きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□なくなみた雨とふらなんわたり川/4
以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。
前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。
短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。
読んでいただければ、とてもうれしいです。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる
五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや
滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの
亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは
きさらぎの雪
春
文型
哀傷哥
いもうとのみまかりにける時よめる
をのゝたかむらの朝臣
なくなみた雨とふらなんわたり川水まさりなはかへりくるかに
或る風景
承前
それが見い出されたゆめのうちのにおいだということはしっていた。
懷しいにおいだった。
せつないほどに、躬づからが焦がれたほのかな。
厥れ、その、雨のなかにぬれた獸の柔毛のたてたにもおもえた陰湿な悪臭を、何故に厭うともなく厭いながらも鼻孔の奧にいつくしんで、いっぱいにすいこんでしまうのか悠貴にはわからない。
少女は少女なるまゝに、ふくらみもしない胸の乳首に獸のにおいの幼子のうでにだいたそのくちびるのふくんだすがるような齒のない口蓋の咀嚼ともない咀嚼のあどけなさにわらったのはじぶんだった。
聲がみゝのむこうにひびいた。
わらいごゑ。
めにふれ肌にふれたことごとくを已にゆるしはてゝ、少女は自分のうでにだく幼子への鮮烈な戀への鮮明にとまどう。
そんなことがあってはいけない。
おもうまゝにもせつなくて、悠貴は少女の耳にさゝやかれたにもにてふりしきる雨のおとを聞いたが宿命の、と。
いまさらにき附く。
千とせを千たびにもかさねてこの殘酷にして凄慘な世界に轉生し、そして添い、睦びあいつづけた魂のふれあいの、宿命のひとのかれだったがゆゑに自分はほかのだれをもあいさなかった。
自分にうりふたつのその幼子のいまだにひらかれない瞼の向こうに、ひろがったくらい空の永遠の時のきざまれてあるのをみいだせば、なんども。
いくたびも解き放たれること無く穢い世界の肉の闇にうまれおちるのはたゝたちきりようもなくにではなくて、たちきりたくないばかりに選び取った自分たちのこゝろの救われなさにすぎないとも。
おもいあたるまにまにまなざしは淚さえもかれておもえて悲しみとはけっしてなづけられない切なるこゝろのいたみにむせかるものゝ雨はぬらした。
花。
それ、むらさきいろの花にふれて花弁の繊細にふるえればおのづからに玉散るしずくのむれの無數の無際限は、たゝひたすらにもおびただしくて散らす。
おと。
散るしづくの、玉散るそれら、聞いた。
聲。
匂った。
肌の。
いまだに乳臭いおさなさのあった匂いのなかにあきらかに女の馨のめばえはじめて、おもわずにまどいながらにみゝもとにたった聲をきく。
あるいは、おと。
なにかをいわれたことにきづいて、六月のさつきの雨の中に降りしきる豪雨の地の壞れたにも思う音響の中に、きゝとれなかった聲をふりむけば顏のない人のかたちがそこにゐた。
ぬれもせずに。
それがだれなのかついにはおもいつかない。
だれ?
とも。
きくことさえためらわれたのはそれのめも鼻もくちもましてやみみなどかたちさえもない綺麗なゝめらかのゆゑにだったか。
それが、別れを告げに来たようにも思った。
あるいはいまさらにそいとげるためにか。
ないしともだてゝつれさるつもりだったのか。
ころしてしまうきだったのか。
のろいたてるためだったか。
ひとめを惜しんだせいだったか。
つきないおもいをただうらんだこゝろの名殘のゆゑだったのか。
正彦はなんともなくて、切にも躬づからのこゝろのかなしみにかみつかれたのをしった。
はじめてしった。
かなしいはいたい。
厥れ。
たゝそれだけを。
そのときには正彦はあられもなくに滂沱の淚を流し続けていた雨の中の自分自身に呑まれて、おもわずに口のひらかれきった空洞のわめきちらした絶叫をきいたまゝにひらかれためは室内のくらさのやさしい闇にまだなじまない。
惡夢とも、かならずしもおもいさだめられない夢のゝこした名殘はいまだに、みゝのきゝとるいわば静寂のよるの靜かをしれば正彦は、夢の鮮烈のうつゝになんのにおいさえものこさせて在らなかったのにめ舞う。
かるく。
こゝろだけが名殘に倦んでいた。
ゆるしがたいほどに、あるいは正彦はそっとひらかれた戸に悠貴のたって、戸に手をやわらかくそえたまゝに自分をみているにはき附いてゐた。
夜はいよいよに躬づからをふかくばかりする比で、明けのけはいなど匂いだにもない。
妹はすがるような手のゆびのかたちに、そしてまなざしはむしろ正彦をゆるしたようなやさしさをだけさらした。
——ね。
さゝやく。
音はない。
——いっしょに、ねていい?
なにも、雨の音は。ただ、
——さっき、
記憶のうちにだけなる。夢、みたの。と、兄のいいともいけないともの答えをまつそぶりもなくて悠貴の布團のなかにすべりこめば、忠雅は家にはいない。はゝ親は已に籍にいれられて、ときには鎌倉の新邸にかよう昼間をすごしながらはゝ子はあいかわらずに元代々木の忠雅が競売におとした家に身を寄せていた。卒業を待ってから引っ越す。あと半年ばかりのゝちに、したしみやすいとはいいがたいちゝ親との同居のはじまることをおもえば正彦は憂鬱だった。ともだちとのわかれよりもむしろ、出會われるべき兄なる男の存在をふくめて、かれがかならずしも自分になにをしでかすともないことはしりながらも。
妹はうでにあしさえもからめて丸まって、——こわいゆめ?
さゝやく。
正彦は、そして無視された自分の聲の存在をわすれかけさえした沈黙のはてに、つかれきってたえきれなかったにもおもわせて、「ちがう。」
悠貴はいった。
うでに、兄はいもうとをふたゝびにだきしめて、めをとじた。
あたゝかな發熱體はみじろぎもしないままに、寢息などたてられようはずもなくて闇をみつめたにちがいない。
てのひらに、ふれた肌はあたゝかい。
朝。
いつもにおくれて敎室にはいってきたときには、雙子の兄妹はよりそいながらに同級生の口ゝの噂話に、——ちまみれ。
正彦は知った。
「どこ?」
死。
「くいちらされたらしくて。」
——神社ってどこの?
「かわいそうすぎてきもちわるい」
——それ、ちがう。
「変質者なの?」
——八幡?
「自分で死んだとか」
——野犬とか。
「頭、反對向きなんでしょ」
——顎なかったとか?
「何日目だっけ」
——すごいよ。なんか
「泣くよね、親。普通は」
——吐いたって。見つけた人、
「殺されたの?」
——のろわれたよね。
「あそこ、歩けないね。」
——ちぎれた足、さがしてるの?
「やだ。…気持ち惡い。」
——お金ないでしょ。
「なんで?」
——殺されたんじゃなくて?…と、まばたく。
正彦はおもわずに引いたいすにすわりこむのさえもわすれて、「死んだの?」
「知ってる?」
ふいに話しかけられた美津子は嬌聲じみた聲をあげたが、淚。雙つの目のいっぱいにためられたもの。そのむこうに皐月はいまにもたおれそうな蒼白に顏中をそめて眉はわなゝく。
まるで
「誰?」
此の世のひさんのすべてをいま目のまえにみたように。
「びっくりしないで」
「春奈でしょ」
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