きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□はるたてはきゆるこほりのゝこりなく/4
以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。
前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。
短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。
読んでいただければ、とてもうれしいです。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる
五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや
滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの
亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは
きさらぎの雪
春
文型
戀哥一
たいしらす
よみひとしらす
はるたてはきゆるこほりのゝこりなくきみかこゝろはわれにとけなむ
或る風景
承前
「花。」——咲いてるの、と。風間有紀子と言う名の同級生が「陰陽の瀧にさ、岩に」云った。その「瀧の上にさ」窃盗と淫賣の噂が絶えない女。彼女を「磐ってるじゃん。そういう」家に擧げればいつでも「磐にさ。」どこでゝも「川の中の岩だよ。」お金なにかがきっと「割れ目に咲いてるの。」なくなる。噂で、だれと寢たという話はいくつもきいた。ひとの戀人とさえも。富裕層とはいえないまでも大手企業勤めの親に不自由なく育てられながら、だれかの部屋にころがりこんで誰かに抱かれて遣る。なにかをくすね続けて時には友達に戯れの万引きの成果を見せた。時ゝ公園の樹木の翳りでさえも何人かと、と。たとえば一緒に市内のデパートに云った時にもぬすむ。雑貨屋でも。果物屋でも。だれとでも。見た。だれもが。一度だけ悠貴も一緒に入った文房具屋を出た時その前の道でふいに笑い出した有紀子は振り向きざまに悠貴の鼻先に拳をひらめかせて、「オッケー。」ひらいた手に消したゝひとつのゴムを見せて、「やっちゃった。」笑った。
聲を立てゝ笑う正彦を悠貴は咎めない。
「なんだよ、それ」
たとえば
「きれいらしいよ。」
かわのみずさえが
「ほしいの?」
ふゆのいただく
「じゅもんがあるの。」
ゆきのつめたさのうちに
「なに?」
いつか
「それ、したら、願いがかなうの。」
こおりついたとして
「なんて?」
れいどの
「ふるべゆらゆらとふるべ」
かたちをなしたみずの
「なにそれ」
そのうえに
「まだある」
さくのか。その
「なに?」
はなは
「たまのみしずくふるべ」——しあわせなれるって。悠貴は顔の上にかすかに亂れる正彦の笑ういき途切れた遣いの向こうに、「いま、」と。
彼を見詰めた。「いちばんほしいものが手に入るの。」…夢、見てる?
正彦はさゝやく。
息をひそめた。
おまえ、…
はだをかさねるときは。
ゆめ
いつでも
見てる?
さゝやく。
ほしいの?
聲などなにも無かったかのように。
ほしくない。
たゝ空気が意味も無く震えて仕舞っただけと。
ほしい?
そんな嘘をさえ。
…ぜんぜん。
自分たちの聲にもつき通させながら。
見蕩れた。
正彦は眼差しが見い出すおもいも戀も邪氣も心すらもなにもないたゝ切実なやわらかなほゝえみの、いつか悠貴の頬と双渺のいっぱいをいろどりつくしたのに、或いは彼は初めて彼女の笑う顏を見た氣さえもすればむしろまぶしくさえ。かんじられた。ひかりなくともかんじられたそれ。ひかり。まばたき、まばゆいばかりにも日曜日の晝、一時過ぎの日のひかりの直射の砂濱に正彦は約束を果たした。
眞弓は先に來て彼流儀のストレッチに自分の體を淫して飽きなかった。まるで軟体動物のおどるかのような、笑うに笑えないストレッチは祖父藤尾の考案だと云った。部活でも彼の祖父の訓戒を守るかたくなは知っている。
鎌倉の海邊は未だに當然のはだ寒さをさらしながら正彦は、かならずしもそれを厭うともなかった。むしろ適度にもひやんだ清冽と、なまめいた潮のなまものゝいかにも命の群れをうちにため込んだべたつく臭みとの交雜を愉しむ。眞弓は一方で何の気兼ねも無い快活を裝い、その一方で本等に身も蓋も無くいき附く肉躰の快活を感じた。
眞弓が海に入って泳ぐのを見る。遊泳は禁止されているに違いない。海開きにはまだほど遠い。眞弓の肉體の知った事ではない。縦にも横にも泳ぎ、沖に出かゝってその途中に立ち泳ぎした。ふりあげた腕の下にクロールの背の荒くいき遣うのが正彦のまなざしに確認された。海のおもに波にも搖らぐ手を擧げて、そして振ったように見えたのは正彦を誘っていたに違いない。いつものように眞弓が正彦の水泳の苦手なのを忘れた叓を、正彦ははにかみの内に笑んだ。
波は荒れた。
眞弓の虐め抜かれることを求めた肉體には心地よかったに違いない。鐵ってさ、と。慥か十三歳の眞弓は云った。叩きまくられて強くなるんだよ。そのこと葉に正彦はなんども顏を合わせた藤尾の面影を見た。祖父の受賣りそのまゝだったかも知れないこと葉を眞弓は、あるいは受け賣り故にこそ羞じることはない。
眞弓は祖父の事を正彦には師匠乃至は大將と呼んだ。さすがに面と向かって仕方なく呼ばざるをえないときには恥じらいながらにおじいさんと呼んだが、眞弓のおもう師弟關係の理想のかたちがその呼び名のしたしさを不當なものとおもわせた。雙りが年の十をこえたころには藤尾の肉體はその筋肉無力症を顯在化させていた。已にうすうすにはしられてゐながらのいまさらに、孫にも自分の肉體の異變を告知したときに藤尾は、殘酷な告知に孫がまゆひとつ動かすでもないのを誇った。告知の日、眞弓は部屋のベッドの中で恐怖とも悲嘆とも言えない、或いはその二つにさらに無意味な悔恨をさえぶちまけたかたちのない感情の出たら目な鼓動に一睡もできない夜を過ごした。何度も祖父の死さらには自分の軈て來たす可き死をも思って淚をさえながしたことを、遂に眞弓は藤尾にっも隱し通した。十四歳の時に祖父の肉體は極端な惡化を見た。最早立って歩けない躰と表情を作るのに困難を來たしはじめた顏にいびつを曝し、うごけない瘦せた塊りじみた彼の六十をこえた肉躰は骨ごと細ってみえた。かつての筋肉の矜持の血走った筋が大氣に蒸発していったかの肉體のやつれに眞弓はたゝ喪失の悲しみ以外の何を感じることも出來ない。大切なものの穢され、奪われ、辱められ、痛めつけられ、嘲られ、唾さえ吐かれる痛みを眞弓はこゝろを喰い破らせて、肌にまで擦り附けられた氣がした。
車いすをひく。
家族旅行で四國の金毘羅に詣でた時も、はるかな山上の奧の院まで祖父を負ぶってつれて行った。十四の孫のおさなさを殘す可きはずの背のますらをの強靭の上で見晴るかす四國の風景を目にいれた時に、眞弓は誰かに膝間附いて謝して廻る可くもおもわれた。孫は完璧だった。藤尾に宗敎など無かった。謝すべきをさがす刹那の逡巡のゝちに藤尾は自然に東の空に皇孫に謝した。御陛下、と、あたまに閃いたこと葉のひゝきにすぐさまに、戰死したともがらをおもいだせば自分の感傷に悔恨を咬んだ。
虛見大和魂。——そらみつやまとのたま、と。記紀に云う饒速日の詞をいじり變えた書を軸にして、畳の客間に懸けた眞弓の右翼じみたものいいと天皇憎惡の共存は眞弓にとっては解き難い謎の一つだった。眞弓の長じてのち、三十路を迎えた比にはとっくにまともに箸も持てなかった藤尾の老いさらばえた肉体が、眞弓の目を偸んで台所に無理やりに這い、なんとかに刺身包丁で腹を刺して在った朝の起きぬけの亡骸に、その前の前の日に崩御したかつての戰爭の大元帥への殉死にしかおもえない血まみれを、眞弓はたゝ聲を挙げて慟哭しながら祖父の理解不能な心を呪った。ある年号の末日の翌々日、晴れてゐたように眞弓は記憶した。ざわめいた。
波が。
無殘なまでに潮の匂いをぶちまけて、春の海、と。
慥かにいつにもまして海上は霞に噎せ返っていたのだった。
冬のやさしいあわい光を失った春の日差しは鮮烈さにはいたらない曖昧なやわらかな気配を漂わせる。それを春の固有の光というべきなのか、春の自壊してゆく移行期にみせたそのときばかりの軟弱さというべきなのか。正彦は逡巡する。
海を上がった眞弓が次に何を求めるのかは知っている。賴む、と。彼が口に出す前には已に正彦は眞弓の持參の木製の野球バットを、砂から拾い上げて片手に振る。
筋肉を縦横に贅澤にもおもわせて走らせた巨體を、濡れた儘にさらした眞弓はとりたてゝ型さえとらなくに、殴りかゝる正彦に襲い掛かることなくバットを流し續けた。振り下ろせば下に、振り上げれば上に、左右に斜にながす體の動きに流されるまゝのバットの無力に正彦は見蕩れもする。こともあれば彼の虛をつき叩き潰してやろうともする、くらい本能に咬みついたかのような欲望にも突き動かされながら、息をきらせた運動に正彦は飽きない。眞弓は自分から止めろとは言わない。正彦が力盡きるまで、運動神経の弱い譯でも無い正彦の攻撃を流し續けた。柔道の技では无い。祖父の直傳のそれにほかなら无い。體躯の舞うような動きに無駄は无い。さゝいな無駄とそのために受けた僅かな痛みの骨への反響が、眞弓に怒りにゝた感情を醒めた儘に植え附ける。自分の體躯の舞の出たら目な粗雑さを憎惡する。一ミリの亂れこそが彼に鮮烈な屈辱を與えた。
力盡きた正彦が足をからませた一瞬をいいことに兩肩どころか、その上半身のすべてをあらゝげて、わなゝく下半身のくずおれるまゝに砂濱に轉がった時に、眞弓ははじめて聲を立てゝ笑った。笑いながら、いともたやすく彼は躬づからも砂にもんどりうつ。倒れ伏し、緊張を解かれた肉體が一氣に息を切らせれば、肺の破綻したかのいき遣いが分厚い胸を上下さす。體中に痛みがあった。正彦の鈍くはない殴打がいつのまにか眞弓の全身を苦痛のかたまりにもした。
息の整わないうちに、もう一本賴む、と。
云った眞弓の聲に空を見上げたままの正彦は笑った。
一度警察を呼ばれたことが在る。數えて三度目に彼等が海邊の自己鍛錬に興じたときのことだった。端の遠目にはしなやかな凶漢の理不盡で一方的な折檻にしか見えなかったのかもしれないそれは、駆け附けた三人がかりの警官に制されて、説明した叓の次第に納得はしながらも警官は二度としないように嚴重の注意と、學校へのさらなる罵倒じみた注意を忘れなかった。曰く、あなたがたの頭のおかしな學校は靑少年暴力公認ですかとも。眞弓の氣にするところでは無かった。眞弓に云わせればますらをぶりを忘れた子飼いの公僕の臭いものには盖式のたわごとに過ぎない。戯言に、お叱りのあとで正彦にそう言った。學校からの報告を琢磨は諫め、はゝ親美紗子は案じるあまりにあえて沈黙を守り、祖父は警察の家畜振りを嘲けてわらった。
三本もバットの亂打に興じれば日は暮れかゝる。
海のおもに距離を近くしながらに、日のひかりは未だ燒ける叓を知らない。もうすこしで、ということだったのか。透明にもいよいよ澄み、澄み切りながらに靑にを濃くしてゆく空のしたに、しばらくは砂濱に伏し疲勞をむさぼった眞弓は息の荒い儘に身を起こして、次賴む、と云う。眞弓の打ち身に赤らんだ斑点を點在させる肉體のやゝ斜めに立つ。眞弓の兩腕はもたげられて已に掌は躬づからの後頭部を握った。
「いいの?」
いつもの泣きながら無理やり笑ったような笑みをみせて、微笑む正彦に目を閉じた眞弓はうなずく。
「好きにしていい。」
一言、眞弓は云った。
渾身を込めた腹筋を正彦のおなじくに渾身のバットの鋭い振りは何度も殴打し容赦しない。
夜にはまだ遠くとも寄る波の音はいやがうえにもみゝにふれて、眞弓は自分の肉體に噎せ返る苦痛のよせ碎くともなくに響きつづける束なりのぶ厚さに、たゝ我をさえわすれていとしい男の散らす汗にまみれた顏をみる。
少年の花の蜜のにおいは鹽のそれにもまして、ごく至近にさえもにおわれておもった。
見開いたまなざしにとらえられるだけの貪欲で眞弓は彼を見い出しつづけた。もはやこのまゝにこの男にこそ骨ごとに碎いてほしくもおもわれた自虐は、あざやかに肉體のみなぎった鞏固そのものに粉碎される。
おまえには俺を壞せない。
喰いしばった奧齒に血の匂いすらかんじさせる苦痛をみいだしながら眞弓は彼をみつめつづける。
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