きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□はるたてはきゆるこほりのゝこりなく/3
以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。
前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。
短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。
読んでいただければ、とてもうれしいです。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる
五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや
滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの
亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは
きさらぎの雪
春
文型
戀哥一
たいしらす
よみひとしらす
はるたてはきゆるこほりのゝこりなくきみかこゝろはわれにとけなむ
或る風景
承前
三時や四時の時間をなんと呼べばよいのだろう。深夜というには夜はもはや終りにふれすぎてゐて、しのゝめというには空の東に明けは兆しだにし無い。ましてや早朝とも呼べなかった。何なのだろう。そのあいまいな、あるいは自分たちの爲だけに一日が用意した他人たちにはふれられない時間でこそ、と。そんな必然の在った氣さえもする。だから、と。その時間帯には他人の名づけた相応しい呼び名さえもないのだと、だれにも他人事の時間を正彦だけは貪った。
素肌をさらした腹部に正彦のくちびるがいとおしむのを悠貴はあえてあらがわなかった。正彦に焦がれるおもいなどもとからない。さげずむには切なすぎた。自分にもまがうばかりにうつくしい數分だけ先の兄は悠貴にとって、鏡にみられた自分の姿のひとつの如きものにも過ぎなかった。戀など。ましてや憎む氣にも成れずして、悠貴は彼がだれよりも傷附いているとさえおもう。物こゝろつくからに自覺されざるをえなかった悠貴のうつくしさがまっさきに壊したのは最も身近の似通った存在に他ならなかった。
正彦は被害者だった。彼女への加害者では在り得なかった。故に、せめても彼はその焦がれたものを手にしてしかるべきだった。馴れきった手のなじんだ愛撫はとはいえ異物として感覺を殘し、すでにふれられてゐた肌のあたえて在った体温の存在にき附いたいまさらを悠貴はおかしくもおもう。かたちになりかけてはおもいはとけて、そのくせに消えもせずにかさなって、さらにはこゝろが通わなければ肌の感覺はたゝ單なる惰性にすぎない。靜かな自分のいき遣いを聞く。そして正彦は妹のつゝましやかな肌にこまやかな喜びの散乱の息吹きを嗅ぐ。朧ろにもうつろに、うつろにもうつゝに、たゝ他人の肌の触感のうちにほろび去っていく自分の時間のなかで、悠貴はうたゝ寢に墜ちかける寸前のまなざしの白濁の中にも夢を見る。
うつくしいのか。
なまめかしいのか。
優雅で、華麗でさえあるのか。
殘酷なだけなのか。
ちがうのか。
誰がおもいさだめられただろう?
その、食欲を消し去る陰湿な匂いの破壞性。
こゝろをもてあそんで碎く。
花のにおい。
拡がる沙漠に花が匂う。
夢のなかにさえも、とも、自分の嗅覺を疑う前には眼差しの視覺を疑う。
沙漠はたゝ荒れはてもせずに純にも砂を湛えた。
疑ってはすぐに躬つからの愚かしさを笑いそうになった。
足元のふかいところに立った誰かの笑い聲は、自分の覺めた目のたてたものに違いない。
知っていた。
悠貴は自分がいま夢をゐていることをは知りながらも、夢のさめず夢のさ迷う道にふみまどうた儘だったならば、夢のうちで夢にだけ淫する以外に爲すゝべなど无かった。
定めとも言えない事の当然に從うともなくに、悠貴は夢のうちに振り返り見はしない。
夢の内ならばこその夢見心地など在る譯も無い醒めて冱え切った意識と感覺のまにまに悠貴は、振り向いたそこに姿を曝した細い瀧の上の一凛の美しいしろい花の咲き隠れていることをは知っていた。
抑ゝ、この夢の総てはその花でこそあった。
みゝに瀧のうつ水の筋の磐にあたって碎ける響きがこだまして、悠貴は沙漠に日の暮れるのを見る。
これは間違いだ、と思う。
あの花。
けなげにも花をよぎて碎け落つ水の無數の飛沫のかげのわきに姿を曝す花の白。
花というものがいくら白くとも桃、紫、黄、だいだい、その他のなんらかの色の匂いを浮かべてひそめさせるものだのに、その花の花辨の白に雑じりけはなにも無かった。
めしべの濃い白の周囲に添った複數のおしべ粉散る黄色の沈黙の、そのあわい綠のうえのちいさな色彩さえもが花の白を壞す他人の色にこそ見える。
夢の中に、なんの生殖の必要があったろう?
とはいえそれを排除してしまえば花のかたちはそれに固有の香氣をさえ奪われる氣がして惜しい。
くやしいまでにすべてが美しい、と。
悠貴には赦せなかった。
沈む日の沙漠を染める朱は純白の花には似合わない。
むしろ明けの反對のくらい濃い純な靑黒の透明のひかりを悠貴は求めて、薰る。
みだらにもおもえるばかりにも。
嗅ぐ。
匂いたつ馨を。
知った。
悠貴は自分のほゝにいつか涙のながれていたのにき附いて、——なに?
みゝのきゝ取った兄の聲に悠貴はまばたく。
「どうしたの?」
はく息をあらゝげて、おもいの切なさと感覺の切實を訴えることも、ましてや聲を立てゝ彼に肌の情熱を訴えることも無い謂わばどこまでも靜まりかえって、彼女躬づからの戀のおもいのうちにとけきえてしまうのが常だった悠貴の、ふいに曝した音も無い淚に正彦は目を留めてゐた。
こゝろに慄きも不安さえもないのを、正彦は躬づからいぶかる。
妹は泣いていた。
すくなくとも涙を。
歓喜のものであるはずもない、靜かで冱えたそれ。
感情などなかったかもしれない。
おれは冷たい人間なのだろうか、と。
ふいにこゝろにうまれた悲しみにちかい、あくまでもあいまいに翳ったこゝ地にその刹那、こと葉につまり、褐色の瑞ゝしいほゝの肌にながれておちる淚の筋の玉なすきらめきのほのかに見蕩れ、やがて正彦はそのあたゝかな水にくちびるをふれた。
悠貴の体温というべきなのだったのか。
正彦はまどう。
その、くちびるにうつくしく冱えた水のはらむ温度は、…ね。
と。
おもいだしたように突然に、女の開かれた唇はかすかなさゝやき聲をはいた。
「知ってる?」
思いだす。
正彦はその悠貴の聲に、此の同じ風景をいつかどこかで見たことのあるのを。
赤裸ゝにもふれあう素肌のかんじ出した温度をもふくめて、すべてのことごくのあまねくすべて。
なに?
こと葉には出さなかった正彦の問いかけに
「…あるんだって。」
應じたかにもおもわせて悠貴のくちびるは
「花。」
つぶやく。
「なに?」
きれいな、…
「百合の花」
ね?
「どこに?」
すっごく
「瀧の上。」
きれいなの
「どこの?」
みたことないくらいに
「陰陽の瀧」
ひとつだけ
「なにそれ?」
いちりんだけ、ね、
「しらない。」
それ、はるでも
「…瀧?」
なつでも
「わたしも、」
あきでも
「ここらへんに、」
ふゆでも
「しらない。でも」
ゆきのふったひ
「瀧なんて…」
あめの
「有名らしいよ。あの子が、」
おおあめの
「遠い?」
ふったひ
「有ちゃんがおしえてくれた。」
たいふうのひとか
「奥の方じゃない?」
かみなりなる
「今日、…」
どしゃぶりの
「どこらへん?」
そんな
「お寺の、」
まっくらいひ
「しらないな。」
どんなひも
「…近く」
あけがた
「名前は?」
ひのあけるまえだけ
「しらない…」
ひらくんだって
「瀧なんて」
そっと、それ
「あるんだって」
…ね
「おれ、」
みたくない?
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