きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□花ちらす風のやとりは誰かしる/1
以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。
前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。
短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。
読んでいただければ、とてもうれしいです。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる
五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや
滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの
亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは
きさらぎの雪
春
文型
春哥下
櫻の花のちり侍けるを見てよみける
そせい法し
花ちらす風のやとりは誰かしる我にをしへよゆきてうらみん
或る風景
風がふいて花の馨さえも匂う氣がした。
遠い川の向こうにさらに遠い山の端にまでもいま櫻の花は霞立つにゝて白く、雅雪はふりむいた瞬間に目にふれたそれにおもわずに驚愕の聲をみじかくあげそうになったのはなぜだったか。
そこはみ馴れた風景にはちがいなかった。はじめて見た風景にしかおもえない。さらさらと、肌にふれるでもなくてちかくに消える風の気配があった。
ほんの一瞬とは言え雅雪は自分が失神してゐたに違いなくも思った。
そこにそれほどに見事な櫻の木立がひとり勝手にも白い色彩の波の帶を広げていたのを、十四歳に成迄のあいだの度ゝに彼がこゝをおとずれながらもあざやかにも見落として仕舞ってゐたことなど在り得ただろうか。
廣島と岡山の県境の町の川沿いの土手に、雅雪は叔父の運転するクラウンの後ろの席に身を投げ出して身を捻じった。
速度のうちにながれさる視界の端に櫻の白の消えていくのを惜しんだ。
母親の實家は次の橋を渡って角を曲がればすぐだった。
ほそい土の道が埃をまきあげていたに違いない。
春休みあけの學校がはじまる前の數日はいつも雅雪と八重子はこゝに過ごした。
前の座席にならんだ八重子の叔父への一人語りのせいで、かの女がむすこのこゝろにさらした一瞬のまどいにき附く餘地などあるはずもない。その近況報告の聲は、雅雪の耳にしきりにきこえていた。
叔父の久安嘉門は家の前に掘のようにも流れた用水路を兼ねる水路の、コンクリートの短い橋に車を渡らせて、門を過ぎれば車を止めた。こゝらのもと地主の家の庭はひろく、日がおちるにまかせた。置く心などないとばかりにもひとりで嘉門は庭の眞ん中に、屹立した松の樹木のしたの䕃を潜った。クラウンの後部座席に押し込まれたバッグの運搬を八重子は手傳わせた。雅雪は田舎の家の匂いをすった。藁の日にやつれたようなそれ。自分のうまれ育ちの實家に過ぎず更にはたゝ數日の滞在に過ぎないにもかかわらずに、八重子が三つの旅行バッグを必要としたのは東京の土産を駅で大量に買い込んでこなければならなかったからだった。いつも菓子を數箱あまらせた。
山陽の田舎のひ弱なそれとはいえども元地主だったにはちがいない八重子の家の者たちは抑ゝかの女の結婚には反對だった。なにも家族は聲をあらゝげた譯ではなくて、仍て八重子が聲をはりあげて押し切った譯でもなくとも八重子には、歡迎されなかった婚姻のけして間違いではなかった叓をこれ見よがしにでも証明して遣る必要があった。松の樹木の埀らした翳りに顏の無い少年が、下半身をだけあふれ出し続ける血に染めて黑くたっているのは戰爭の終わりの比に、レイテかどこで死んだ誰かに違いなかった。眞砂雅雪はうとましくもその滅びをしらない死者の、もはやひとの尊嚴もなにもないゝとわしさの赤裸ゝをこと葉もなく無視した。
嘉門が姿を消したまゝにあけはなしの玄關の、引き戸をいまさらに八重子が大きく開けはなつと、雅雪の姪っ子の部屋に鳴っていたしいるロック・ミュージックがきこえた。家屋のうちの翳りの淡さに枯れた柱木の匂いはたつ。耳を澄ますともなくて、雅雪はみゝにふれた割れた雜音の、例のビートルズの何年も前のそれだったことにき附く。ひなびるしかないこゝにおいても最新のはやりという譯でもないだろう古びかけのそれを、いまさらにきいているのに雅雪は田舎者のひがみをさえ感じた。そんな色氣など普通ではない遊花のこゝろにあろうはずもなくも、いずれにせよ雅雪はイギリス産の今風の盛りの憑いた雌猫の罵り鳴きじみた音楽の無樣を好まなかった。まだしも品のないジャズの方が耳さわりが良くも思う。——音樂は、と。
シェーンベルク以降ふれた自由ってものに、ついにジャズにまで火をつけたんだぜ。
元代々木の岡野孝文が軈て雅雪にコルトレーンと安倍薰をおくればせにも敎えこもうとするにはちがいなくも、十四歳の雅雪にいまだ孝文は存在だにしられずに、孝文もゲバ棒をふりまわすのにいそがしい。
玄関口はかつての土間のそのまゝに奧の臺所に到迄の廣大なヴォイドを曝す。突き當りの梁の土壁に去年のものらしい燕の巢の崩落の殘骸が跡を殘す。果物農家のくせに稻殻の匂いがするのはなぜなのか。雅雪はいつもいぶかった。横の離れの工具に特有の臭気だったのかもしれない。
嘉門は奧に消えていったきり氣配さえみせない。まなざしのき附きようのない壁の向こうに、彼は親族のだれかに聲を懸けたにはちがいない。もっとも、この廣い家にもはやなんにんもひとの住みつく譯でもない。久乃が惱まし氣な顏をきがねもなくのその儘に晒して、左の畳の間から姿を見せた。老いの翳りをかくさない瘦せた女の、明るいばかりに褪せた氣配に、特にかけるべきこと葉は雅雪にはなく久乃にもなかった。畳の間には久乃の背後に、白黒の戰沒者の十三人の遺影が常にうらゝかな日影をなすひさしごしの翳りのうちに褪せもせずに、木の梁の褐色を飾った。必ずしも太平洋戰爭のそれだけでは無かったにはちがいなくとも、久安の一家は相当數の命の御奉公を國家に捧げた叓になる。雅雪は左から五番目の女じみて華奢な顏立ちの坊主頭の青年を認めた。名前は知らない。知らない儘に、彼がいま松の翳で血まみれになって黑くたたずんでゐた叓をは知ってゐる。
東京で話題に叓欠かない安保云々の氣配はすくなくともこの家屋の中にまでは入って來ようもなかった。嘉門の弟、卽ち八重子の兄にして家族きっての秀才だった匡臣の子、ちょうど今年に二十歳になる英喜は彼の通う東京大學のバリケードを軽蔑して、元代々木の家に遊び來た午後に、龍也とかわす盃がわりの水割りグラスの肌の水滴にゆびをぬらすまにまに八重子に愚痴た。近代政治學のてにをはもしらない不良のたわむれだよ、と、かすかに濡らしたくちびるに醉をそれともなくに知らせながら、「お疲れでしょう」
お話にもならない…
——ね、と。
久乃が正座をつくっていった。
祖母は他人行儀を氣取ったのではなかった。それはいつもの誰かを迎え入れる時のかの女の流儀だった。それがだれであってもしったことではない。當世風を軽蔑するともなくに下界のからさわぎにも見くだしながら、すくなくともかの女のしるもとのこの國ぶりの女らの、たおやめぶりもあざやかにかなしみと淚とつゝましさをあふれさせて、且つは男らの、ますらをぶりの場當たりな粗野と粗暴と所詮は女に依存するしかないわがまゝな脆弱の、懷しい褪せた世界など急速にほろびかゝっていることに、もはやあらがう氣もなかった。午前の暮にもかゝわらずに、久乃は一人で日の暮の陽ざしの色に身を染めていた。
「久しぶりじゃな。」
八重子の笑んだ唇は、雅雪の話せない土地の訛をさらして流暢にすぎた。まるで
「そんなことないじゃろうよ。ほんの、」
雅雪ははゝが裝ったかにもおぼえた。「はんとしぶりじゃけぇ」
「そがあなんゆうてもはんとしゆうたら、」
と。雅雪はその、すべての襖をはずせば四十畳以上はある畳の間のほんの十畳の居間に、八重子の頭の上に天井に上半身をだけ逆さにぶら下げさせた死者の黑い翳りを見る。血を
「なにおかわりはございまして?」
埀れながしながら顏中を埋めたその口は
「なにゆうとるんなら」
ひろげられるだけひろげられて極彩色の
「かわりようもないんじゃろう?こがあな」
八重子のあたまにまでふれそうな長い
「あるもないも」
黑い舌を
「いなかじゃからなんのかわりもないんんじゃろうな」
今は亡き祖父の姿。死者たちの不滅。割れた頭部からはみ出すのは
「もう目も當てられんで」久乃のその聲は唐突に歎きの色を曝して、そして赤裸ゝな音色を見せつけることも無く隱しもしない。「變るも變らんもなにも、すこしでもえゝようにかわりやえゝものをじゃな、なんにもかんにもあほうもえゝひともわるよいようにわるようになんやらかんやらわるうわるうさせておいでじゃけぇ」
「なにかあったん?」
畳の間の淵に腰をおろして土間に足を投げて、身をのけぞらして八重子は久乃にほゝえめば、
「茅原さんいうてわかるじゃろ?」
「土建屋の?」
「そりゃ親父の代じゃが。いま市役所のお役人で」
「どがんしたん。」
「しんでしまわれたんじゃが」と、謂って久乃は「肺の癌で。」じぶんお胸に手をふれて、一瞬だけ目を剝いた。やゝあって、手を合わせた。なんどか、かすかにあわせた手が上下した。八重子の目にそれはわざとにすぎた仕草だった。まともに附き合ったことも無い他人を、と。
「さいごはあんた、」
八重子は思う。「あがあなひとでも、ぜんしんにてんいしてな」とむらうくらいなら「やせられてほつられてみてもおられんようなさまでいらっしゃられたんよ」あなたの子供を「もう、いたい。」しっかりとむらってやればいい。「いたいゝたいひいさんぜんしんがいたいんでとおいゝんさってな。」
「お見舞いんいったんかな」
「そりやいかあ」
「癌って痛いん?」
「しらんがな。うちは癌の血統じやなかろうが。市民病院にな、おみまいにいかせてもろうたらまあかわいそうなんで。いとうていとうてたまらんでえてな。ほねのなかくりぬかれるようじやけえもう全身めげてまうでえゆうてうんうんうんうんほんまに唸られておらっしゃったが」
八重子はゝは親を憎むなどあるはずもないながらに、かの女の弟の死んだ葬儀に對する久乃の冷酷にも見えた仕業を赦す氣にも成れなかった。
雅雪は荷物を土間の隅に置いたまゝ、土間つゝきの奧の台所の翳のうちに身を投げる。はゝ親たちの話に興味はなかった。自分のからだが纏う衣服ごとに室内の奧の濃い闇の色に染まったのを知る。臺所はそれがむかしの家づくりの工夫にか、たとえば夏にも暑氣の侵入を赦さないほどにひやんだ翳りにあふれて、それが陰湿なみじめさにも雅雪にはおもわれる。板も柱も畳もカーペットもなにもかもふるければ、すゝけたフライパンのぶら下がった前の炊飯器の新しさだけがいやがうえにも歪つで、單なる場違いをしかさらさない。
臺所の段を上がって、おもえばその段は髙すぎて、八歳過ぎに成まで苦労してよじのぼったものだったが、傍らの食卓を過ぎるとななめに日の差す緣側に、裏庭はたゝ明るさに滿たされてかがやく。裏の山のいきなりの隆起に到迄の、餘白にも思えた野ざらしの庭の二十坪ばかりには、もと何に使われたものか定かではない離れの小屋が放置されて、朽ちるに任されまさか馬をつないだでもないだろうらんどうの内部をだけ曝した。鷄でも飼っていたものだろうか。日に灼けて、なすゝべもなく褪せながらに色を濃くした緣側の板木を踏む。突き當りに遊花が、彼女に割り當てられた部屋に引きこもっている筈だった。
遊花は嘉門の娘だった。人をすくなくしてしまった広大な家屋に、いま住んでいるのは遊花をふくめて五人しかいなければ、自然誰も遣わない空間は増えてゆくばかりに所ゝにだけ、人の生きる気配をたゝえた朽ちかけの色をこだわりなくも見せてゐた。雅雪が引き戸を開けた瞬間に、畳にしかれた薄いカーペットの山吹の色の上に、胡坐をかいていた女は顏を上げた。
だれ?
と。何の興味もないとばかりに、遊花はその顏をあげたのだった。
こと葉もなくに。
雅雪はみつめた。
いつものように、女のまなざしに、自虐のにおいのある嘲弄の氣配があった。
おまえらはくそだよ。
そのくちびるのわらいかけの、鮮明な自閉の色がどこか顯らさまに不遜な気配をさらしてゐるのを雅雪はふいに笑った。
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