名殘りもなくあのむらさきの花を踏みつけてゐたのにきづいた。
惡くはない。それで良かった。踏みつけられようが何だろうが土から引き抜かれでもしない限りその草は死なゝいものだと匡臣は云っていた。——しょせん雜草じゃけえの。
少女は「…しぶてえで。」父と死に別れたばかりの筈だった。久乃のとわずがたりに歎いてみせた市役所の茅原の娘だった。幼馴染とも云おうとおもえば言えない叓もなかった。久安の家のうら手の何軒どなりかに住む彼女とは、歸省の度每に顏をあわせていたのだから。結子はさながらにおもい初めたいとしい人にはにかむような、そんな、いつもの見馴れた上目遣いにこびて、恥ずかしいほどに羞じたほゝえみをさらした。
まるで子供じみていた。
實際に、結子のはじめて見初めた男は雅雪だったには違いなかった。かのじょのおさない武骨なまでの恥じらいの擧動の、それらすべてがそれを餘すところもなく匂わせて、
「かえってきとったん?」
少女はさゝやく。
「いま、かえってきたとこ。」
實家でもないくせに、歸る、と。雅雪は
「せやったらなんでな、」
ひとり笑う。その
「うちにゆうてくれんのん?」
口元にだけ。
「おみやげもってすぐいったのに」
聲もなく。
「おみやげ?」
「たいしたもんじゃないけどな。」
「どこかいったの?」
問いかけには応えもせずに結子はひとりで微笑み続けた。あるいは、と。飛び立ったしら鷺が姿を変えたまぼろしのように雅雪はおもい、ついには聲を立てゝ笑った。
父親の死について。
たとえ弔いのはげましのそれとしてもいちいちと、こと葉にしてしまう可きなのか否か。それが雅雪のこゝろのうちにほのかにもまどわれつゝけたが、結局は、なにを話す可きなのか。
「あいたかったろ?」
「なに?」
「おれに。」
雅雪はわるびれずにもそういった。
「なんで?」
だって…と。少女は男のにおいさえも匂いたゝせた年上のくちびるの早熟の、ふたゝび聲に笑ったわなゝきに見蕩れた。いずれにせよ、
「初戀のひとでしょ?」
「だれが?」
雅雪はうつくしい。
「おれ。」
「だれの?」
「おまえの。」しらん。慌てるそぶりもなくて、結子は見つめる眼差しを逸らさないそのままに、ずっと、と。「いつからそんな勘違いしたん?」放っておけば時の果てるまでも、この女の子は俺に見蕩れているに違いないと、自分の煽情的な迄の美しさをはすでに自覺していた雅雪は、おもいを遂げる可能性のなにも无いひなびた田舎の少女の、ひなびるともなく焦がれるおもいを憐れんだ。どんな女も、と。
「なんか、いやじゃわ」
おれには失戀するしかない。
「なにが?」
おもう。なら、おれは
「なんかもう、おにいちゃん、」
女たちをこゝろごと滅ぼすためにだけ生まれてきたようなものだ。
「かんぜんに東京のひとじゃもんな。」
不意に少女のまなざしは、自分勝手な呆然の色をさらした。
たゝの刹那にもみたない一瞬に、やゝあって少女は、そして聲を立てゝ笑った。
「いやじゃ、うち。おにいちゃん、東京のひとじゃもんな」
亂れる聲。じぶんの
「當たり前じゃな。」
邪氣も無い笑い聲に。
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