きさらぎの雪、54の文型と風景/雪舞散亂序……小説。□なくなみた雨とふらなんわたり川/1
以下、ちょっと前に掲載した「雪舞散」という小説の、長い序の部分です。
前の小説の主人公の父親や母親たちの物語、なので、だいたい1960年代末から70年代前半以降が舞台になります。
短い小説がいくつか連鎖してひとつらなりになる、要するにいわゆる連作長編です。
読んでいただければ、とてもうれしいです。
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上お読み進めください。
いにしへなる古今和哥集よりおもいつくまゝに撰へる
五十四の倭哥を基本文型として各ゝに戰後式のいまや
滅ひたる樣式の散文を展開させるさきの哥物かたりの
亂序をなす群像劇としての五十四の風景名をつけれは
きさらぎの雪
春
文型
哀傷哥
いもうとのみまかりにける時よめる
をのゝたかむらの朝臣
なくなみた雨とふらなんわたり川水まさりなはかへりくるかに
或る風景
振り向けばいきなりに、めのまえに少女のこと葉をうしなったまなざしが在ったそのあざやかな息遣いの氣配が壬生正彦をとまどわせた。おもいかけずにも正彦は自分さえもがその少女、望月春奈という名の同い年の女につられるともなくて失語におちたのをいぶかる。女に對する共感もこゝろの共鳴すべき親密も、もとよりわずかのあわれみさえも正彦にはありもしないのは事實だった。
十一歳の春奈はなにをもってしてもうつくしいとはいえない。おさない壬生正彦はそれとは正確にはおもいさだめられないまゝに少女に自分たちにはあきらかに差異する知性の遲れ乃至はいってしまえば赤裸ゝな欠損を見い出していた。それは周知の叓にすぎなかった。だれもに庇護されなければならない存在だった。その春きさらぎの三月に、來年度には自分たちの卒業する番になる卒業式の、演習をおわった解散の人のむれの散り散りの聲ときぬ擦れのすき間すきまに、体育館を出た校庭のなゝめにさす光は暮れかけの沈んだやわらかさを諦めたにもにてさらした。正彦のたかわらを同級生がはしってとおりぬけ、ふりかえったそこに望月春奈のたちつくしたまゝのまなざしの自分をだけみつめているのを見い出せば、戀、と。この所謂知的障碍者にはちがいないちいさな丸い女のまなざしにさらすのが、かの女のこゝろに巢食ったそれ、女たちにありふれたこゝろの思いの切なさにちがいないことは赤裸ゝにもすぎて、あえても羞恥さえしようとはしない春奈の素直に代わって正彦は羞じる。
ほゝはたゝそのまゝの色の生來の白をさらしながらも、おもわずに正彦はまぶたの奧をあからめた。女がいきなりにかれの名前を呼んだのだった。とおりすがりに卒業生との合同演習の、その卒業していく女たちが入れ違いにも知恵遲れの少女に呼び止められたやさしい少年のだれもがしるうつくしさに色のついたまなざしを投げた。いまさらの恥じらいもなければ嫉妬は无い。かの女たちは、自分たちに差異する女にたいしてさらすだけの嫉妬など、あえて意識もされない抑ゝの優越の事實が赦す餘地をさえあたえない。たゝひとみにうつったかの女のような女にもいつくしみをねげてやる少年の、稀なるほどのこゝろの清潔をあらためてもいとおしんだ。
ま、くん、と。
その、同級生たちの口になじまれた自分の呼び名がふいに春奈のくちにふれたときに、正彦はわれをわすれて立ち止まって、そして振り向けば、そこにずっとまえからにも立っていたかにもみえて春奈の、こぼれんばかりにも笑む顏の純を見い出したのだった。なにかの間違いのような氣がした。羣をぬいてだれよりも小柄で、ひとりむすめだったらしいその親のあまやかせぶりさえほのめかされるゆたかな肥満の、としに不似合いなほどの思春期じみた早熟すぎる吹き出物だらけの顏のその女が、正彦をしたしまれたともだちの口にすべき名によんだことはそれまでに一度たりともなかった。まばたき、風のふく触感のほゝにかんじられたまゝに正彦は、風の來たほうにもめをながせば滿開になりかけた櫻の正門の口を両脇からはさんだ二本の、おともつれずにざわめかせて色彩をだけゆらしたのを見る。
うつくしい。慥かにも、いまさらながらに、——なに?
振り返り見て、正彦のいつもだれにでもするようにのだれもがきゝなれてゐたにはちがいないさゝやき聲を、春奈はみゝにきゝとった瞬間にはふいに、我に返ったかにもみえたかの女はいきなりの羞恥に顏を赤變させた。
自分のはなしかける可き權利のあたえられない要するにはふとどきを自分のしでかしまったまどいがあって、顯らかにすぎる家畜じみた目の自虐が正彦に女への軽蔑といら立ちをかんじさせたのには氣づかずに、えむにゆがむだけゆがんでいた顏はなしくずしにも、とけおちるようにもいかにもみにくげにゆがんで被害者めくが、その、なんという感情をさらすのか理解のできない、ねじれるためだけにねじまげられたかの顏の無樣に正彦はたゝ不穩をさえかんじとれば、おもわずに聲をたてゝわらった。「練習しとけよ。」
正彦はさゝやく。
女がひとのこと葉を理解するとはおもえない。
「れ、」と、そしておおきく、「ん、…」はっきりと、「れん、…」
「しゅう。」顏のかたちなどなにもかえなくに、少女が自分のあとを繼いだとき正彦はこれみよがしにも聲をたてゝ笑う。「うたの、」
口。
「れん、」
くちびる。こと葉を
「しゅっ」——在校生の別れの哥の合唱の。
舌のかたちをまさぐりながらに、にもかゝわらずに少女がおそらくはいま自分の口がこと葉をはいていることにすら無自覺に正彦をだけ見つめていた一心不亂を、彼はまなざしのうちにうとましくも確認した。こゝろにさゝ波たつほどにさえ感情のなにもわかないのは何故なのか。
正彦は恠んだ。おにいちゃん、と。
なゝめによびかけれゝばその聲に、うつゝにおちた懷しさをだけかんじて振り向けばそこに立ち盡し、在り得ないものゝ凶ゝしさをみるかの色をめに険しくさせた妹の姿を見留めた。
悠貴は二人の、花村皐月と大河内美津子という名の供だちにともなわれて顯すぎるほどにも正彦をみ咎めていた。正彦は、悠貴のまなざしに自分への嫉妬を見た。かの女にとって、自分はかの女により添うてあるべきであって、そのほかのなんの可能性もあるべきではなかった。すくなくとも、そう明らかに女のまなざしは、いいわけさえ赦さない冷酷でもってまでも宣告してあからさまだった。
正彦はほゝえんだ。こゝろに、理不盡にも自分を拘束する強引を妹に赦した時に、躬づから高慢にすぎてさえおもえた喜びの感覺がなすゝべなくも彼のうちにひろがってとける。知っていた。正彦は、だれにどうゝちあけられるともなくて、雙りのこゝろとこゝろのもはやわかちあいがたくもふれあって、雙つなるまゝにけっして雙つにも分かたれようとはしないでふれあうのを、戀、と。
そうよぶしかないこゝろのふれあいは正彦のこゝろに赤裸ゝにすぎて彼は、たゝ宿命をしか見い出さない。約束の戀の永遠というものがあるのなら、それはこれ以外にありえようもなく、そのかけがえのなさがうまれおちたときには即座に自分の肌のふれあうちかくに、こゝろをかさねあって共なる時間のうちにもあってしまった事實の奇跡じみたありえなさを、ときにおもう度にも目舞う。
春奈の存在さえもわすれたのは事實だった。手招かれるとも無くて正彦は妹にあゆみより、——なんだよ。
さゝやき、
「どうしたの?」
みゝからはいって心にとけて、いき遣いはとけたまにまにこゝろをとかした。いとしい聲。やさしいうわずったアルトを皐月は、思わずにも羞じてあわてゝめをそらす。禁忌にふれたかにも、男はおとこをにおわせてうつくしく、はかないほどに華奢なからだの線は皐月をいつもなにともなくにかなしませて切ない。かれがあどけなくも清純なと、おとなたちにいわれたのはしりながら、皐月はかれらのみいだすものと自分のみいだすものとのあからさまな違いにときには不審をおぼえる。男は已に男としてたゝなまめかしい。おさなさとはなんなのか。
兄をとがめだてするまゝにいつか、悠貴のふせられたまなざしはいまさらに物おもわしげな色をさらしつづけて、軈ては躬づからの沈黙にたえきれなくて正彦を見上げれば、しらない。
云った。
正彦は、悠貴のくちびるの櫻の白に冬椿の紅のひとしずくをにごらせた色あいの、蠱惑的にもみえた氣配をあやぶんで、そのくせにかの女にだけほゝえんだめのやさしかったのは兄なる雙子のかたわれのせめてもの兄らしさの矜持にはちがいなかった。いじけるなよ。
そうさゝやく正彦をいちどは無視しかけたものゝ、すぐさまにもおもい直せば悠貴は、——ちかづかないで。
と。
ぼく?
めをほそめた。
…おまえに?
「おねがい。」
ぼくが?
「だって、」
だれよりも
「あのこ、」
おまえこそがぼくによりそわれることをもとめていたというのに?
「悪い子だから。」
言って、悠貴はながれるようにも目をそらした。
大河内美津子は、おもわずにこと葉たらずの親友に口をかす。誰も、…
と、
「だれも、はっきりとはいはないけど。このこ、泥棒なの」
くちびるの少女じみたやわらかな端に息のもれるのさえはばかられて、聲をひそめる美津子の聲にはまるで禁忌にすれすれにでもふれそうな自分をあやうぶんだ氣配があって、こともなげに笑った邪氣のない正彦をむしろまなざしにあからさまにも咎めて容赦ない。——うそじゃない。
「みんなしってるよ」
——やさしいから。
「ひとりやふたりじゃないから。だから」
——だれだって、
「べつにいじめてるんじゃないよ」
——みぶくん、すごく
「そんなわけないじゃない」
——やさしくしてあげたい。そう
「けど、いっぱい…」
——すごくね、やさしいひとだから
「ゆうきも、さっきもわたしだってさ」
——だってかわいそうなこじゃない?
「みんな。」
——だから、ああいうこみたらなんでも
「ぜんぶ、ぬすむよ。ペンとか」
——でもね
「ノートとか、文房具だけじゃなくて」
——どうじょう?
「くみとか、さいふ?」
——ちがうの。まちがい
「このこ、ほんとうはあたまいいよ」
——やさしくしちゃうの
「ずるいくらい。ぜったい」
——わるいこはけっきょく
「ばれないの」
——けど
「ひきょうなこなのかな。」
——ゆるしちゃいけないことってある
「みんなしってる」
——ちがうの
「あいつ、どうぼうだから」
——ざんねんだけどさ…
「だからあいつ、」
——まちがってる
「ちがう?」と、美津子がひとおもいに口にはじいたこと葉のむれを、きくともなくにきいて正彦はなにかいいかけながらも、とはいえその噂は正彦もきかないでも无かった。
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