きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□はるたてはきゆるこほりのゝこりなく/5
以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。
前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。
短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。
読んでいただければ、とてもうれしいです。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる
五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや
滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの
亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは
きさらぎの雪
春
文型
戀哥一
たいしらす
よみひとしらす
はるたてはきゆるこほりのゝこりなくきみかこゝろはわれにとけなむ
或る風景
承前
軈て空は燒ける。海の盡きた向こうの面が、波をも見せないその湾曲するたいらかに落ちる日に触れようとした比に、思わずに力盡きた瞬間の眞弓は意識をさえ玉散らせてのけぞって轉がる。砂が無樣な音を立てた。樹木をようやくにしてなぎ倒したようにも、正彦は彼の二の腕と腹筋にかすかな痙攣を見た。自分の皮膚に内にさえ力尽きる寸前の筋肉の発熱が在った。あしもとに轉がっていちど四肢をもがかせた男は文字通り穢い破損の気配によごれ、たゝたゝ惨めな見苦しさをだけさらす。それこそ、魂の燃え切って盡きた亡骸の無慘におもえば、あるいは正彦は男のすがすがしさをそこに見た。傍らに正彦は座り込んで海を、乃至は沈む日を見る。色彩はいよいよに色濃くなりまさって、そして滅びの色とでも云うしかなかったあざやかな色彩をだけまき散らす。
斷末魔じみたそれら色彩の破滅は餘にもおおらかで悲しく、痛ましいながらに悲惨をなどかけらだに感じさせない。すべては、と。いま悉くの總てがほろびたとしてそれが何ほどのものかと。それをいわば無機物の巨大な世界觀として正彦は、生き物の肉體のわびしさを羞じた。
「お願いがある。」
聲。
ものゝみごとに靜かに、
「おまえ、おれが大將みたくなったら、いっそ、殺してくれるか?」
不意に眞弓は口走った。…え?
と。それがあまりにも唐突だったので、きゝのがしてしまった錯覺にさえ捕えられた正彦は、かれの耳がたしかに眞弓の聲を聞き取っていたことにおもい當たる。正彦は理解した。心情の詳細云々をではなくて、たゝかれの切実さ自體をだけ。いぶかった。しっているだろうか、と、いま、お前はおまえの一番大切なものを自分にさえき附かれないで穢してしまった。あえて正彦は何も言わずに燒ける空のいろにそめられるしかない眞弓の顏の盡きはてたやすらかな無表情を見詰めた。
自分の頬が誘惑するまでにも笑みに、やさしく綻びていることには氣づいている。
「約束しろよ。」
眞弓は仰向けのその儘に、空に投げおろした眼差しを揺るがさない。
うなづいた正彦を見もし無かったはずの眞弓はすぐさまに
「誓え」
つぶやく。…盟約。
と。
眞弓は口の中にだけさゝやき、
「俺らの、密約。」
靑。
澄んだままに黑みをます靑。
その色は消え去りはせずに、いよいよ躬つからの色彩に淫した果ての黑に墜ちるにすぎない。日没の紅蓮は正面に見る空の中天をは決して汚さなかった。なにもとりたてゝ語り合いもせず、眼をあわせることのない數十分を過ごしたあとに雙りは別れる。海から上がった道路に眞弓が正彦に、明日までの別れを告げてお互いの背の向きかけた一瞬に、
「ここらへん、瀧ってある?」
ふいにおもいだした正彦は振り返った。
「瀧?」
眞弓は素直に、あっけにとられた顔をだけさらしてゐた。
「寺の中かなんかに…近くに?」有名らしいんだけど——と、謂い終わらないうちに眞弓の笑い聲をきいた。「陰陽の瀧だろ。稱名寺ってお寺がある。弘法大師がどうのこうのって。興味ないからな俺。委しくないけど。」
どうした?
窺うまなざしの隠しけれない不審のおもいが正彦のまなざしを已に刺した。問い返すこと葉に返すこと葉を探しあぐねた一瞬を、眞弓は見逃さない。…いいけど。
さゝやく。
ほゝえみ、「行ってみろよ。綺麗らしいぜ。けど、遠いぜ。」
「山なの?」
「瀧だからな…」平地に瀧なんかないだろ。
邪氣も无い眞弓の笑い聲の、ひとのうしろぐろさを疑おうとはしないかたくなゝ気配が、その眞意はともかくも正彦を羞じさせた。眞弓のまなざしは離しがたい少年のうつくしさの朱にそまる半身にいつか見蕩れた。
「百合って咲いてるの?」
「百合?」やゝあって、眞弓はこともなげに答える。「…じゃなくて、蓮でしょ。お釈迦さまの。佛さま乘かってる坊主くさいあれ。蓮の花。いっぱい咲いてるらしいぜ。季節はしらないけどな。」
その日斷りもなく歸宅せずに、深夜に部屋に忍ぶことさえも无かった正彦を悠貴はこゝろに案じた。美禰子は惑うしかなかった。すみ江は九州に出かけた忠雅には告げなかった。激怒と憤怒は歸って來るものも追い出すにちがいなかった。もう一日樣子を見てから警察にもなにゝも届出るつもりだった。悠貴は正彦がもう二度と姿を顕さない予感におびえるとゝもに、時もおなじくにあわい期待を隠した。自分の眼差しのうちからさえも。
*
* *
ひらかれた眼差しが已に音連れていた自分の覺醒を知った時に、彼女は自分が眠りに落ちていた叓のいまさらをき附く。みゝ元がさゝやき聲をきいてゐた叓は知っている。おもえば覺めかけの刹那だったに違ない眠りと覺醒の境界で、開きかけた瞼はしろい空間に拡がる水の面の波紋を見ていた。
眼の前に正彦が笑っていた。
身を横たえた儘に、覆いかぶさるように顏をのぞかせた正彦の眼差しに悠貴は飛び起きるでもなく見つめて、のちのようやくにくちびるを笑ませた。
「來いよ。」
正彦はさゝやく。
ゆうき、と。
彼が呼んだみゝ元の自分の名前がほんの數秒前に自分をめ覺めさせたことに悠貴はおもい當たった。
僞りではなくて、兄のかたわらに在ることの安堵が疑いも無く在るのは事實だった。
正彦は悠貴を待ちもせずに立ち去ってしまったので、彼女は身を起こすと開け放たれたままの引き戸から身を滑らせてうかがう。とりたてゝ慌てた譯でも无い悠貴の眼差しは引き戸の向こうに兄の姿をは認めなかった。
なにをかにいるともなくに、氣配らしきを追ってみる。
耳も肌も彼の居所も行く先も突き止る手立てのない廊下を歩んだ。
緣側に出ると明けを知った空の光が、夜の終焉の事實を突きつける。
まがうことなき朝。
緣側脇の小さな池をいただく庭には彼の姿は無かった。
突き当りを折れて父と母の部屋の前を過ぎる。
気にすることはない。彼は昨日歸って來なかった。
昨日、美禰子は明後日出張から歸ってくると云った。
明後日の朝、まさくんがいなかったら、どうすればいい?
云って、母親は歎きとも怯えとも焦燥とも分かちがたい眼差しを曝した。
水商売あがりの矜持じみて、美禰子が起きるのはいつも遲い。
地震の時にも起き出さなかった。
彼女が起き出してくる可能性などない。
玄關近くのうす闇の中に、みぎりの奧の客間の向こうに炊事のものらしい音がたつ。
すみ江の台所で立てるそれに違いない。
玄關の引き戸をあけると家屋そのものを隱して仕舞う企みかにも竹の林が広がる。
恐らくはたゝひとつの音が繁茂させたその夥しい分身の群れ。
ほんの十メートルで盡る。
身を自然の儘にみぎりにながせば、折れたさきの石敷きの地面の向こうの広大な庭の突端に正彦が立ってゐた。
遲れた悠貴をなじるでも无くて、かすかに色を翳らせた正彦のまなざしに悠貴は隱された彼の、單に肉體の疲勞をしった。
鈍いうごきの悠貴をまっていたのかもしれ無かった。
まねくともなくあるきはじめた兄について庭を進む。
夜も朝も昼も知った叓ではない櫻の花弁が、庭のところどころを雪の色に亂して染める。振り向けば家屋の背後の山肌にもその色彩は、立った霞か包みこんだ霧にもにもおもわせて、たゝ好き放題に亂れ散っているはずだった。
悠貴のまなざしは浮いたおびただしい櫻いろにしずんで、波のたつこともない水平のひろがりを見る。
そっけないほどにも気配は澄んでいた。
もとからあった自然のそれに手を加えた謂わば半自生の池の汀に、あえて草の葉は延ばされて、悠貴の正面のやゝかたぶいたそこには斜にながれて水の面にもあやうく枝を触れそうな櫻がある。
季節の當然で、咲き誇られた花辨の群れは池の水のすれすれにそよいだ。
散り櫻にうめられて、水のおもの櫻のはなをうつすさないのを矛盾とはしりながらも口惜しくさえおもう。
花は水の半分近くを占領して自分にそめあげた櫻の花ゝは枝ゝに、朝の斜めの日差しに色立った。
悠貴は池の汀に立ち止まって、池に目をなげた正彦に從った。
よりそう背後に妹が立つ叓を正彦は赦した。
やがて振りかえりみれば、悠貴の何も云う可き叓をもおもいつかないまなざしを、見つめたて正彦は目に映るものゝいとおしさに素直に見蕩れた。
うりふたつの雙子の兄妹だった。
おもえばいとしい女の似姿を求めるなら鏡をみればこと足りた筈だった。
正彦は鏡のうつしいかたちに焦がれるものがなにもなかった。
意味を時に解きあぐねた。
兄のゆびさきが自分の亂れをしる前髪をなぜたのを悠貴はしる。
あらがわなかった。
時に池に放たれた鯉の數匹が水面に音を立てた。
すみ江の炊事はここまできこえる筈もない。
正彦がさゝやく。——寂しかった。
それがでまかせに近い戯れ言にすぎない叓にはき附いていた。
自嘲じみたひゝきがあったから。
「心配だった?」
「…お母さんが、」
「お前は?」
心配だった、とは、云いきれないこゝろの事實は已にわすれられ、あえておもい當たるすべさえなければ悠貴は、とはいえおもわずに正彦の凝視から目をそらす。流された眼差しは水の面に浮かんでゐた見馴れない花を見い出してゐた。
櫻の花びらが白に桃色をひそませるなら、そのおおぶりの花は白に紫の色をほのかにさらした。
そこに、櫻にも水にも水のうつすひかりの翳りにもまじわらなくて一凛だけの、しろい紫は散った桃いろの白の散乱にあやうくふれかけられながらその孤立をひやゝかに際立たせた。
きれい、と。
いいかけた悠貴は口を閉ざした。
睡蓮。
早すぎる。
睡蓮の花が三月になど咲くはずもない。せめて、と。
數週間は早い。
「百合じゃないよ」
正彦が云った。
その、
「なに?」
おもいだしたような聲を聞く。
「…あれ、百合じゃない。」
正彦はちかづいた妹の髮の毛の匂いを嗅いだ。
「…おまえの花。陰陽の瀧の。」
睡蓮だったよ。
さゝやく正彦の聲が耳にだけふれて、
「いっぱいあった。…けど」
聞く。
「早咲きのが一凛だけ咲いてた。」
その瞬間に、おもわずに兄の失踪ないしは死という、いたくてくらい未來への不安の予感があっけなくもいま掻き消されてあることの安堵がいまさらに、いっきに悠貴の淚をあふれさえた。
かたわらに、しゃくりあげる悠貴の歪んでひきつる眉を正彦は誇ってゐた。
「きれいだろ?」…お願い事したら?
言いかけた正彦は、
「しんじゃう」
耳にふれる。
「折ったら、…」
聲。
悠貴が亂れた聲を立てゝいた。
「折りたかったんじゃないよ。わたし、…だって死んじゃうよ。」
生首、と。
不意に自分が冷たい水の中に入り、岩肌に足をすべらせながら慎重にも切り取った睡蓮の花が、それが切り落とされた花の血の無い亡骸にもおもえた。
もう、しない。
おそいよ。
もう、にどと。
しんだら、もどってこない。
やくそくする。もう、
にどと…
ぜったいに。
すれすれの至近距離にふれあわない儘の肌がかすかに体温をかんじさせて、おもう。正彦は、水。先で瀧に雪崩れる川の、いまだにこおりつきそうな冷氣の岩に流れて千ゝにもみだれ、散亂する飛沫の眞ん中に嘘のように密集してゆれる綠の葉の群れ。月のひかりの中の暗い濃い翳りはそれらの躬づからの色彩を暗示してゐた。いまだ蕾さえないなかに、一凛だけの場違いの花はほのかにも色を際立たゝせて氷りつくことも无くに、馨りたてっておもえば正彦は思わずにも目を見はるたてはきゆるこほりのゝこりなく
きみかこゝろは
われにとけなむ
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