きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□はるたてはきゆるこほりのゝこりなく/2
以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。
前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。
短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。
読んでいただければ、とてもうれしいです。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる
五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや
滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの
亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは
きさらぎの雪
春
文型
戀哥一
たいしらす
よみひとしらす
はるたてはきゆるこほりのゝこりなくきみかこゝろはわれにとけなむ
或る風景
承前
聲を立てゝ、そして嘲笑まじりの正彦のいかにも親しい笑みの侮辱を眞弓はたゝ祖父に倣ったますらをぶりのわい聲のうちに赦した。他の同級生にはおもいもよらない行ゐだったには違いない。中學の進學をまって鎌倉へ移住する正彦たちに別れを惜しんだ同級生の切なげなまなざしの中で、柔道の部活のためにおなじ鎌倉の中學に進學する叓を祖父に決められた眞弓との偶然を、宿命じみてこそ友のおもう叓を正彦はき附けば、あるいはそうかもしれないとも。その琢磨の決斷した一家移住の理由の大半は、藤尾のおもてのこと葉とはうらはらにむしろ衰えを關とめ得ない藤尾の療養の爲とこそ言えた事實はともかくも。いずれにせよその三月。
きさらぎという可きなのか彌生という可きなのか。とはいえ櫻は正彦のゐ住する鎌倉の、いまだに工事の終わらない邸宅の庭にも咲いた。
家に歸る道すがらにも櫻の花ゝはこれみよがしにさえ咲いて咲き先ばしって散った花弁のいくつかは髮にも絡む。
アスファルト舗装されたあたらしい道を曲がって折れゝばしばらくはゆるい坂をのぼる。坂はコンクリートに荒く塗りこまれてざらついた表面を曝し、片側に切り立った斜面の生わせた若い樹木の影を、軈ては潜って更に曲がれば壬生忠正の買い上げた所有地に入った。
竹を周囲にしげらせた石段をあがった。喩え夏のさかりにであってもその日翳のひえびえする凉氣をさらすことはもう、なんども肌にふれさせた。
石段に苔はまだむさない。敷かれたばかりの石のむれはふむ足うらに自然を裝った好き勝手のおうとつの企みを見せた。
正彦はその階段の、竹の翳りがかならずしも嫌いではなかった。匂いがあった。
まがまがしいほどに生き生きと清冽な鮮度の強靭を湛えた、決して鼻になじむことのない竹肌に固有のそれ。
さゝが鳴る。
風などかんじられないときにも。
見上げない上で、慥かに。
匂う。彼のこゝろの抱え込んだあの妹の曝す、いかにもちゝ臭い生き物のあまやいだ臭気ともいうべき芳香のなまめきとはにてもにつかない鋭利のそれ。
さゝがさわいだ。彼が妹に焦がれているのは事實だった。だれにも告げたことのない事實はたゝ彼の胸の内に夜の夢。例えば潮騒の薰る夢、岸邊にうかぶありあけの月の映える夢、雪の純白にうずもれて氷る夢、軈て花の散る夢、それら樣ゝにそれぞれの樣ゝな夢の中にさえも悠貴の気配はどこかに感じられた。
戀、と。
なにをもって戀の完成とするのか正彦にはおもい附きえなかった。
結婚というものが雙りの戀の結ばれたゆき先だというのならそれは彼等には在り得ない。雙子の兄妹の婚姻を誰が認めるというのだろう?正彦はそれのどこが、なにをもって禁忌とさるべきなのかそれをはついに思いあてられずにも、とはいえ、かの女のおもいも自分にかたぶていることをはおさない日のころからにあざやかにも感じ取っている正彦にとって、雙りの已にこゝろも躰さえもがわけがたくも結ばれて仕舞ってゐたのは事實だった。赤裸ゝにさえ歎きをさらす明け方の悠貴のまなざしは、自分たちの肌にもなじんだ戀の行く末の覺束なさの兆させた物だったには違いない。
笹は匂う。
ざわめくしかない。
季節をだにしらないそれ。
周囲に舞う蜻蛉に云わせれば謂わば、貪欲なまでの永遠に近い長い時を刻むその竹の林は、根を同じうして地の下を這いずりまわって占拠する。
薰った。
好き勝手にも、鼻孔を斬り捨てるかの芳香の鮮明のいたみ。
音。
聴く。
こすれる。
風。
ふく。
ゆらぐ。
馨。
亂れる。
大気だけが、たゝかすかに。
正彦はおもわずに笑った。
十五歳の少女に石の段の急勾配は毎日の苦行だったに違いない。
息をきらせるともなくいかにも難儀がったその少女の後ろ姿を見た。
だれのみている目のあるをさえしらなくに、恥ずかしげもなく訴える。
春の白いセーラー服が漏れる日に色をさらけださせてきらめきの白濁におちる。
いき遣いがきこえたきがした。
白濁のきらめきはゆれうごく少女のからだに添う。
彼女の苦行に、正彦の男の足はすぐに追いついて仕舞う。
聲をかけない。
足音と氣配ですでにき附いてゐる筈だった。
事実、そうだった。
振り向かない少女に自分への誘惑を見た。
つれなさを裝ったそれ。
あえて頸を振って見せるにゝた。
すれすれのちかくにいつか美しい少年はゝらからの少女のうつくしさに添うた。
幷せて、髪の毛ののばされた豐かの匂いにも。
淡く、きらせた悠貴のいき遣いを正彦は聞いた。
みゝもとに、——温度。
たとえば、肌の、内側からはなつはずのそれ。
何も言わない。
何を言おうとしても云う可きなに叓をもおもい附かずに、さらには抑ゝ何を謂う氣もない。
音を聞いてゐた。
たゝ、笹の。まじる息遣いの。…だれの?
きみの?
と、かさなりあう雙つの。
淫する。
たゝ愛すべき彼の女の存在の気配に。「知ってた?」と。
玉散る。
聲。
いきなり少女が云ったので、壬生正彦は一瞬こと葉を失った。
「なに?」
と。
おくれて、ようやくに顏をあげた。兄を見た眼差しは刹那にも戸惑いにうるんだ。
潤み、なにもにおわせもせずにたゝそのかゝやく色をだけ増すまなざしの冱えたうつくしさを正彦は恨んだ。
「なんでもない。」
ややあって、悠貴は諦める。
そのささやいた聲を耳に反芻して、まばたく。
奧齒をいちど、すこしだけかんだ。正彦は振り返りざまに悠貴の二の腕をつかんだ。
立ち止まって、匂われたのはそのすでに肌さえ知った女の、やわらかな生き物の芳醇な髮の毛の匂いだった。
おれの女だ、と。
正彦は心に独り言散た。
「言えよ。」
ちいさく、叫ぶようにも。
悠貴の目は何も言わない。
なぜ自分が妹を咎めたのか、正彦には理解でき无い。
妹に、なにも謂う気が無いのだから、何を云う筈もなかった。
悠貴の沈黙を打ち破るすべなどないことなど正彦は知ってゐながらに嗜虐にゝた、そして自虐をもあからさまにふくませた、くらい切なさがこゝろにおちた。
唇をうばうか、殴ってしまうのか。
ふたつにひとつしかないきがした。
おれは狂ってる。
思った。
なにもかも。——と。おれは。
「もう、」
悠貴の
「…ね。」
さゝやき声を聞いた。
「いいの。」
少女は走り去るでもなくて、おもわずにそこに立ち止まったまゝだった。
振り向き見た正彦のまなざしのうちに、かの女の目のかすかな諦めは正彦の双渺に捨て置かれた。
いたゝまれない気配が、すでに正彦のこゝろのすべてにも棘を散らしていた。
逃げるようにも正彦は一人で石段を上がった。
たちどまりもせずに。
ついに、竹林の香り立つ翳りを抜ければ城壁めいた古い朽ちかけの石組みの載せた平地に町は見渡せる。そこからは壬生の屋敷の庭の一部だった。門の前に二本の松の木が立った。車は更に遠い裏門の百メートルも先に、敷地に添うた山を廻る車道からしか入って來れはしない。戰後の復興をむさぼってはいあがった忠雅は相反して、そんな近代のものゝまき散らす臭気と騒音の居宅の内への進入を赦さない。いつかの古式の土壁を巡らせた門のうつ影を潜ればそれが必ずしも不当な嫌惡ではないことにすぐにおもい至る。慥かに靜か淸冽の氣だけが張る。屋敷を含めて忠雅の描いた庭の姿に抑ゝそれら生ゝしいものが共存する術は无い。正彦はその、いきなり時の歩みを止めてさえ見える庭の静謐に静謐をかさねた風景の沈黙の、これみよがしの排他性になにより彼が排除しなければならないのは自分たちでこそあるともおもい至る。それとも兄妹の同衾さえものゝあはれのひとことの内に、染めあがった散りかけの紅葉ゝの色のひとつとしてでも赦して仕舞うだろうか。それを試す勇気がない譯ではなくて、續く日常のほのかに滿たされてもおもえるやわらかな気配のやすらぎを壞すのがいやさに、正彦は惹かれないでも無い実験を現實に移す氣になれない。妹をまもる爲とも口實をつけて。まなざしのぐるりにひとの目の無い叓を知った正彦は、たちどまってしばらくに妹をまった。軈て、悠貴の腰に手を保護者めかしてもまわしてやった。無造作に石を散らした庭は女が歩くには手強すぎておもわれたからにすぎない。
めはとじないまゝに、たゝこゝろのうちをさぐった。
くちびるをそえた。
夜の深い時間。
なぜか女が閉めたがらないゝつでも開かれたカーテンの、その隱されない窓の向こうをはまなざしに確認するまでもなくて、そこには靑くらい空の闇がひろがっているに違いない。雲間の冱えた月でもうかべてか。
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