きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□なくなみた雨とふらなんわたり川/5
以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。
前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。
短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。
読んでいただければ、とてもうれしいです。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる
五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや
滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの
亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは
きさらぎの雪
春
文型
哀傷哥
いもうとのみまかりにける時よめる
をのゝたかむらの朝臣
なくなみた雨とふらなんわたり川水まさりなはかへりくるかに
或る風景
承前
いきなりにいった正彦のこゑをおもわずにきゝもらせば美津子は、なに?と、
「違う?」
さゝやきかえさせるまゝに、美津子がほゝえみかけた過失を、だれがき附くともなくに美津子は躬づからにいさめて消す。敎室は沈痛である可きだった。事実、沈痛でさえあった。
「しってたの?」
おもいあぐねた聲の色を美津子はきゝとり、ふいに皐月の泣きくずれたのにもき附かない。
春休みには春奈の失踪したらしいことは正彦のみゝにも傳わった。悠貴のくちからではなくて、むしろ睦んだ一郎のくちからに。「誘拐されたらしい」
一郎はふつかぶりにあった公園で云った。その、草野球のあとのあせのにおいの一郎にかぎとられるのを羞じながらにも、——誘拐?
「わからないけど。いきなり。きえていなくなった」
「脅迫電話とか?」
「ないらしいよ。」…神隱しなんじゃない?
いきなりにわきから口をはさむ木田寛治のこと葉を嘲笑まがいに、その下卑てみえたまなざしをは無視しかけて、こと葉をさがしかけた唐突に正彦は、「なにそれ?」云って、寛治にわらいかけた。
「呪われたんじゃない?あいつのお父さん、元陸軍少將でしょ。いっぱいしなせてるらしいよ。ほんとの戰犯だってさ。」まさかとも、一郎はいいかけにもふいに參觀日に顏をあわせたことの一度あるちゝ親なるおとこの、繊細さのゆゑとはしれたやせたひとのめをよぐような氣配をいまさらに不吉にもおもえば、…そうかもよ。
「やさしいので有名じゃない?」
そう云っておどけた正彦に同意したかにもわらい聲をたてる。悠貴の、かたくなにもはゝおやにさえも春奈の失踪のくちをとざしたのは、つれさられたには違いないあの少女の躬のうえに降る殘忍さの、いつじぶんにもふりかゝるかもしれない恐れの厭わしかったせいにほかならなかった。
警察の捜索は、學校の周辺になんども聞き込みの私服のいかがわしさをもふくめて、町中にひろげられているのはしれた。最後に顏をみたという証言は駄菓子屋のおかみと、學校をはさんだそのちょうど反對にある寺の住職と、春奈の家の眞逆の新宿ちかくの果物屋の嫁とから漏れ出て、どれがほんとうともみさだめられないまゝに、敎師も同級生も下校の姿をみたともみないともいいきれない曖昧な記憶のあやふやは春奈のかえりみられなかった孤独をだれにともなくあわれませた。
三か月ばかりをこえた春奈の不在はもはやたんなる日常にうもれて、敎室にめだっただれもすわらない空席さえもいつかゝたづけられはしなまでも出口のかたわらのいちばんすみによせられたその六月の、あじさいの夢の印象をいまだひきずる正彦はゝだにいもうとのうつした馨をさぐりながらに、おもえば校門をくぐったときにそれとなくにかがれたどこかあからさまにもゝのなれない氣配はこのことの故だったのかと思いあたって、ふたゝびに正彦はあめのふりしきるおとをきく。
その晴れ渡った日のおおよそをうすい雲にわたした空に、やがてはものゝみごとに何分もかぞえずにつきるにしても前触れもなくてに朝の驟雨の降り始めの音の周囲に騒ぎあふれたとき、田原つきという名の八十近い女がとっさに身をよせうるのは代々木八幡のもりの樹木の翳しかなかった。からだの老いにふれたのにき附いてからに日課にした早朝の散歩の午前6時に、くらがるともない空間にふる雨はつきをかすかにはおどろかせたものゝ、いそごうにもかぎりのある早足は中にうくようにも境内につづく石段をふむ。四、五段で雨をさえぎった樹木の翳りにまもられて、ひといきをいれようとしたまざなしはみあげたその先の石段のそのちょうど眞ん中ほどの、そこで曲がって樹木のむれのなかにおれるそこにながれだすくれなゐのいろの石を這うのを見た。
不審を思う目は、くれなゐをふくむ雨水のながれの上にみ馴れないかたまりのあるのをみとめる。つきはふみはずさないようにの慎重をぬれた石をふむ足のうらにふみ、二三段さえあがればそれがにものなのかをしる。
叫ばなかった。
悲鳴をあげるでもない。
にもかゝわらずむしろおちついてゐた自分のこゝろのうちを恠むこともない。
つきは石段を降りた。そこで、自分のなすべきことをさぐった。山手通りをおれて、僅かの距離の自宅をめざしかけたときに新聞配達の學生の自轉車のすてられたようにもとめられているのが目に留まった。やゝなくに門のうちから學生のすがたがあらわれたときに、つきの喉は泣き叫ぶような唸り声をあげてその場に倒れた。
警察に通報したのはその二十歳の學生だった。収拾のつかない老婆を、いちばん近場の家のドアをたゝきつけて助けを求め、とりあえずにかつぎこんだときには老婆はしんでいると喚いた。
「死んでないよ。」
その家の若いほうの奧さんらしきがくちばやに、あわてた姑の救急車をよぶ喚き声の間ゝに——死んでる。
「まだ、生きてますよ。」
八幡に、と。「もう死んでたよ。」救急車の來たときに、學生はいまさらに老婆のこと葉の不審をおもった。配達のスケジュールは抑ゝが已に破綻していた。理由は正當だった。しったことではなかった。自轉車で八幡の正面の石段によって、そして彼はそこに死體を見つけた。
正彦は椅子にすわりながらに、見開いたまゝの眼差しの中に慥かに敎室の中の新鮮すぎる悲嘆にそまりきったのをあらためても見い出す。いつかゝたわらのふりむいたそこに悠貴がすゝり泣く聲をあげているのにき附く。ひさぶりに、…泣かないで。
女生徒の誰かが云った。
きみの泣き顏を見た。
「お祈りしよう」——天国にいけるよ。
ほかのだれかの、
「あのこ、きれいなとこにいける」
聲。
女性たちのはんぶんちかくのなみだをそれぞれにこぼしている泣き顏のそれぞれの樣ゝが、夢の中におちたか乃至はいきなりのうつゝのうちにめ覺めさせられたかにもおもえれば悲しみがいまだにこゝろにおいつかず、正彦はましてや淚など。
一郎が、目の前に、あきらかに思い亂れたまなざしをむけて、顏をあげた。
正彦を見た。
見えた。
正彦は、醒めた儘にそのまなざしに雨。
どしゃぶりの雨の大粒の好き放題に撥ねる轟音の中に肉體は在った。
魂をうしなったそれはあきらさまな殘骸じみて、野生の獸の齒のそれにもおもえた腹部のきずぐちの引き裂かれた色のなかにはらわたは零れてさらされた。ちぎれた右あしのかたわらに轉がっていたのは殺した獸の仕業か。たんなるのら犬のじゃれてたわむれた結果にか。もがれた頸は頭部の不在を傷の斷面の肉のいろにさらす。あたまはひろげられたもゝのあいだに轉がって、とじられないままにいのちのない双渺を雨にうたれた。衣服のかけらもない全裸の肉體はそのちいさゝだけが少女らしさをさらして、理解しがたい方向にひだりうでをひん曲げていた。——死。
たしかに。
春奈は死んでいた。周囲を埋め盡した紫陽花のむらさきはその色彩をだけさらして芳香をは雨の中に捨て去った。悠貴のなき聲が、もはやたえがたくもみゝに、あるいは空間そのものにひゝきわたれば、聲。
ゆうきだけではなかった。
くちというくちのことごとくが無殘な慘殺の少女の爲にだけ叫び、つらなりあってなにもかにもがこれみよがしなまでにもひたすらになくなみた雨とふらなんわたり川
水まさりなは
かへりくるかに
Seno-Le、如月の三月
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